パンチの独り言

(2012年6月4日〜6月10日)
(絆、やる気、優しさ、精進、侵入、謗り、鬱陶)



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6月10日(日)−鬱陶

 そろそろ鬱陶しい季節の始まりのようだ。気候は不安定なものであり、よく引き合いに出される平年とか、二十四節気のようには、いかないものであろう。それでも、いつもとは違う中で、季節の移り変わりがあり、それぞれを楽しむ人が居る。鬱陶しいのは雨のせいとしても、季節の花々を楽しめる訳だ。
 理屈では分かっているように思えても、現実に憂鬱な気分になり始めると、中々そこから脱することは難しくなる。違うものに目を向けようとしても、一度心が囚われてしまうと、目を逸らすことも難しくなるのだろう。季節の移り変わりがあることこそ、この国の特長であり、それが豊かな自然を育んでいるというのも、理屈としては簡単に理解できるが、自分がその中に閉じ込められると、全く別の感覚が芽生え、嫌気がさしてくることとなる。ただ、人によっては、この季節が一番の好みであり、極端な暑さや寒さの方が、遥かに忌み嫌う対象となる。こういう現象は、心理的な作用によるものかも知れないが、その一方で、体調によって左右される例も少なくない。湿度が高い中で、関節の痛みに悩まされ、雨の中での外出もままならぬ。そんな状態に追い込まれて、楽しさを見出すことも困難になれば、やはり、鬱陶しさだけが表に出ることになるのではないか。そろそろ気温とともに、湿度も高くなり始め、痛みを感じ始めた人も居るだろうが、目を別の方に向け、何か楽しいものを思い浮かべてはどうか。現実から目を背ける行為と映るかも知れないが、気持ちの抑揚を制御する為の方策と言えなくもない。とは言え、そんなことをぐだぐだ考えること自体、気持ちが沈みかけていることを示しているように思える。まずは、余計なことを考えず、周囲を見渡していれば、それで十分なのかも知れない。

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6月9日(土)−謗り

 予想通りの展開と言えるのかも知れない。お墨付きを要求する声に、応える形の会見は、原稿読みと揶揄されそうな雰囲気だったが、その中身は配慮に満ちていたと言えるものだろう。ここまでは筋書き通りだとしても、その後の展開は様々な憶測が飛ぶものとなっていた。ただ、結果は予想通りだったのでは。
 利害が飛び交う中で、それぞれの思惑が入り乱れる。住民の味方を装い、自らの立場を有利にしようと、口先だけの言葉が発せられる。可能性を追い求めても、結論は明確に出せず、選択肢の数は簡単には減らせない。その中での議論は、互いに歩み寄りを見せること無く、平行線を辿るのが運命づけられているようだ。逆に言えば、どんな論を張るにしろ、それぞれに価値があるように見えるから、誰しも何かを主張することが出来る。多様な議論の場を保証するのは、正常な社会の姿に思えるが、それがある決定を境に、様相を一変させる必要が出てくる。多様な選択肢の中から、一つのものを選び、そちらに向かうことを決定すれば、方向性が決まることとなる。それまでの議論とは違い、ここから先は、定まった方向の中での修正となり、対象はある範囲に留まり、正反対の意見は戯言の一つと片付けられる。こういう場面での振る舞いが、人間の質を如実に表すことは、これまでの例を見るまでもなく、明らかなことと思えるが、目立つことしか頭に浮かばぬ人間には、そんな明白さは目に入らぬものとなる。相も変わらぬ批判的な言動からは、自らの視野の狭さは棚に上げ、些末なことへの批判と、持論への固執ばかりが見えてくる。それでも人気があるから、というのでは、人の気を惹くことだけに力を注ぎ、政を疎かにする人間の愚かさだけが、見えてくるのではないか。

