パンチの独り言

(2012年6月25日〜7月1日)
(貫徹、不変、安物、知識欲、対話、悪性新生物、華飾)



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7月1日(日)−華飾

 新聞は時事を拾い上げ、一纏めにして届けられる。だから、昔のものを縮刷版などで眺めると、その時代の話題に触れることができる。そのつもりで、今の新聞を眺めてみると、教育現場の話題が意外な程多いことに気付かされる。教育そのものに対するものから、それを終えた後の話題にまで、悩みは尽きないということか。
 それにしても、教え育むことに、これ程多くの話題があるのかと、感心する。基本は身近な存在から、何時頃からか、集落や地域で行われるようになり、高度な知識を相手とする為に、国の存在が大きく関わることとなった。そんな歴史の中で、過度な圧力の下、洗脳に近いものが行われたこともあるが、今は逆に、自由を基本とし、勝手気侭な選択が当然の時代となった。一見、正常な形で育まれる環境が整備されたように思えて、その実、放任よりも放置に近い状況が生まれた。自己責任が前面に出されても、それを果たす為の手立てさえ、身に付いていない状況では、無能な人を乱造しているに過ぎないこととなる。そんな矛盾が満ちるに従い、批判が強まりつつある中では、教育論議が高まるのも当然と思える。だが、ここまでの経緯を振り返れば、荒廃の現状を産み出したのも、思いつきの場当たり主義を続けた手法にあり、下らぬ遣り取りが続いているようにも見える。その中で、犠牲者然とする人々は、社会への巣立ちに戸惑いを覚え、高い壁を乗り越える手立てを模索し続ける。手持ちの札は擦り切れ、頼りなく映るだけに、切り札を手に入れようと躍起になるが、付け焼き刃に過ぎぬ考えが、簡単に通用する筈も無い。気に入られようと厚化粧を施し、心や能力にまで、何かを上塗りする姿に、魅力が感じられないのは当然のことで、そんな思考に走る人々に、同情すべきか迷う。だが、自分に正直に動けぬ人に、仕事が任せられるか、火を見るより明らかであり、小手先に走る人々に、将来が無いのは当然なのだ。

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6月30日(土)−悪性新生物

 朝のニュースは情報源として重要なものだった。ところが、何時の頃からか、ニュースが正確な情報を提供する場ではなく、面白おかしく雑多な情報を垂れ流す存在となり、下らないものを並べて平然とするようになった。そこから先は、恥を上塗り続け、無責任な言動や怪しげな映像を流すばかりとなって来た。
 これが当然の光景となってからは、芸能界の話題や政界の話題が混ぜこぜとなり、どの人間も人間とばかり、噂や憶測を並べ始めた。下世話な話は人々の注目を集める、という考え方は、愚民を相手にする時の最善策とばかり、何の疑問を抱かぬ様子だが、正確な情報に対する責任感は、無惨にも消し飛んでしまった。相互の関係から生まれた考え方とされ、画面のこちらに居る人間にまで責任を負わせようとするが、結局、彼らの質を急激に低下させているのは、画面の向こう側に立つ人間である。情報の真偽を吟味せず、脚色まで施した上で、都合の良い形で流すようになると、社会の壁蝨の如く言われる詐欺師たちと、何ら変わらぬ存在となる。結果、良識を持つ人々は、無視を心掛け、騙されやすい人々は、食い入るように見続ける。どちらが多数かは明白で、考えの正当性が証明されたように感じられる。こんなことを書いて来たのは、今朝の番組で、以前厳しく糾弾した、ある大学教授の行動を、国民から金をとり、税金まで使う放送局が、捩じ曲げた形で再び伝えていたからだ。下らぬ人間を凄い人のように扱うのは、ドラマを作り出せる人々にとっては、いとも簡単なことで、話の一部を取り上げ、筋書き通りに並べれば済む。まさに文字通り、科学研究開発における、成果の上がらぬ「癌」と呼ばれた分野で、更なる無駄がまき散らされることを、こんな形で全面的に後押しする連中は、無知の極みと呼ぶしかない。あの人物は、別の分野の研究でも、かっぱらいのようなことをしていたらしいのだから、この話は小説より奇なりと言うしか無いか。

