日常の景色は、何の違和感も抱かぬ要素に溢れている。あって当然という感覚は、ある間は気付かぬものだが、無くなって初めて気付かされることになる。人間の力による景色には、建造物や手入れと呼ばれる作業によるものがあるが、その一方で、自然のもの、野生のものへの強い影響も見逃せない。
野生生物の保護は、現代社会においては最重要の課題の一つとなっているが、ついこの間までは、何の関心も抱かれないものとされた。野生のものへの影響は、人為的なものの介入により、様々な形で現れる。狩猟や採集などという直接的な関与により、これまでにも様々な生物が地球上から消滅して来たが、そうでなくても、人間がその場に踏み込むだけで、環境の変化を招き、適応できない生き物たちを追いやることとなる。その過程では、当たり前の景色の中での生き物の存在が、徐々にその数を減らし始め、ごく稀にしか見かけぬものとなり、最後には必死で探しても見つからないとなる。その途上で気付く人が居れば、所謂保護という人間の介入が行われるが、多くの場合功を奏さず、勢いを止めることも、緩めることも出来ない。国の名前が学名に使われた鳥も、随分前にその数を減らし、一部の活動が高まったにも関わらず、最後の個体が死を迎えた。移動がままならぬ動物や植物と違い、飛び回ることが可能な生き物だった為、隣の国に援助を求め、そちらでも保護の対象となっていたものを譲り受けた。一度盛り上がった保護活動への思いは、最終個体が死んだ後も残り、何度も失敗を繰り返したものの、ついに籠の中ではなく、自然環境下での繁殖が報告されている。関係者の喜びは一入だろうが、多くの人々が関心を見せ、日々伝えられる観察記録に注目する。相変わらずの捻くれた見方からは、この勢いに冷水をかけるつもりは無いが、絶滅の危機を逃れる当初から、繁殖が続き、以前の光景が回復された時、どんな状況が生まれるのか、気になる所である。日常への回帰を目指し、達成された途端に、飽きっぽい人々の反応はどうなるのか。
人々が自分の考えを持ち、信念を持って生きることに反対するつもりは無い。だが、その信念が張りぼてのように中身が無く、機を見るに敏の如く、次々に色を塗り替えるようでは、その行動を支持する気は失せ、時には徹底した糾弾の対象とせねばならない。何でも反対といった行動も、そんなものの一つかも知れない。
中央集権より、地方自治を優先しようとする姿勢が現れ、各自の判断が尊重されるようになると、途端に綻びが目立ち始めた。陳情や要望といった、注文を出すばかりで、最終決定をしてこなかった人々が、責任を伴う決断を促されたとき、先を見通さず、朝令暮改の繰り返しを行い、批判の対象とされたのだ。無責任な発言が見過ごされ、責任ある行動が棚上げとなると、そこには何の成果も期待できないこととなる。中央からの指示より、地方の決定が優先されると、全体の調整は難しくなる。このところ話題になっているがれき処理の話も、各地から不安を訴える声が伝えられるだけで、その意義や意味を説明する姿勢は表に出てこない。様々な不祥事を伝えることだけに、力を注ぐ姿勢を貫いて来た人々にとって、将来を見通して、何を優先するかを判断する材料は、如何にも刺激の少ないものと映り、理路整然と説明する手間は、つい省きたくなるものらしい。現実には、一人一人の考えの反映としての決定ではなく、全体としての選択を模索しなければならない。それにも拘らず、議論の中心となるのは、個々の尊重であり、説明責任という名の一方的な圧力となる。議論の中心となるべき人々の、理解力の無さや、頑固なまでの持論への執着など、本来は厳しい視線を向けねばならないことも、不安などという言葉で誤摩化されては、どうにもならないことになる。
人々に選ばれたことに対して、どんな思いを抱くのだろう。選んで貰ったとか、いただいたとか、そんな言葉を連ねる非常識は脇に置いても、自らの考えに対する同調ではなく、人々への歩み寄りを優先させる考え方には、現代社会が抱える病の重さを見る気がする。選ぶ人も、選ばれる人も、どちらも愚かとなるのだ。
