パンチの独り言

(2012年5月7日〜5月13日)
(蜜の味、盗み聞き、洞察、執拗、横ばい、依存、行方)



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5月13日(日)−行方

 この国は何処へ向かっているのだろうか。そんな疑問は世界各地で湧き出しているように感じられる。他人事のように振る舞っているが、そこに住む人々は自分も含めて沢山居り、将来を決めるのは自分、となっても不思議はない。だが、もう一つの不思議に、多くの人々は集まり、誰か、という声だけが聞こえてくる。
 皆が声を上げているのは確かだが、それぞれの意見は、全体の調整を考えに入れること無く、自分本位のものばかりだろう。自分が良くなれば、国も良くなる、という考え方で、その本意を貫くのであれば、様々な意見にも輝きが見えてくる。しかし、勝手気侭で、他人のことなど目に入らぬ考えでは、全体への配慮など、微塵も感じられない。民主主義が、愚民によるものと揶揄されるようになったのは、こんな考え方の偏りがあるからだろうか。もう一つ大切なことがあるとすれば、こういった制度仕組みにおいて、全員主義ではなく、代表制を敷いた国が多いことは、結論を導く為の近道を示していたのではないか。それが、根幹から崩れ始めているように映るのは、代表への権限委譲や責任の所在といったものの考え方に、大きな変化が起きたからのように思える。人気投票は、あくまでも人気によるものであり、身勝手な連中の気を惹く提案が、重視されるようになる。たとえ、約束が守られなくとも、首の挿げ替えをすれば、一気に解決へと導ける、といったことになる。責任が互いの関係から生まれるとすれば、身勝手な結果を導いたとしても、全体としての責任は生じる筈だろう。ところが、そこには全員が無責任という形しか無く、駄目なら代わりを、といった考え方だけが強まる。代表者が代表としての発言や決定をせず、自分本位に振る舞えば、壊れていくのは当然と思える。そんな仕組みを作ったのは、誰か。敢えて指摘する必要はあるまい。

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5月12日(土)−依存

 大人から子供まで、手取り足取り、懇切丁寧に説明し、教え込む事が大流行りの時代だろう。お手上げ状態でも、周囲からの働きかけにより、至れり尽くせりの人生が送れる。一見、有り難い事この上無しの状態に思えるが、果たしてそうだろうか。自立という事柄だけでなく、支え合いという意味からも、異様に見える。
 間違いを起こさないように、様々な助言を重ね、正しい道へと導く。教え育むという見方から、当然の道筋なのだが、これがいい大人への話となると、はて、と思い始める人も居る。そんな場が設けられていなかった時代、道を見つけ出せず、途方に暮れたとしても、誰も手を差し延べる事が無かった。しかし、それまでの経験を糧に、様々に考えを巡らし、解決への道を模索することで、何とか生き延びる機会を得た人が、大部分だったのではないか。窮地に追い込まれた上での努力は、地道な積み重ねとは違い、待った無しの状況での試みだけに、緊張が強いられる中でのものとなり、全く違った能力を培うこととなる。ところが、何時の頃からか、困っている人は助けられるべき、という考え方が定着し、積極的な支援が、当然の如く扱われることとなった。喜ばしいこととの歓迎の声もある一方、過ぎたるは及ばざるが如しの見方もあり、結論が得られたとは言えぬ状況にある。しかし、支援の度合いは高まる一方であることから、その要求の高まりが著しく、困った状況にあるという自覚が、以前よりも強まっている風潮があるように思われる。心配する程ではない、とする声がある一方、依存体質の高まりが、今後どんな問題を生じるのかと、不安視する向きもある。助け合いの精神を批判する気は毛頭ないが、お互い様ではない一方的な関係には、尋常ではないものが見える。

