パンチの独り言

(2012年6月18日〜6月24日)
(連鎖、見張り、不確実、中立、桎梏、お仕着せ、油断)



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6月24日(日)−油断

 気温の上下に悩まされる季節である。その上、湿度が加われば、体調を崩す人も多くなる。北の地方では、梅雨が明けるまでは暖房器具をしまわない、のだそうだが、流石にそれは、と思うのは、温暖な気候しか知らないからか。自然の営みを楽しむ一方で、こんな天候の変化に悩まされる。贅沢が過ぎる、のか。
 暖かい季節に体調を崩すと、逆に長引くという話はよく聞く。夏風邪は要注意、とは昔からよく言われたことだが、寒い季節ならば、布団に包まり、大人しくしておけば、体の調子も戻ってくる。しかし、熱が出ている中で、熱帯夜などとなると、難しくなる。幾ら気温が高いと言っても、体温より低いのが普通であり、寝苦しい夜と言いつつも、油断をすればこじらせることとなる。冷ます手立てと同時に、暖める必要のある症状では、気温が重要となる。布団の中では暑苦しく、すぐに撥ね除けてしまう状況では、調節は簡単ではない。空調を入れれば、という声も聞こえてくるが、ちょうどいい状態を作るのが難しい。最近は、様々な制御機構が取り入れられ、以前のような極端さは少なくなったとは言え、こちらの調節機構が働くことで、何とか均衡がとれている場合も多い。風邪引きにとっては、何とも過ごし難い季節だが、何とかやり過ごすしかない。特に、体力が衰えてくる年齢に達した人々にとっては、ちょっとした油断が大病へと繋がる。暖かいからと言っても、体温より低い気温では、油断禁物といった所なのだろう。

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6月23日(土)−お仕着せ

 自由と規制のことを、飴と鞭のように言う人が居る。だが、自由の裏にある責任や、規制の範囲内の自由など、一方的な解釈のみが通用するわけではないのが、少し考えたら分かりそうなものだ。不平不満を並べ立て、自らの能力や判断を棚に上げた状態に、様々な憶測が飛び交うが、結局、何も始まりはしない。
 規制緩和への声が大きくなる度に、力に見合う夢を描くことの大切さを、強く感じる。蓋が取れた途端に、爆発的な力を発揮する場合もあるが、それはほんの少しの例外に過ぎない。それを殊更に取り上げることで、同じ夢を追い求める人が次々現れ、見果てぬ夢が山積みされる。一見、正当な主張のように感じられるものも、力が伴わぬものでは、泡沫の夢となるのも仕方が無い。当事者からの要求ではなく、社会の要求に応じた形で進められた制度改革も、その多くが机上の空論と揶揄されるばかりで頓挫し、忘れ去られていく。当事者の力不足どころか、意識さえも準備不足となれば、何も成立しないのが当然だろう。公的機関の改革では、公の文字を外すことが主目的となり、改革後の組織の形に目が向くことが無かった。法人という名称は、それを自ら選んだ人間にとっては、組織の形態と一致するものだろうが、押し付けられた人間にとっては、何も変わらぬものに映る。更に問題を複雑にするのは、公でないものが、公の金を受け取ることであり、資金調達の原則を破ることが、第一の条件となっていたことだろう。各法人の自由度を上げるとする幟を立てる一方で、必要となる資金の調達には厳しい制限をかける。その上で、原資と提案を結びつける制度を導入し、管理の力を緩めぬように心掛ける。馬鹿げた発言で名を馳せた制度についても、件の例では金の奪い合いのような議論のみが取り上げられ、本来の役目への注目は生まれない。制度の関係者間の混乱が、現場の混乱を招いても、自由の保障をかざされたのでは、その気の無い法人役員には、何の対策も思い浮かばない。

