パンチの独り言

(2012年5月21日〜5月27日)
(免責、無理解、御触れ、幸福度、恥辱、納得、吝嗇)



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5月27日(日)−吝嗇

 節約にこれ努めるという話が何度と無く出てくる。特に話題となったのは、政権獲得の為に無駄遣いを止めれば、何でも出来るという錬金術を披露した人々で、結果は悲惨なものとなった。自分たちの目論見が崩れ、苦肉の策として登場させた増税を、命がけでと訴えるのは、どうにも苦し紛れで、論理の欠片も無い。
 二番じゃ駄目、という戯れ言しか記憶に残らず、無惨な姿をさらした倹約術は、その見通しの甘さを露呈したが、それを収入増へと繋げる論理は、きちんと説明した方がいい。失策を詫びたとしても、理由とするには程遠く、うまい話に乗せられたと、自らの不明に気付く気配のない人々は、納得する筈も無い。冷静な説明が通じないことは、百も承知の上で、正確な説明を残してこそ、責任を果たしたことになる。その上で、不明を恥じる気もない人々の、愚鈍を後々まで記す必要はある。こんな国の行く末を案じることは、如何にも馬鹿げているように映るが、その気を無くしたらそれまでだろう。倹約、節約の繋がりで、ある地方都市の観光に関する話題に目が向いた。世界遺産との関わりからか、ネット上の情報発信でも外国語のものが必要となる。以前は四カ国語のみだったのを、倍増させる段階で、予算の削減は大きく響いたのだろう。一言語150万円もかかっていたのを、全部纏めて35万円とは驚きだが、秘策は自動翻訳、結果は悲惨と報じている。その性能の低さを今更問題にしても無駄だから、ここでは全く別の見方をする。この都市の観光案内では、実はボランティアが活躍している。案内所も国際化して、英語での説明をする人々が活躍するが、その殆どは無償奉仕である。おそらく、それぞれの言語での活動の多くは無償で、当人たちは納得した上での奉仕だろう。今回の不祥事は、翻訳後の無点検から来るものと想像できるが、もしそうなら、奉仕者はさぞ悔しい思いを抱いたのではないか。余分な経費は何もかからないのに。

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5月26日(土)−納得

 分かるように説明して欲しい、という要望が巷に溢れている。件の事故による影響が代表格だろうが、それ以外にも、多くの何故が連発されている。何故そんなことが起きたのか、何故そんな必要があるのか、何故という問い掛けだけで、納得できる答えが返ってくると思う。だが、納得する為に必要な要素は、見えていない。
 危険性に恐れを抱き、それを避ける手立てを求める。安全が第一との考え方は、そんな時に頼りになる筈だが、現実にはそれほどの効果が得られない。危険を避けることに躍起になっているのだが、その一方で、危険の本体が見えていないことに気付かぬ人々が多い。姿の見えぬ相手に恐怖を抱くのは、不安の現れとして当然のように扱われるが、その解決を求める上では、これ程の難問も無いのではないか。危ないものを並べ立てるのは、それほど難しいことではない。だが、更にその範囲を広げて、可能性のあるものを並べ始めると、実はきりのないことをしていることに気付く。絶対安全な存在は、この世の中にある筈も無く、あらゆるものが、間違った使い方をしたり、予期せぬ展開が起きることで、突然危険なものへと変わる。こう書くと、成る程と納得する人々も、自分の前にあるものへと目を移した途端、絶対を追い求める心理を表に出す。矛盾に満ちた状況も、安全を願う気持ちを重視する風潮では、一方的な情勢へと傾いていく。何が原因か、数えられぬ程ありそうに思えるが、中でも気になるのは、危険の本性を見極め、それを理解しようとする意欲の無さだろう。力の無さ、と片付けるのは簡単に思えて、解決には繋がらない。力が足りないのは当然で、そんなことは百も承知。その中で、少しでも理解を進める為の意欲こそが、重要になる。その主は、明白なのだが。