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5月11日(金)−横ばい

 拡大が永遠に続くとは、誰も信じていないだろう。しかし、何処に限界があるのか、誰にも見抜けないだけに、そこに至るまでは拡大が続く、という姿勢になるのは、やむを得ないことかも知れない。その結果、風船が弾け飛んだ話が世界を駆け巡り、その連鎖を不安視する考えが強まる。先見は何処にも無いかの如く。
 安定が長く続いた時代に、その憂き目にあったのは、まさにこの国だった訳だが、その後の展開は好転する兆しも無く、一度の破裂では済まされない、何かしらの連鎖を連想したくなる状況だろう。だが、その後の世界の動向を眺めてみると、一部の著しい成長を除き、どれもが厳しい状況に陥っているように映る。様々な手立てが講じられて来たものの、問題を全て解決するには至らず、人々の心の中には、厳しい現実を不安視し、将来を悲観する気持ちが根付くこととなった。一時的な安心を手に入れても、長期的な安定は二度と手に入らず、不安定を招く要素は、続々湧いて出てくる。短期的な手立てを施しても、所詮長続きせず、別の問題が露出して、その解決に追われる。見えて来た途端に問題となる場合、一度はそれが明らかになるから、事が起こる前の処置は出来ず、その被害を受ける人も出てくる。それらは人の心の中に影を落とし、結果的に不安が残ることとなる。どうすれば良いのか、答えは何処にも見えていない。だが、始めの問題に戻れば、果たして拡大や成長の余地があるのか、今一度原点に戻って考えてみる必要があるのではないか。頭打ちになる中で、飛び回っても、悪あがきにしかならないかも知れない。それより、これが一つの安定と見なし、その中での答えを見出す方が、気持ちは落ち着くのではないか。

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5月10日(木)−執拗

 皆と同じにすることが、安心に繋がるというのか。一人一人が、そんな気持ちを抱くことは、当然の心理だろうから、それを否定する気は起きない。ここで取り上げたいのは、一個人の問題というより、その向こう側にあるべきもの、とでも言うのだろうか、世論や人心を握っていると言われる人々や組織についてである。
 事故や事件、あるいは災害などが起きる度に、そこにある問題が大きく取り上げられる。新たに生じた問題としての注目ならば、何も取り立てて話題にする必要もないが、取り上げたものが、既に知られたことであり、後付けの論理を展開し、本質を見抜いたかの如くのふりをすると、今更という気持ちが起きる。それが更に際立つように感じられるのは、話題に上った途端に、繰り返し同じことを論じる行動様式で、まさに耳にタコができる程に、下らない論を押し付けられる。記憶に留める為に、反復は最も効果のある手法と言われるが、他人の弁は、時に逆効果を産む。聞き慣れたことで、忘却に繋がるとは、一見不思議に思えることだが、多くの例があるのではないか。一度の衝撃的な経験が、強い印象を残すのに対し、同様のものが多数並んだ途端に、印象は急激に薄れていく。まさか、そんな意図を持って流している筈もないが、自らの無能を気付かせない為、必死で上塗りを続けているのではないか。そんな解釈に関わるものだけでなく、例えば、突風が吹いた話にしても、以前から何度も指摘されて来た、天候急変の事例だろう。にも拘らず、甚大な被害が生じた途端に、挙って取り上げ、毎日のように繰り返す。また、耳タコだ、と思う人は、元々自分で注意を払っているし、聞くか聞かないかを自分で選別しているのだろう。

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5月9日(水)−洞察

 正体が知れないから、恐怖を感じる。不安とか、心配とか、並べられる度に、その対象を理解しようとしないままに、恐れ戦く姿に驚かされる。確かに、生存の為の重要な手段として、危機回避の仕組みは、知ろうとする欲望を抑える形で、働いて来た。だが、これは咄嗟の反応であり、長い時間をかける場合は、違ってくる。
 災害に巻き込まれた時、事故に遭った時、咄嗟の反応は非常に重要であり、分析に時間をかけたり、新たな情報を手に入れようと危険を冒すこと無く、より安全と思える選択をとらねばならない。情報不足を声高に訴える人が居るけれど、その場で即座の対応が必要な時には、手にある情報だけで判断を下さねばならない。この辺りの事情を理解せず、恐怖ばかりが先に立ち、すくんでしまうことが最悪の結果に繋がる。だが、危機回避には、もっと時間をかけ、熟慮の末に判断を下す場合もある。長時間に渡る危険性や、将来的な危険に対して、どのような対応をとるべきかは、即席の対応とは全く違うものになる。十分な情報収集に努め、様々な要因を考えに入れた上で、判断を下すことで、その後に起きうる事柄までも、想定に入れ込むことが、誤りを防ぐこととなる。それには、真偽入り混じった情報の中から、正しいものを選び出す必要があり、当然、理解の上で、ということが重要となる。それなりの時間をかける余裕があるだけに、こんな手順を追う訳だが、一部の不安を訴える人々には、理解の機会を放棄し、伝聞に振り回される行動が見られる。危機回避の本能だけを、機能させている状態では、短期的な対応までは問題を生じないが、これが長期化した途端に、別の問題が生じることが、これまでの経験から見えて来たのではないか。精神的、心理的な圧迫に、一時的には耐えることが出来たとしても、長期に渡る圧力に、耐えきれなくなる心の持ち主は多い。となれば、それをも避ける為の手立ては何処にあるのか、見つけるのは難しくない。