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6月8日(金)−侵入

 突然、画面に警告が表示される。脆弱性云々とあるが、詳しいことは解らない。こんなものを見せられれば、誰しも不安を抱かざるを得ない。だが、逆の見方をすれば、その表示が現れたのは、装備した対抗策が正常に機能したことを表す。転ばぬ先の何とかの如く、支えになってくれたのが確認された、ということか。
 改めて状況を確認すると、攻撃の元が示されている。信用できる情報ではないだろうが、その数字から出所を調べたら、中東の国が表示された。そんな所から、何を目的でと思うが、思い当たる筈も無い。更に記録を眺めたら、二日前にも同様の警告が示されていた。こちらは、隣の国からで、当然のことながら、何も分からない。ただ、こっちはその手の活動の拠点として登録されているようだから、度々報道されているような話の主なのだろう。一個人を対象とする活動は、殆ど報道されることもないが、被害の大多数はそこにある。その上、持ち主自身が対策も講じず、気がつくことも無いから、いつの間にか乗っ取られ、悪事に加担させられることとなる。最近読んだ話題の本に登場する人物は、ハッカーと呼ばれる一人であり、その能力は計り知れないものと表現される。人間の作ったものを、人間が悪用することは、さほど難しいことでは無いと言われるが、この手の話は、まさにそんな状態にある。対策も重要だろうし、監視も怠るべきではない。ただ、個人の出来ることには限界があり、人の作った物への作用は、彼らの得意とする所だけに、無理な部分も大きい。他人任せにすること無く、自分なりの構えをする必要はあるが、その上で、限界を知っておくことも重要なのだろう。

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6月7日(木)−精進

 勉強に苦しまなかった人は、まず居ないだろう。自慢話を書き連ねている人でも、それなりの努力を積み重ねたろうし、壁にぶち当たった時には、解決の道を探す為に、それまで以上の苦しみを味わったに違いない。だが、苦しんだ末に見えて来た道には、苦しみからの解放といった類いの景色は見えず、落胆したのではないか。
 苦労の果てには、何か明るい未来があると信じる人も居るが、一部の例外を除いて、そんなものはありはしない。褒美を期待したり、報酬を夢に描くことは、苦しみを忘れさせる為に、必要な要素の一つと言われることがある。確かに、課題を一つ一つ片付ける為に、目標を設定することは、大いに役立つかも知れないが、日々の細々としたことにまで、そんな手間をかけるとは思えないし、一種馬鹿げた行動にさえ思えてくる。努力や苦労という言葉は、悪い意味に使われることは無いものの、打算的なものが裏にある場合には、評価が低くなる傾向があるように思う。逆に、何があるか分からぬ中で、日々の積み重ねとして、真剣に取り組む姿勢は、こんなことを考えると、重要なものに思えてくる。ただ、現実には、日々のものより、何か特別な出来事への取り組みの方が、評価されるのではないか。一時的とは言え、かなりの力を注ぐことが、より高い評価を受けるというのは、普段は何もせず、必要なときだけ動き回ればいいという、ある意味怠惰な性格を推奨し、真面目な取り組みには目を向けない風潮を表す。火事場の馬鹿力が悪いと言っているのではないが、日々の努力より、一時の努力を評価する傾向は、余りにも偏ったものであり、まともな感覚とは思えない。様々な方法があるのだから、それぞれに正当な評価をすべきと思う。

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6月6日(水)−優しさ

 絆とか優しさといった言葉が飛び交っている。人間と人間の繋がりを考える上で、重要な要素であることは否定できないが、手を差し延べるという行為ばかりが注目され、自立を促すのを忘れ始めたことについては、目を向けようともしない。困惑の最中に助けの手が伸びれば、誰しも縋りたくなるものではないか。
 このこと自体が問題を生じるかどうかは、その後の展開にかかっている。だが、社会全体にこういった風潮が強まり、助けてもらえるのが当然となり、積極的な問題解決より、消極的な援助要求が選ばれるとなると、早晩、解決への手段を持つ人が居なくなり、皆が助けを待つ事態が訪れるのではないか。既に、自らの努力より、環境の整備が重要との見方が強まり、他力本願の考え方が、多数を占める状態になりつつある。その中で育つ人々には、一部の例外はあるものの、制度や規則の問題点を取り上げる反面、自らの問題には目を向けない傾向が目立つ。障害となるものや援助の有無など、この手のものは昔から問題視されて来た。その中で、解決への道筋には、自らの努力が第一との考えがあり、自分を見つめることが促された。しかし、時代の移り変わりは、優しさという名の堕落を与え、自身での解決への道を閉ざす動きを強めた。一見、善行の一種のように思えるが、その実、自分の地位を脅かす存在を、排除する心理が働くのではないか。ある年代の人々に、屡々見られるこういった心理は、社会の崩壊へと向かう力になって来たが、彼らの身勝手な行動とは別に、その犠牲者とも言える年代の人々は、優しさに飢え、人間関係ばかりに目を奪われるようになり、自立の機会を自ら失うこととなった。これまでの援助が全く違った意図によるものとすれば、絆は名ばかりのものとなり、優しさは逆の意味を持つこととなる。他が頼れぬものとなれば、この図式は一気に終末を迎えるだけなのだが。