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6月22日(金)−桎梏

 足枷が外されれば、何でも思い通りに運ぶ。そんな主張を繰り返し、様々な規制を次々に取り除いた結果、一体何が見えて来たと言うのだろう。一部の企業や個人が、利を稼ぐ姿は闇に紛れ、根拠の一つとされた末端の利益は、何も残らぬ。まだ足らぬとの主張で、更なる利を求める懲りない人々に、鉄槌を、と思う。
 様々な制限は、それぞれに目的を持って設けられた。だが、自らの都合のみを考える人間にとって、都合の悪いものは取り除き、有利に働くものを新たに設けるなど、規制緩和の動きには、思惑や目論見が入り乱れた、汚れた心理が覆い被さる。目的や理念に拘る人々が、毅然とした態度を貫いた時代は、遥か遠くに過ぎ去り、自利や私欲を求める人々が、少ない食べ物を奪い合う図式が、当然という時代が訪れた。こうなれば、目的や理念さえ捩じ曲げられ、意味のあるもののように化粧を施される。別の思惑に基づく行動を貫いて来た人々も、いつの間にか、利を求める姿勢が大勢を占めるようになり、公益より私利を優先させる提案を、正反対のものの如く扱う。これらの暴走の結果は、現時点での混乱や迷走に現れており、誰にも直接的な責任は無く、恰も社会全体がその選択を行ったかのように見せる。現実には、好き勝手な振る舞いを押し付け、押し通した人々に、大きな責任があることは明らかであり、大した思慮も無く、それに加担した人々にも、重大な責任がある。にも拘らず、そういった声が聞こえてこないのは、社会全体の情報操作が十分に行き届いているからであり、諸悪の根源も、それに加担した人々も、ぬくぬくと暮らし続けている。これらの騒動の大元が、何処にあるかを明らかにし、その根源を絶つことこそ、大切なのではないか。その上で、必要な規制を復活させるべきだろう。

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6月21日(木)−中立

 中立の立場、という言葉を使うのだが、意味を取り違えているとしか思えないことがある。一般に、二つの意見が歩み寄りを見せず、議論が平行線を辿る時、その間に立ち調整を図る人々を、どちらにも与しないという意味で、中立と呼ぶ。互いの意見がある考えに基づき、論理的であればこそ、のものだろう。
 ところが、この言葉を極端な考えの持ち主が使うと、その異様さに呆れることとなる。とんでもない考えとは、科学的な解釈に対して、非科学的なものを並べ立て、反対の立場を貫くものなど、論理の欠片も感じられないものだろう。この二つの立場から、二つの意見が出された時に、そこでも中立があると考えるのは、如何にも無理な話に思える。科学と非科学は、一見両極端な立場のように扱われるが、実際には、冷静な思考に基づくものに対する、狂気に満ちたものであり、どちらが正当なものかは、始めから決まっている。その中で、狂気が中立を求める話は、無理難題を突きつけただけであり、理解できない話を理解するという無理を受け入れねばならない。こんな馬鹿げた話を、真面目な顔で訴える人々に対して、権利を保障するにしても、中立の立場を設ける必要は無い。狂気に不可能は無い、という解釈は、ここでも適用できそうだが、そちらに耳を貸す必要は無い。民主主義という言葉を、こんな場面で持ち出す人々の多くは、その意味を理解する能力も無く、他人の意見を理解する力も無い。声だけが大きい人々が、様々な場面で登場する状況を眺めると、今の時代の異様さが一段と際立つ気がしてくる。価値の無いものに目を向ける必要は無いにしても、それを放置することが、これ程の混乱を招くとなると、やはりぶっ潰す必要がある。