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5月8日(火)−盗み聞き

 仲間同士の会話の場が、通信の仕組みの整備によって、設けられることとなった。その便利さに飛びつき、続々と参入する人々の姿を見ると、果たしてどれほどの人が仕組み自体を理解しているのかと思う。利便性と引き換えに、何が失われ、どんな危うさがあるのか、便利を追い求める人にとっては、関心の対象では無いようだ。
 仲間と認められるかどうかを重要とする人々は、会話への参加を重視し、寝る時間を惜しんで入力を続ける。おそらく、友人の家にでも集まって、夜を徹しての会話を楽しんでいるような気分なのだろう。だが、それを盗み聞きされているとしたら、気分はどう変わるのだろう。自分の家の中に盗聴器が仕掛けられたとして、気分を害さずに過ごせる人は居ない。仲間同士の話には、それ以外の人に聞かれたくない内容もあり、気の置けない者同士だからこそのものとなる。密室の会話には、そんな楽しみもあり、第三者を扱き下ろしたり、悪口を並べることも許される。だが、通信上の仕組みには、誰もが閲覧できる仕掛けがあるからこそ、仲間を広げることや、情報を共有することが可能となる。便利さしか目に入らない人々にとって、こんな欠点は無視できると思えるのかも知れないが、秘密を守ることは出来なくなる。共有できる情報を掲示する為と、使用の範囲を限定したり、公開せずに、閲覧制限をかければ、そんな危険性を無くすことが出来ると思うかも知れないが、共有や拡大を模索する動きも封じられる。現実にそういった会話には、大した思慮も無く、思いつきを書き込む勢いがあり、利用者の道徳性が問われることも多い。対面での会話に比べ、誤解を産み易いことも、危惧されているが、話題を出す側にも受ける側にも、更には覗く側にも、様々な危うさがあるようだ。

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5月7日(月)−密の味

 無い袖を振る為には、俄仕立ての袖を取り付ければ良い。そんな声が大勢を占め、魅力的に映ったばらまきを実現する為に、振り袖のような派手さで、踊りまくった挙げ句、袖にもできぬ端切しか残らなかった。となれば、本格的に布を織る所から始めねばならない。それが増税というものなのではないだろうか。
 その途端に反対の声が上がり、暗礁に乗り上げかけている提案は、今後、どんな荒波に揉まれるのだろう。無い袖はある筈、との見解は、見事に当てが外れたと思われたが、反対する側からは、未だに同じ調子の見込みが語られる。どちらも嘘を吐いていないとすると、何処かに矛盾が生じそうだが、現実には、様々な仮定がなされており、そこから生まれる違いが原因と思われる。いずれにしても、この国だけでなく、世界中至る所で、甘い蜜の話が続々登場する。困窮が極まれば、人々は救いを求めるのが当然だが、その原因を探ることに疲れた挙げ句の救いには、何処か不思議とも思える矛盾が満ち溢れている。先立つものが見当たらない中で、次々に施しを提案することに、馬鹿らしさが感じられるのは、少しでも落ち着いた見方だと思うが、困っているという実感に縛られる人間には、そんな見方はある筈も無く、少しでも得になると映る話に飛びつく。金が天下を回る話には、循環が基本となるのだが、そんなことに思いが及ぶ人は少なく、ただ単に、手元にどれだけの金が入るのか、という考えに固執する。一方的な流れは、家計の中では異様に映る筈だが、何処か別の所での話では、何の違和感も無く受け入れるということらしい。そろそろ各国で綻びが見え始めていることからして、これらの提案が総じて底が浅く、見込みが不確かであることが、明らかになったのではないか。

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