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6月5日(火)−やる気

 男女平等が進んでいるから、今巷で話題とされている行動についても、徐々に変化が現れているのかも知れない。男の上司が指示を与えた途端に、女の部下が泣き出す光景は、日常的ではなかったろうが、時に見られることが昔からあった。当時は意味あるものとされたが、今では大きな騒ぎへと発展しかねない。
 ただ、男女共同云々などと掲げられるように、様々な機会を均等に与える姿勢が強まり、それにより、女性の社会進出が促進されている。それによって現れる結果には、おそらく、女の上司が男の部下に指示を与える光景へと繋がり、ひょっとすると泣き出す者が出るのかも知れない。となれば、行き過ぎた指示との指摘が出て、何らかの処置へと結びつくのだろうか。行き過ぎは認められるべきものではないが、だからといって、見方次第でその基準が動かされるとなると、行動規範を定めることは難しくなる。涙を流す行動は、様々な理由があるのだろうが、それが周囲に与える影響も、様々であろう。それによって動揺する人が居る一方で、同情へとは繋がらず、冷静な分析の目を向ける人も居る。そんな環境では、問題も拡大しないのだろうが、一様な人々の集まりとなると、場合によってはということもあるだろう。だが、その一方で、涙を見せた人のその後はどうだろう。指示を守れないとか、仕事がこなせないとか、叱責の原因となった事柄に対して、何らかの改善が見られれば、指示の意味も出てくる。だが、最近目立ち始めた傾向は、感情の変化ばかりで、自らの能力向上へと繋がらない態度に、苛立つ周囲といった図式ではないか。能力が低下して来たから、という理由を挙げる人も居るが、それほどの違いがあるのか。実は、あるのが当然と思われた意欲が、能力のうちに入れられ、それが減退したことを、こんな形で表現しているのではないか。

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6月4日(月)−絆

 人間関係の重要性を、再認識させられる映像だった。特別な立場にある人々は、その立場を利用して様々な便益を得ることも出来るだろうが、多くの場合、立場から生まれる責任を果たすことの方に力を注がねばならない。義務と責任とは少し違った様相だが、世襲制の下で、かなりの抑圧がかかる役割なのだろう。
 同じ立場にある人は、世界中を見渡せば、かなりの数となる。だが、その中での役割の果たし方、世襲という伝統の長さ、その他様々な要素を加えると、ほんの一握りの人々が、同じ境遇にあると言えるらしい。彼らはそれぞれの務めを果たす為に、日々の努力を積み重ねるのだろうが、庶民にはその苦悩が見える筈も無い。同じ立場にある人だけが、互いの理解を出来るとなれば、仲間意識とは言えないまでも、互いの関係から何かしらの答えを導き出したり、関係の深さを意識することで、幾らか精神的な抑圧を減らすことが出来るのかも知れない。とは言え、基本となる事柄の殆どが理解されない状況下では、その立場を貫き、役目を果たし続けることの難しさは、同じ立場にある人にしか分からないだろう。そんな中で、互いの関係の良好さを確かめる映像には、何か特別な意味が込められているように感じられた。特別だからこその確認の重要性かも知れないが、庶民の立場を考えると、人間関係の維持の難しさに悩み続ける人々の勝手な言動には、呆れさせられることが多い。友達という括りで、人々の分類を行い、それを基に、自らの態度を決めていく。一部の人にとって、当然とも言える行動様式だが、価値判断の基準を当てはめる行動には、人間関係とは違う要素が満ちており、利己的な思考が中心となる。これらを同じように見なすのは、かなりの無理があると思えるが、当事者たちはそんなことには目もくれず、友達を探し続ける。

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