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5月25日(金)−恥辱

 常識非常識の問題なのだが、以前ならば恥の話にするだけで、事が済むことが多かった。最近の事情は、その辺りが大きく変貌し、非常識な人間が、自らの恥には目もくれず、権利主張へと繋がることになったらしい。知らないことや分からないことへの恥は、知らせないことや分からせないことの責任へと転換される。
 自分の話に夢中になって、注意喚起の声に耳を傾けず、何をすべきか分からない。そんな人間がある割合を超え、多数派となった瞬間から、主義主張が大きく異なってくる。不具合の状況を伝える為に、大声を張り上げている係員の傍で、騒がしく話をする人々に、事情が伝わることは無い。無意識のうちに、声量を上げているのは、周りが騒がしいからであり、そういう集団心理が、何故働くのかと言えば、それぞれが身勝手な行動をするからに違いない。伝えることに必死になるあまり、声を荒げて静粛を促していたら、おそらく罵声が飛び交ったことだろう。こんな状況を招いた当事者が、被害者に対して声高に命令したと、怒りを爆発させる訳だ。だが、喧噪の元は別の所にあったにしろ、喧噪の主はそこに居る人々である。何を原因と見なすかは、実は重要なことなのだが、こんな人々は自責を感じることは決して無い。こんな事例以外にも、自らの勝手な想像を膨らませ、ありもしない話を作り上げる人々は、噂の元となる話の責任を感じることが無い。その上、捏造話の責任を問われても、それをさせた原因に全ての責任を負わせる。思い込みや曲解など、自らが関わる部分の大きさは、かなりのものであるにも関わらず、こんな態度に終始するのは、やはり非常識の塊と呼ぶしか無い行動だろう。恥を感じなくなった結果、こんなことが罷り通るとなれば、それを感じさせるように強いることが、実は大事に思えてくる。

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5月24日(木)−幸福度

 世界一幸福な国が話題になったり、その順位が発表されたり、そんな話題に接して、人は何を思い浮かべるのだろう。他人の幸せを羨み、自らの状況を憂うのだろうか。それとも、他人は他人、自分は自分と言い切り、自らの幸福を独自の指標で測るのだろうか。その上で、他人の幸福に口を出す行為に、苦言を呈するのかも知れない。
 順位を競わせるのは、興味を惹く為の手段として、度々使われる。だが、幸福感とはあくまでも主観的なものであり、同じ状況にあっても、悲観的な人々が不幸を訴えるのに対して、遥かに劣悪な環境でも、楽観的な人々は幸せを噛み締める。人それぞれの感覚の違いは、客観的な指標で測ることが難しく、千差万別と表現することで片付けられて来た。そんなものに世界的な順位付けが適用されるとなり、自分たちがどう見られているのかを、特に気にする国民性からすれば、無視できないどころか、殊更に取り上げ、悲観論の強化に努める。こんなものが出されずとも、人々は他人の目を気にしつつ、自らの状況を分析する。幸せと広言すれば、どんな羨望の目を向けられるか、まずそこから始めた上で、態度を決めること自体に、情報操作の一種が施される。そんな雰囲気の下では、正直な気持ちは表明されず、社会全体の風潮に合わせる。悲観論が染み付いた社会では、どういった回答が適切と感じられるか、判断した上での答えに、大した意味は無いのではないか。だからこそ、世論調査ではなく、客観的な指標で、という意見が当然出てくるだろうが、同じ環境に違った感覚を抱く人について、どちらにしてもずれが生じる。聞かれた時には本当のことを言わなくても、自分で感じているものがあるのだから、それで十分と思うが、それでは筋書き通りと行かぬということか。

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5月23日(水)−御触れ

 掛け声だけの人には、信用は集まらない。一般社会ならば当然のことだが、ある業界ではそうでもないらしい。掛け声の質もそれぞれに違うようだが、極端な話を引き合いに出し、それを緩和する形で調整を図ることがある。一見、様々な状況を分析し、的確な対応をしているように思えるが、実情は違うようだ。
 掛け声の意味は、彼らの中では注目を集めることにあり、その為には反対の声が上がる程、極端なものの方が尊ばれる。ずっと先の姿を見せることで、道筋を明確化しているとする解釈もあるが、現実には、長い目で見たというより、単なる思いつきであることが殆どで、振り回される人々にとっては、文字通りいい迷惑といった様相だろう。注目の集め方に長けた人にとって、掛け声への反応は思う壷であり、そこから調整という、全く違った方向付けが始まる。掛け声そのものに拘る人々は、結果的に孤立することが多く、どれほど良質な提案でも、調整の無いままに押し切ることは難しい。一方、注目を浴びたい人々のものは、質の良悪など気にする風も無く、総じて劣悪なものが並ぶ。結果として、少々の調整では不十分となり、無意味な提案の完成に結びつくから、徒労と呼ぶべきものが費やされる。潔く去ったと受け取られている人も、こういう戦略に長けていたようだが、彼の残した塵の山は、今や片付ける手立てが思い浮かばぬ程になっている。その後も、同じような人気取りが続き、塵が積み上げられるだけとなるが、依然として、その問題に取り組む機運は高まらない。様々な要因が絡み、混乱の極みが近づきつつある中で、現実に目を向けぬ掛け声に、異論が激しくなるのは、ある意味健全な状況を表すように見えるが、実際には、それぞれに利害を主張するだけであり、全体を見渡し、均衡のとれた提案が出てくる状態には無い。所詮その程度の人々の集まり、と呆れてみても、それを選んだのは誰、となるだけなのだが。