望みを叶えることは、人々が生きる糧とするものの一つだが、世間的には、その望みが常識の範囲内かどうかが、見極められる。ただ、世間が全体的に、狂気の沙汰とも思える方に動いている中では、常識もへったくれもあったものでない。それにしても、餓鬼の集まりとも思える社会が形成され、利己的で身勝手な考え方が、何の批判も受けない時代となり、勝手な要求は高まるばかりとなると、その波に乗ることが選ばれる人々の宿命のように扱われる。毅然とした態度を見せているようで、その実、揉み手で近づく気配を見せられると、利害よりも大切なことを優先させる人々からは、冷たい視線を浴びせられるのではないか。論理の欠片も見えぬ主張を、当然のように引っ込める態度には、相も変わらぬ傲慢さだけが現れ、全体を見渡す姿勢という、あの連中にとって、最も重要となる筈のものが、微塵も見えない。コバンザメのようにくっついて回る連中は、正当化する為の屁理屈を展開し、犯罪行為の気配を見せることで、敗走に近い態度変更を、致し方ない選択のように振る舞う。そんな中で、擦り寄るしか能の無い連中は、無理難題を並べて、愚民たちの味方のふりをする。狭い視野、狭い了見、肝が据わらぬ、と並べればきりのない、愚劣な連中に、今更目を向ける価値は無いと思う。
どう表現したらいいのか、さっぱり分からない。何度も起きていることは、何処か根本的な部分で、何か大きな間違いがあることを示すが、それを的確に指摘することが難しい。それほど、社会全体が腐りきっており、病巣が急激に広がっているのだろうか。全身疾患に、特効薬は見出せそうにも無い。
症状を書き記すことはさほど難しくはない。分かり易さを追い求め、極端に飛びつく習性は、白痴化の進行と共に、急速に強まって来た。実例として適切かどうかは別にして、選挙で一人だけを選ぶ仕組みの導入や敵味方など白黒をはっきりさせる風潮は、本質を見抜く力より、上辺だけに囚われる人々の台頭を招いた。愚かな人々を誘導する為の手段ばかりが注目され、肝心要の本質には触れる気配も出ない。話し合いの場でも、極端な発言ばかりが取り上げられ、全体を俯瞰する姿勢は、態度が不明確と批判される。要求ばかりが高まる社会は、歪みが増すばかりだが、渦中の人々はそんなことには目もくれず、次の要求を考えるのに夢中らしい。自由とか権利とか、そんな言葉ばかりが前面に押し出され、責任とか義務は棚に上げられたまま放置される。何故と思う人は僅かばかりで、全体に問題として取り上げられることも無い。冷静に見れば、自殺行為とも映る行動には、何の不安も抱かないという、何とも矛盾に満ちた状況が生まれる。こんなことを書く直接のきっかけは、将来計画を議論する委員会で、何らかの不正が行われたことに批判が集中し、その結果として、一方の勢力を排除する動きが高まったという話が聞こえて来たことにある。市民参加と称する議論の場でも、以前対抗勢力の参加を疑問視する話があったが、一つの考えに固執する人を集めて、何を議論したいのか、さっぱり見えてこない。不正を否定も擁護もしないが、議論とは様々な意見の集約があってこそのものという大原則に、目を向けない社会は異常としか言いようが無いのでは。
突然席を立って歩き回る、独り言を呟き冷たい視線を浴びせられる、そんな調子で混乱、喧噪の極みとなり、学級崩壊が起きているとされた。誰も教師の話に耳を傾けず、黒板に書かれた文字は誰にも書き写されないままに消される。そんな状況に陥ったのは、教師の資質の低下によるとの意見もあるが、現実にはもう一方の参加者の問題でもある。
こんな状況を目の当たりにしたことは無いが、それ以前にも似た状況があるとの話を聞いたことがある。それは子供たちによるものではなく、大人が作り上げたもので、参観と称される行事の中で、子供たちの様子を見に来た筈の親共が、自分たちの話に夢中となる余り、授業が進められぬ程の騒音を発することになったとある。子供たちの喧噪は、親たちの行動を見れば、大体の想像がつく。そこに原因を求めれば、教員の能力低下だけでなく、その相手となる者共の関与が重要となる。自分が声を発し、他人に話を聞かせるだけなら、ひそひそ話も可能だが、多くの声が重なり、相手の声が聞こえ難くなると、いつの間にか、音量が増してくる。私語の問題は、様々な場所で問題視されるが、これは、情報伝達に支障を来すからであり、他人の迷惑を考慮しない態度に、叱責の声が飛ぶ。そこで、という訳ではないが、ひそひそ話を電子機器で行う人々が現れた。本来の目的は違う所にあると信じたいが、劣悪な人間たちには、そんなものを理解する能力は無い。結果として、雑音が出ない中で、学級崩壊が起きることとなる。誰もが机の陰に隠した画面を見つめ、指を動かし続ける。教室の前で起きていることには目もくれず、友達を失う恐怖を打ち消そうとする。悪貨が何を産むかは、こんな所を見るだけですぐに分かるが、そんな連中に手間をかけねばならない人々の苛立ちは、そろそろ極みに達しつつある。使いようの無い人間に、何かしてやる必要は無い。
