パンチの独り言

(2012年4月30日〜5月6日)
(大衆車、撞着、基準、変化、回避、窮屈、節度)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月6日(日)−節度

 制限を緩めるという話が出た時に、こんな事態を予想した人は居ただろうか。おそらく、沢山居たのだろうと思う。だが、その声を取り上げた人が殆ど居なかったのだろう。だからこそ、これほど多くの人が、そんな馬鹿げた話は無いと、今になって声を上げているのではないだろうか。
 確かに、聞いたことの無い話を、今頃になって教えられても、手遅れとしか思えない。規制が緩和され、規則を遵守しない人々が参入したとしても、彼らに騙された人間には、それなりの責任があるなどとは、俄には信じ難い話に聞こえる。当然のことながら、騙した人間に責任があるに違いないし、更には規制を緩和した側の責任は重いと映る。緩める一方で、重要な基準線を設けるべきだったと。だが、規制緩和とは、そういったものを撤廃するか少なくするかして、参加者の数を増やし、利用者の負担を軽くすることこそが、唯一最大の目的ではないか。中途半端な緩和を批判した人々が、行き過ぎた緩和と批判する側に回るとなると、身勝手な行動としか思えないのだが、この世の中は被害者中心に事が進み、こういった時にも、非論理的な展開こそが、救済の道かの如く扱われる。利用料の引き下げや、多数の参入による選択肢の増大が、最大の売りのように代弁した人が、結果がまるで違う方に向かうとなると、こんな反応を催し始める。いつものことながら、後からはなんとでも言えるわけで、この繰り返しに意味があるとはとても思えない。導入当時に、反対の声を上げた人々は、既にその気は失せてしまい、便利屋のように使われることを、受け入れる筈も無い。だからといって、前言撤回を何の躊躇いも無くする人間が、何度も登場するのはもっと馬鹿げたものだろう。要するに、そんな連中を使い捨てにするやり方こそ、捨てるべきなのではないか。

* * * * * * * *

5月5日(土)−窮屈

 責任の所在を不明確にするのは、狭い世界で生きるのに重要な手段、と考える人が増えているように感じる。村八分という習慣があった時代には、周囲の目を気にして、窮屈な生活を強いられたと言われるが、今はそんなことは殆ど無い。その代わり、無責任な行動が目に余るだけのことだ。
 こんなことを書いても、無責任を感じない人々には、何も通じないだろう。昔の状態を知りもせず、窮屈なことには変わりなく、如何に生き抜くのが難しいかを滔々と説明する。その実、自分の責任は棚に上げ、他人の責任は厳しく追及するとなれば、何とも言えぬ不均衡だけが目につくこととなる。それでも、自分はちゃんとしている、と思うのは、それぞれの勝手に過ぎないのだが、それが社会的な影響までも及ぼすとなると、放置しておくことは悪い結果を導くに違いない。この状況を更に悪化させるのは、責任の所在を明確にせず、誰の罪でもないかのように振る舞う人々の存在であり、個人の責任を問えば、被害者を更に増やすとの考えからか、社会や組織といった、最終的な責任が誰に降りるのかが、はっきりしないものへと標的を移す傾向が強まる。自己責任という言葉は、その本来の意味とは裏腹に、責任を負わずに済ます為の方便として使われ、結局、誰も責任を負わない社会の形成へと繋がった。既に、それが明らかになっているにも拘らず、自らの責任が明白となるのを避け、他所へと振り向ける姿勢には変化が無い。責任の所在が判らない中で、誰かに何かを任せることなど、できる筈も無いのだろう。この辺りから、世の中の趨勢は、都合のいいものをその場限りで、という方に流れ、結果的に、衰退や荒廃といった憂き目にばかりあうこととなる。その責任は、と問うたとしても、答えは返って来ない。