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6月20日(水)−不確実

 確率の話は、どうにも理解されないようだ。全体の中でどの位の割合が、という話をすると、ごく普通に納得する人々が、いざ、その中の自分の話になった途端に、意味不明な主張を始める。確率は割合を示すだけであり、余程のことが無い限り、確実な話にはならない。だが、我がこととなると、それでは済まされないのだ。
 割合とか確率の話では、全体が分母となり、当てはまるものが分子となる。それにより、それぞれの人々について、それが当てはまる割合が出される訳だが、一人ひとりが我がことと思うとなると、当てはまる人はその通りだし、それ以外の人にとっては無関係となる。つまり、具体的に絞り込めば、その対象は常に当てはまるかどうか、という二つの選択肢の一つに分けられ、中途半端な数値で表される筈の無いものとなる。1か0にされるのであれば、それ以上に深く考える必要も無いが、確率の話ではそうはいかない。何故、はっきりとしてくれないのか、という文句が聞こえるのは、こういった時であり、理不尽な扱いに怒りを抑えきれなくなる人も出てくる。これを当然のことと受け取る人も居るだろうが、肝心なことを見落としていることに気付かない。確定した話で割合を出すことから、それを自分に当てはめる時も、決まっているに違いない、と思い込んでおり、不確定な話に適用される、確率に耳を傾けないのだ。分かりきった話を例として引くだけに、そこから導き出される確率が、次ははっきりしない所に当てはめられるのは、納得できないとする人も居るだろうが、そういった使い分けこそが、数字を扱う上で重要となることに思いが及ばないのは、想像力の問題か、あるいは、単に頭の出来なのか。いずれにしても、話をする方が、気を使わないといけないということか。

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6月19日(火)−見張り

 悪いことをしていなければ、何も怖いものは無い筈、と思うのは浅はかな考えだろうか。総背番号制の導入への反対は、今となってみれば、意味不明な文言の羅列に見える。それと似た意見と言うと、当事者たちから反論が出るだろうが、防犯カメラの導入にも、同じような事情があるように見える。
 犯罪を防ぐ為、という意味は殆ど成立しないが、その犯罪ではなく、長い目で見た効果のことと受け取れば、何とかなるかも知れない。記録を残すのみであり、即時的な監視をする訳でもないから、監視カメラという表現も当てはまらない。それでも、記録を具に分析することで、犯罪の主を特定することが可能となり、最近は、その効果を評価する声が高まりつつある。導入時の論争の焦点とは、かなり違った場所に話題が集中するが、防ぐことに主眼がおかれている訳ではないから、こんな結果が出て来ても不思議は無い。それでも依然として不安を抱く人も居る訳で、犯罪に加担していない人まで、無制限に記録されることに対する反発は、大きいままだろう。だが、税制の混乱を回避する為の手立てが、必要とされるようになったのと同様に、犯罪者の検挙に効果をもつ手法が、これから更に導入されることになるのは、ある意味自明なのではないか。個人情報の保護が取沙汰される中で、それと正反対の動きが速まるのは、一見矛盾したことのように思えるが、個人の保護に対する考えが、一様にできる筈の無いことに、気付かぬままに議論することは、結局、論点をずらすことにしかならないのではないか。自らを守ることには、命や生活を守ることも含まれる。その為に必要とされることには、功罪入り混じったものがあるのは、当然なのかも知れない。

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6月18日(月)−連鎖

 経済の話は理解できない、と思う人は多いのではないか。自らの懐具合は、少し眺めればすぐに理解できるのに、世界の中の動きは、じっくり眺めてもさっぱり解らない。特に難しく思えるのは、年単位の変化ではなく、日々の変化の分析であり、一喜一憂するだけでなく、その原因の不可思議さにあるようだ。
 経済の変化を示す指標は、全てを見渡すことが出来ないと感じられる程、沢山あるらしい。その中で、その度に選ばれる指標は、次々に取り替えられ、全てを代表するものが存在しないことが、推測される。ただ、分析家にとって重要なのは、原因を指摘することであり、それが真の原因なのか、単なる結果の現れなのかは、重要ではない。予想とは違い、分析は全ての結果を見て行うものであり、数多ある指標の中で、同じ動きを示したもの、あるいは、結果の動向に先んじた動きを示したものを選べる。更に、明確な動きが感じられなかった際には、心理的な要因を主原因として示せば、全てが描ききれるとなれば、怖いものなしといった感まで出る。一見論理的と見えるものも、その多くが様々な推測に基づくものであり、場合によっては、筋書きに沿うものとなるようでは、理解に程遠い存在となるのではないか。風と桶屋の話は落語の一節だが、小さな要素を次々に繋げていく話の中では、これと似た展開が進められる。共同体に属する国々の動向が、世界経済に与える影響は、その測り方により全く違ったものとなるが、その量的な割合に対して、過大評価と思えるものも多い。その多くが心理影響を主体とするだけに、また怪しげな話が語られるのではないか。

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