パンチの独り言

(2012年5月14日〜5月20日)
(緩変、小声、奇矯、手持ち、的中、盲信、眩目)



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5月20日(日)−眩目

 星の動きは人間の意思ではどうにもならないものである。運命とか自然の掟に似た感覚で、それを眺め、変化を知る術を身につける。一年周期で変化するだけなら、それを見つける手段を手に入れればいいのだが、予期せぬ現象が起きた時、そこに様々な予兆を見出そうとする。そんな背景で注目されて来たのだろう。
 特殊な能力で見抜くしか出来なかったものが、科学の発達により、誰もが気軽に知ることが出来るようになる。仕組みが理解できたとしても、不思議に思う気持ちには大きな変化は無く、短い人生の中での出合いに偶然を感じることも多い。その感慨が高まれば、何処かで誰かが見ることより、自分の目で確かめる方が、大切に思えてくる。記録映画の魅力は、出合いを何度でも経験できることや、自分の経験とは違うものを見られることだが、自分自身の目で、同時進行のものを眺めることには、それらとは全く違う魅力がある。その為か、皆が挙って注目し、我も我もと集まってくることがある。今注目が集まる天体現象も、ほんの偶にしか起きないこともあり、細長い列島に暮らす人々には、身近な存在とは言い難いものだろう。そのせいもあり、また、例の如くの煽りもあり、観察に必要な道具の紹介がなされ、続々と登場する粗悪品への警戒が伝えられる。そこまでの興味は無くとも、何度も聞こえるその声に、事情が飲み込めない訳ではない。だがそれにしても、相変わらずの調子には、科学の理解不足が現れ、呆然とさせられる。送受ともに理解力が足らず、その中で注意を促すのだから、容易な筈も無い。科学と触れ合うのに、その理解が足らないとは、何ともと思えるが、それが現実なのだろう。不安要素を押し付けられた人々が、好奇心を抑えられず、覗き見した後で、失明の恐れに苛まれ、医者に駆け込むとなると、何のことかと思えてくるが、ひょっとして、それが現実になるのだろうか。

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5月19日(土)−盲信

 不安材料が並べられ、問題点が指摘される。一見、当然の行為のように見えるが、これまでの操作を疑う目には、思惑が強く感じられ、その成り行きには、期待とか不安とは異なる、何とも言い表せない気持ちを抱く。次々に繰り出される意図的材料に、一つ一つ解説と対策を講じる。無意味にも思える作業の連続だ。
 火付けと火消しを同一人物が演じるのを表した言葉がある。それと違う点は、付けて回る姿だけが目立ち、消す方は誰か他人に任せているからだろう。ただ、彼らの間での連携が、全く無いのかどうか、すぐには判断がつかない。同じ業界の人間たちが、同じ流れの中で、阿吽の呼吸で合わせた結果、そう見えてくるだけかも知れない。ただ、材料が数多ある中で、不安なものだけを選び出したり、どちらにも見えるものを、片方に結びつける行為には、疑いの目を向けたくなる。風と桶を結びつけた小咄にも、同じような援用やこじつけが連なるが、笑い話として接するのなら、大した問題も生じない。ここで取り上げているのは、人々の財産に関わる話であり、結果次第で、大きな問題となりうるものなのだ。それを皆が挙って問題視し、厳しい状況を不安な目で見つめる。だが、この状況が、誰かが準備した台本によるもので、筋書き通りの展開にあるとしたら、不安は怒りに変わるのではないか。いつも通り、そんな素振りは微塵も見せず、冷静な分析とともに、不安材料を紹介する話には、そんな背景があるのかも知れない。ただ、世の中全体にこういった不安定を蔓延させる動きには、更なる混沌への道筋を確かにしかねない、もっと大きな力が生じる可能性を、広い視野で捉えることも重要に思える。作り話に振り回されてばかりでは、どうにもならない。