* * * * * * * *

5月4日(金)−回避

 危険を回避する為の手段は、個人の責任で持つべきものだろうか。はたまた、社会制度が何らかの形で、危険を殆ど全て取り除くように、配慮すべきものだろうか。この話は、どんな背景や事情を考えても、同じ結果に落ち着くと思う人も居るだろうが、その実、様々な要素が絡んでくる。
 以前から言われてきたにも拘らず、あの事故以来、そういった発言が不謹慎ととられ、脇に追いやられてきたのは、確率を下げる為に必要となる資金が、ある線を超えた途端に、膨大となる点で、その均衡点を何処に設定するかが、社会の安全性を示す指標として、取り上げられることとなる。だが、何としてでも、安全安心を目指すべきという意見が、正当どころか、当然のものとして扱われ、それ以外の考えが抹殺されるに至り、こんな考え方は話題にも上らぬようになった。実際には、他の要因が以前から存在し、それを考えに入れぬことが、こんな考え方に結びついたのだが、恐ろしさは更なる発展の中にある。ある筈のものを無視するどころか、今問題となっているものへの関心が高まり続けた結果、それさえ除けば、絶対の安全安心が手に入ると信じるに至っては、論理性の欠片も無く、感情のみで生きる生き物を見る思いが募る。更に畳み掛けるのなら、そんな一面しか捉えられない人間が、世の中の危険を議論するからこそ、矛盾に満ちた考えばかりが、大手を振って歩き回ることとなる。人が起こす事故や事件の、本当の危険性は、起きたことにあるのではなく、起こした人間にこそある。それを完全に排除する唯一の手立ては、少し考えるだけで思い当たるだろう。だが、それをするとなれば、別の問題が生じることに、賢明な人々はすぐに気づく筈なのだ。

* * * * * * * *

5月3日(木)−変化

 何でも他人事のように振る舞う人々にとって、この国の制度も何処かの誰かが定めたものであり、自分の意思は反映されていないと映るものらしい。責任転嫁が第一とされる中では、都合の悪いことは全て自分が決めたことではなく、他人が決めたこととなり、それが守らぬ理由ともなるとすると、どうしたものかと思える。
 だが、何でも自分が決めるということは難しいばかりか、代替わりをする度に変える必要が出てくることとなり、安定的な運用は望めなくなる。こんな見方をする人は殆ど居らず、兎に角、自分の都合を最優先する人たちには、その場限りのご都合主義を掲げて責めてくる。当人にとっては、自らの信じる所による訳で、一貫しているという気持ちがあるだろうが、全体の流れからは大きく逸脱し、迷走を導くことになりかねない。制度と言っても、細かなものであれば、それが少々曲折したとしても、大した影響を及ぼさないだろう。だが、根本的なものであれば、少し曲がったとしても大きな変化を招く。それが制度どころか、国全体の仕組みの基本を定めるものとなると、揺らぎはその存在をも揺るがすものとなりかねない。時々、思い出したかのように話題になることも、一変させるような決定がなされると、何が起こるか。想像することは容易ではなく、試してみることも出来ない。そんな中で、実しやかな議論が進められ、一見妥当と思える結論が導かれることもある。自分たちが決めたものでないから、変えるのも簡単となってしまうと、こんな時、気楽な変更が可能となってしまう。変化を優先する考え方が、巷では取沙汰されて来たけれど、ここにまで適用するかは、もっと真剣に論じるべきことだろう。

* * * * * * * *

5月2日(水)−基準

 規制値が厳しくされたことに関して、反応は様々なようだ。安心が高まるという意見がある一方、以前の値の意味を考える人が居る。確かに厳しい規制が行われれば、以前の規制は緩いものと見たくなる心理は、分からなくもない。しかし、その背景も、事情も、何も理解せずに、感情的になるのは、無知をさらすだけだろう。
 悪い方に考えたければ、そのようにすれば良いだけのことだが、それを殊更に取り上げ、他人をも巻き込むとなれば、もっと慎重になるべきではないか。理解力が足らず、その為の努力もしないとなれば、意味を汲み取ることは難しい。そのことに関して、批判を受けること無く、勝手な主張をする人々は、こんな社会情勢の中では、放し飼いに近い状態におかれる。ただ単に、勝手な発言を繰り返し、周囲の人々に不安を催させるだけなら、大したことにはならない。しかし、それを後押しする形で、大きく取り上げる人が現れると、情勢は一変する。考える力の無い人間が、力を合わせることで、ろくでもない結果を産み出している、ということは、現状では、批判の対象にはなり難いようだ。その割に、馬鹿げた思いつきに振り回される人々は、途切れること無く続いて現れ、不安の声を上げ続ける。彼らとて、少し考えてみれば分かることを、直感のみを頼りに、誤解の淵へ落ち込んでいく。暫定が定められた経緯と、その期間が限定された背景、更には、新たな基準がより厳しく定められたこと、これらを合わせて考えるだけで、ある程度の範囲に、考えが絞り込める。以前から指摘されて来たように、基準は暫定的なものでも、十分な安全を保障する範囲に定められた。それをも批判する人々にとって、この世の中に危険なものは皆無という夢物語が、現実となっているのだろうか。不思議としか言い様の無い話だろう。