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5月22日(火)−無理解

 よく判らないけど、そうだったのか。そんな思いを抱きつつ、新しい技術を目の当たりにした時、科学の不思議さ、そこから得られる知識の偉大さ、そんなものに畏敬の念を抱いていた。何時頃までこんな状態が続いたのか、今では、全く違った様相が見られる。科学は怪しいものであり、害悪の根源といった。
 何がどう変化したのか、両極端の様相を眺めても、その理由は見えてこない。唯一見えているのは、どちらについても、科学の理解は殆ど無い、という状況だろう。知識を競う社会では、どれほどを知っているかが重要となる。しかし、日常に必要なものならまだしも、一部の研究や開発に必要なものには、その力は及ばぬことが多い。その結果、新技術が製品に反映されたとき、その本質を理解できる人は、殆ど居ないことになる。この状況は、昔も今も全く変わっていない。にも拘らず、科学に対する見方が大きく変化したのは、何故なのか。知らないことを罪悪のように感じていた人々は、新しい技術の反映を、素晴らしいものと考え、明るい未来をそこに見出していた。知ろうとする意欲がたとえあったにしても、その能力の不足は自分によるものと考えていた。それに対して、現代人の多くは、全く違った見方をしているようだ。まず、科学に対する信頼や畏敬の念は薄れ、そこにあるのが当然とし、更なる夢を要求する。その一方で、科学への理解は全く進まず、そこに何があるのかについて、何の関心も抱かない。そこまでなら、大した違いが無いように見えるが、もう一歩、悪化の歩みを進めた結果、理解できないのは、理解できるようにしない人間のせいであり、自らの無知に目を向けることは決して無い。無知を恥じる気持ちが高じて、それを棚に上げることにしたのか、こんな状態になると、科学に対する見方は始めに書いたものへとなる。理解できないものは怪しく、諸悪の根源と映るのだろう。困ったものと思うのだが、どう?

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5月21日(月)−免責

 当事者たちも意識していると思うが、情報社会の中でのマスコミの存在感は大きい。以前に比べれば、様々な手段が使えるようになったとは言え、依然として、影響を受ける割合は大きく、左右された人々が戸惑う姿を、堂々と映し出している。自作自演ではないものの、こんな状況に違和感を覚えぬ人々は、自己責任と見るしかないか。
 情報を求める人の多くは、実はそれによって振り回されていることに気付かない。賢く生きる為に情報を活用し、それによって大きな利益を得ていると信じているのだろう。自己満足と言えばそれまでだが、自分が納得した上での行動であれば、他人が兎や角言う必要は無い。だが、事が起きた途端に、様相が一変する。それまで納得づくで信じて来た話を、騙されたと強調し、自らの責任は何処にも無いとの態度を決め込む。確かに、被害を受ければ、それまで信じて来た話も崩れ去り、その出所の責任を問いたくなる。更に、現代社会では被害者は一様に保護される風潮が強く、どんな発言をも許される空気が流れる。こんな保護は何の意味も無いのだが、それを主張することで、それ以前に褒め称えた態度を帳消しにしようとする。この互いの関係は、実は支え合うようなもので、互いの利益を追求し、互いの被害を小さくしようとする。だが、少し詳しく見れば、それらの殆どが一方的なものであり、小さな存在は結局ぞんざいに扱われているに過ぎない。懲りない人々は、次の賞讃の対象を見出し、飛び移っていくだけで、その度に被害が生じても、忘却の彼方へと押しやりさえすれば、何の問題も生じないとなる。アレルギーを生じた商品の広告に出ていた人は、また別の広告で同じような発言をするし、事故の影響で自らの命を絶った人の話を流すテレビ局は、自らの影響を顧みることはしない。一々関わり合っていては自由な活動は出来ないとは言わないだろうが、思っているような気はする。

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