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5月18日(金)−的中

 外が俄に騒がしくなる。暗いのは夜だから当然だが、時折光が見えるのは稲光だろう。遠くに見えたものが近づきつつあり、不安を抱いた人も居ただろうが、その予感は的中し、雷鳴が響くとともに、雨音が激しくなった。騒がし過ぎる程の音の主は、おそらく雹だったのだろう。凄まじい音には恐怖さえ感じられた。
 大気が不安定と毎日のように報じられ、雷雨を予報するだけではなく、突風への警戒を伝えるのは、ついこの間の災害によるものだろう。だが、その際に報じられたように、雷雨の予報に比べると、更に狭い範囲を特定する必要があり、突風あるいは竜巻の予報は、全く当てにならないものとされる。被害に遭った地域を映す映像から、その範囲が精々数百メートルの幅しかないのは明らかで、現状の天気予報の地点精度からは、全く不可能な対象であることが見えてくる。批判することしか能の無い人々からは、相も変わらぬ愚論が聞こえてくるが、それとて将来を見通す為には、果たせぬ夢と受け取らず、精進を続ける必要がある。ただ、現状は現状であり、現実は現実でしかない。それを見通す力の無い者たちが、挙って批判を続けるのは、馬鹿げた話でしか無く、そんなものに注目する必要は全く無い。だが、それにしても、と思うのは、始めに書いた天候急変について、嵐が過ぎ去った後に、警戒情報が流されるのを目の当たりにすると、これでは駄目という思いが強まる。以前も、野球中継を眺めていたら、球場がある地方への警戒情報が表示された。だが、試合が中止される訳でもなく、観客に伝えられることも無い。情報の重要性を強調する人々が、こんな光景を見たら何を思うのか。全てを与えて判断を待つ、という主張は、こんな時どう扱われるのか。

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5月17日(木)−手持ち

 与えられるものは拒まず、出すものは極力拒否する。個人の感覚では、当たり前と思える話だが、それが社会を相手としたものとなると、どうだろうか。経済を活性化する、困窮を解決する、生活を保障する、などと、次々に連ねられて、貰えるものを期待することに、異論は出てこない。だが、懐には借金の証書しかない。
 個人間の問題であれば、誰かが施しをくれたとしても、その人の財布に元手が無くなれば、それで仕舞となる。懐具合を気にする人々にとって、こんなに明白なことは無いのだが、その相手が社会という集合体になると、全く違った感覚が芽生えるようだ。金の流れを盛んにする為に、様々な施しがなされて来たが、国であれば足らない紙幣は増刷すればいい、と思う人が居るのではないか。流れるものを自分で作れるのだから、収支も無関係という考え方は、子供ならばいざ知らず、少し分別がつくようになった大人が、思いつくものではない。ところが、現代社会の抱える問題は、まさにこんな状況が続いていることで、構成員は挙って、巻き上げられそうな話を忌み嫌い、戴ける話ばかりに飛びつく。バラマキと揶揄される話も、飛びつく人間にとっては、魅力的なものと映り、話の主を持ち上げる。将来への借金を厳しい目で眺める人も、自分の懐に何かが入るとなって、嫌な気はしないのではないか。一時の欲望へと心が動き、将来という不確定なものへの目は、曇ることになってしまう。全体を見渡した形での議論は、どういう訳か進められず、此処彼処で個別の事例が論じられる。頭の悪さというのは、違う意味に使われるが、どんなに切れる連中でも、視野が狭まる環境では、その能力を発揮できる筈も無い。全体の収支を考えることさえ、忘れてしまった人々に、国家の舵取りは無理だろう。では、何をすべきか。どうする。

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5月16日(水)−奇矯

 責任の擦り付け合い、とでも言いたくなるような様相だが、実際には、責任の所在は明確なのだ。誰がどう決めるかが、これ程明らかであるにも拘らず、それが実行されないことに、ついに業を煮やしたとでもいうのか、立場上は一番下に来そうな首長が、地元の議会の決定を背景に、賽を投げたと見える行動に出た。
 とは言え、当事者たちには依然として危機感は無く、世論を背景としたと言われる、発言が続く。この状況を良く眺めてみると、責任ある立場の人々が、その意味を理解できぬままに、誰かが後押ししていると信じて、走り続けている姿が見えてくる。一見、論理に叶った話のように映るが、その実、一方的な解釈が並べられ、それに基づくあげつらいが続く。奇怪な論理に対し、真っ当な回答を導くことは、所詮無駄足に終わり、時間の無駄とも思えるが、魑魅魍魎の類いと思える人々は、自分たちの邪説の異様さには目もくれず、勝ち誇る姿を見せる。はてさて、こんなものを議論と呼ぶのか、はたまた、罵り合いというだけのことか。結論を導く為の手順こそが、重視されねばならない筈が、その道から外れた話ばかりとなれば、責任ある話し合いなど叶わぬ夢となる。これ程の強気を見せる人々は、後押しがあるからこその勢いを見せるだけに、何が後押しとなり、それを支えるのは誰か、という点こそが、この時点での重要な要素になるのではないか。何度も取り上げる愚民という存在は、こういった異様な行動をする人々の支えであり、非論理的な展開に双手を挙げて賛成するなど、互いに強め合う関係は親密と呼べるのだろう。だが、民意がこれ程に劣悪化し、物事の本質を見ようともしない風潮には、もう限界は超えてしまった感がある。同じ秤や尺度で、それぞれの関係を測った上で、比べてこそ、意味があるのだろう。ただ、異様な程強まる恐怖には、どんな尺度も当てはまらないのだが。