* * * * * * * *

5月1日(火)−撞着

 乱暴な話に応酬するつもりは無い。ただ冷静な反応を返そうとするものだが、これを読んだ人は、それぞれに全く違った感想を抱くのではないか。誰かを攻撃する気もないし、間違いを指摘するつもりも無いが、乱暴な人々は、自分たちの理解の範囲で、暴言の極みと受け取るのではないか。鏡に映る姿が見えずに。
 安全や安心の保証を求める声は、高まるばかりで、静まる気配は見えない。沈静化の方策を探す人々が居るが、そこにある重大な問題をあぶり出さないままに、表面的な解決を目指しても、徒労に終わるのではないか。発電手法の代替案を出す人々は、様々な話のすり替えを駆使し、自らの案の正当性を主張する。その背景には、安全の問題と経済性の問題があるが、仮定の話を並べてでも、現状よりはましという主張を押し通そうとする。先に到達点を定め、そこへの道筋を付ける論理構築では、どうしても様々な分岐を無視することになる。その結果、分かり易い一本道が残り、論理が完成したかのような錯覚に陥る。その実、様々な矛盾を払い捨て、無視していることに、本人は気付かぬか、そのふりをしているのだろう。経済性の問題は、更なる複雑さを孕み、一筋縄ではいかぬ筈が、手際良く不都合を横に追いやり、知らぬ顔をする。そんな中で、最も腹立たしいのは、安全の問題だろう。危険な目に遭いたくないのは、誰しも同じこと。ところが、その危険性を測る手立てに、異様さが露呈しているのだ。人に被害を与えるものは、社会には無数にある。にも拘らず、一つを殊更に取り上げ、唯一の悪者のように扱うのは、どうしたものか。人間に危害を与えるのは、人間そのものが多く、自動車事故もその一つだろう。そんなに安全を手に入れたいのなら、現代の利便性を全て捨ててみてはどうか。その覚悟無く、安全を追求するなど、出鱈目過ぎるのではないか。

* * * * * * * *

4月30日(月)−大衆車

 お気に入りのものを手に入れる為に、努力や我慢は当然ということか。かなり昔のことだが、格好いいスポーツカーは、発売当初大人気となり、何ヶ月も待たされることとなった。それでも、ドアの開け方などの斬新さから、魅力を感じた人も多く、一時的とは言え、かなりの人気を誇っていたと思われる。
 その後の展開は容易に想像できるが、購買層の薄さからあっという間に忘れ去られ、何処を探しても見つからないようだ。確かに、熱しやすく冷めやすい人々から人気を得れば、こんな展開になることは当然なのだが、そういう人気とは違うものが、最近、巷で起きているように思う。格好の良さや奇抜さなどとは無縁の、地道な感覚から来るものなのだろうが、その人気は凄まじいものらしく、何年にも渡って第一位を保っている。経済状況の変化や補助金の問題など、後押しする要素が沢山あるとは言え、これ程の人気を勝ち取るとは、製造する側も予想していなかったに違いない。だからこそ、長期間の人気にも拘らず、それを解消する手立ては大した効果も上げられず、依然として注文の列は長いままである。部品の複雑さや多さが関係しているとしても、半年以上の待ちを受け入れる人々が居ることには、驚かされる。その最も大きな原因には、仕組みの独自さにあり、他社との競合が余りないことが挙げられる。独占市場とは言い過ぎとしても、現時点では一人勝ちの様相であることは否めない。その独自性から、発売当初にはかなり注目されたものの、一部部品の耐久性などに心配の声が上がり、遠巻きの空気が流れていた。それがこれ程の人気を勝ち取れたとなれば、安全も安心も安定も手に入れたということだろうか。

(since 2002/4/3)