自分の意見を持ち、主張する。この姿勢を重視し、ある世代に対して、教育の根幹として、施されて来た。その結果だとしたら、教育の力は絶大にも思えるが、その一方で、根拠の無い意見や持論に固執する姿勢など、知識や他人の意見を吸収する力の欠如は、教育の基本が失われた結果と映る。甚だしい偏りに見えるのだ。
中身の無い意見や曲論でも、声高に断定することで、押し通せるという状況は、声の主によるものと思われているようだが、現実には、そういった極端なものを好む風潮にあるのではないか。極端は、好きと嫌いが明確に示せ、どちらに与するかもはっきりする。だが、何事もあるかないかの議論に帰するとしては、人々の存在そのものにも、それが適用されてしまい、昔の狂気の沙汰として行われた、虐殺にも似た状態になる。分かり易さという点からは、敵味方に分かれることが、最善の選択とされるが、物事がそういった区別で測れないことは、よく判っているのではないか。にも拘らず、今巷に溢れている風潮は、全ての物事が01のどちらかであるかのように扱い、それを決めることこそが全てという情勢になっている。無理矢理が押し通せるのなら、このままでいいのかも知れないが、突然そういう状態に押し込まれることとなれば、多くの人々は自由な活動を禁じられ、社会制度の根幹を揺るがすものとなる。こんな形への変化は、徐々に起こって来ただけに、殆どの人がその原因に気付かない。おそらく、分かり易さが一番の要因だが、その一方で、目が向けられていないのは、分かろうとするかどうか、という点ではないか。正しいと信じる論を張る人々が、反論を一切拒絶する姿勢は、一見毅然とした態度に思えるが、その実、対抗する意見を理解できない実情がある。そこには、能力の無さだけでなく、分かろうとしない態度があるように思う。
情報操作を目論むのか、はたまた別の目的があるのか、非公開という言葉を見て、様々な憶測が飛び交う。だが、その後に続く映像に、目を疑った人も多いのではないか。参加者が撮影した画像が流され、事実を事実として伝える。報道姿勢として当然のように振る舞うが、秘密とは何か、考えさせられる。
根本に戻れば、これ程話題になったものを、一部の人々の中に留めるのは、おかしなことと映るだろう。だが、一方の姿がさらされるのに対し、他方は何かの意図を持って、個人が特定されないよう配慮がなされる。人権問題で常に取り上げられることだが、その中心となるべき人々の、この偏った配慮には、意図が露骨に表され、思い込みが前面に押し出される。客観的で冷静な、というあるべき姿は、何処に忘れ去られたのか、見えてくることは無く、一方的な立場の保持が、恰も正義を代表する態度のように見せつけられる。公開できぬ内容には、必ず悪意が潜むという見方は、鏡に映る姿を見る主によるもののようで、他の所で勝手気侭な言動や行動を繰り返す人々に、よく見られるもののようだ。権力者の密会を暴こうと躍起になることや、秘密裡に決まったことへの糾弾など、彼らの役割はそんな所にしかないのかも知れないが、核心に迫る動きは全くと言っていい程、見られなくなっている。この話題でもう一つ気になったのは、秘密保持に対する規制の設け方にある。契約社会では、不当正当に関わらず、書面による証明が常識となる。ここでも、不備が表面化したように見えるのは、勝手な記録だけでなく、その流出が罪の意識無く行われ、それが正義に繋がるかのような振る舞いが横行することにある。法律に守られるのは、最低限の道徳観の下であり、それが失われた瞬間に、自らの権利をも失うことに、気付かぬ愚者が、ここにも居ると思える。