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5月15日(火)−小声

 他山の石という言葉は、以前誤った使い方の率が高いと指摘されたようだが、これ程までに、間違いが繰り返される世の中となると、その意味を正しく解釈しているとしても、本来の意味通りに行動できない人が居る、といった話にならざるを得ない。まさかとか、自分は関係ないとか、そんな言葉だけが表に出るのだ。
 同業種の人々が互いの利益を尊重し、結束を強める話は、本来ならば、批判の対象とならない筈だった。ところが、一部の利益が大多数の不利益を産むとなり、互いの励まし合いの範囲を超えた、明らかな談合やカルテルといった、違法行為の取り締まりが厳しくなった。頭打ちになった業績を、回復させる手立てが見つからず、損失が拡大しかねないという状況で、とらざるを得ない選択との弁明も、規則を尊重する立場から、厳しい批判の矢にさらされる。損得勘定が明確で、そこから誤った結果が導かれることが明らかであれば、こういう展開は当然と見ることが出来るが、そういった類いのものと違う社会で、仲間意識といった話が話題になっているのは、少し不思議な感じがする。研究という世界は、一般の社会とは異なり、客観的な見方が最優先され、批判的精神が重要であると、外の人々は信じ込まされて来た。何事も極める為には、自分自身だけでなく、同業者同士の切磋琢磨が不可欠と思うのは当然だろうが、そこから程遠い現状に、落胆の声が上がる。大地震に始まった災害は、その分野の人々にとっては、想定外とは言えぬものと、自己批判を始め、学会全体で反省の弁を出したようだが、この話、何処かで聞いたことがある気がする。石器の発掘において、神の手と称された人間が、賞賛され続ける最中に、その悪行をまさに掘り出した報道には、驚きと賞賛が入り混じった声が上がる一方、学界には戸惑いが広まった。疑惑の目を向けつつも、声を潜めていた人々は、自らの行動を反省し、褒め称えていた人々は、姿を消していった。鵜呑みにすることの危険性が指摘され、勢いに負ける批判的精神の問題が取沙汰されたが、今のこれとどう違うのか。はて。

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5月14日(月)−緩変

 取り上げた途端に、首を傾げる。何かが違うと感じたからだが、すぐにはその原因が掴めない。人の感覚とは不思議なもので、本体が見えなくとも、違うという感覚が先に立つのだ。紙面の刷新は、様々な機会を捉えて行われて来た。その理由も目的も、その時その時で随分と違っており、成果も異なってくる。
 気付いてから、改めて目を凝らしてみると、第一面の最上部に、これまでには無かった見出しが、大きく跨がっていた。以前のものでは、下の方に小さく掲げられていたものが、上に現れたということは、何を意味するのか、編集者の考えは、何かあるのだろう。だが、読者にとっては、全く違った感覚が芽生えるのではないか。変化を歓迎する向きと、反対する人々、それぞれに違った感じ方をしたのだろうが、変化という意味では、気付いてもらうことが第一だろう。始めに書いたように、何らかの違和感を抱くことが、変化に対する初期反応であり、そこから精査を加えて、原因を探るという行動に繋がる。気付かねば、何も始まらないという訳だ。その上で、違いの出所を探り出し、その効果の程を考える。賛同する側は、違いに対する嫌悪感より、見出しの効果を優先させるだろうが、反対側は、朝一番の所での、違和感が静寂を破ることに対する嫌悪を先に立てる。更に、こういう人々の多くは、見出しによる誘導に対して、従うつもりも無く、全体を俯瞰することを好むだろうから、その情報自体を必要としない。たった一つの変化が、どんな展開を見せるか、企画した側は、効果の程の知りたがるだろうが、そんなに簡単なことだろうか。紙面刷新で、これまでに一番大きかったのは、字の大きさの変化だったろうが、情報の多寡と読み易さを天秤にかけることに、疑問を抱いた向きもある。それでも定着してしまえば、何事も無く、という所が、こういうものの不思議さでもある。

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