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6月29日(金)−対話

 他人の話を聴く時に、取るべき態度とはどんなものだろうか。一言も漏らさずに聞き取るとは、よく言われることだが、実際にやってみようとすると、簡単じゃないことに気付かされる。録音機と同じ機能を発揮すれば、と思う人も居るだろうが、果たして、人間にそんな芸当ができるのかと、思えてくる。
 聞き取りながらメモを取るのも、一つの方法だが、速記術を身に付けた人以外に、全てを書き残すことは難しい。いずれにしても、文字として提示されない限り、話は瞬間的に示された後、何処かに消え去ってしまう存在だから、手元に残す為には、何らかの処理を施す必要がある。ただ漫然と聴いているだけでは無理でも、何かしらの遣り取りを経ると、印象に残ったものなど、一部を残すことが可能となる。拝聴するといった態度から推し量るに、一方的な情報の流れが重要と思われているようだが、現実に、聴くだけでなく理解に繋がることを目指せば、意見交換のような形式が必要となる。だが、講演を聴くだけの場では、相手との話は不可能であり、交換はできないものとされる。そんな所から、大人しく聴き続けることが第一とされたのかも知れないが、効果の上がらぬものとして、結局、話の途中で寝ることに繋がるだけのことだ。人間の頭は、様々な機能を持ち合わせ、意見交換も、相手の話と自分の考えを口に出さずに、頭の中だけで行える。仮想空間の対話のようなものだが、気付かぬうちにやっている人も多い。時に的外れになることはあるが、それでも、こんな形を続けることで、理解が深まることもある訳だ。考えに囚われると、その間の話が聞こえなくなる欠点はあるが、意外に効果的なようだ。まあ、話の分からない人は、自分の考えに固執し、他人の話は排除し続けるから、どうにもならないのだろうけど。

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6月28日(木)−知識欲

 理解力の無さが問題視されなくなった。力の無い人にも優しく対応せよ、との命令が下され、要求が徐々に大きくなる。無知という言葉が、謙遜にも、揶揄にも使われなくなり、それを当然とした上で、そこに理解を広げることが、一部の人々への指令となる。だが、単なる理解不足だけでなく、全く別の障害があるのでは。
 基本的な知識の欠如は、確かに大きな要因であり、それが理解への道を険しくしている。だが、そこから出る考えの中で、知らないことは分からない、といったものが、大手を振って歩き回るようになると、壁は更に厚くなってくる。新たに何かを学び取り、理解の裾野を広げる為には、それまで知らなかったことを、少しでも分かった気にすることは、欠くことのできないものとなる。にも拘らず、この考え方はそれを拒絶する姿勢を示し、柔軟性が失われ、頑さのみが残り続ける風潮を強める。持論に固執する人も大きな障害となるが、その一方で、入力を選別し、何らかの価値基準を用いて、受け入れの可否を決める人々は、正当な理解から程遠い存在となる。何時から、無知な人々の権利が、これ程大きくなったのか、そんなことを調べても、殆ど意味がないだろう。それより、それぞれの現場で、障害として立ちはだかる存在を、どう排除するかが、現時点での課題となる。無関係な事柄に、首を突っ込むような邪魔者の存在は、実際にはさほど大きなものではない。それより、組織内の無理解こそが、これらの問題の深刻さを強めている。一致団結して進むことこそが、険しい道程を考えれば、第一となる筈だが、内部の障害はそれを成り立たせない。その気の無いものを教え諭すことを重視した姿勢も、別の力の台頭により、そろそろ崩れて来たように思える。

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6月27日(水)−安物

 収支の均衡を図る為に、出て行く金の算段を繰り返した。結果、絵に描いた節約は実現できず、提案の多くは頓挫した。となれば、次に考えるべきは入る金のこととなる。誰しも、手に入る金が増えるのは嬉しいが、出て行く方は喜ばしくない。賛否を問えば、結果は火を見るより明らかだが、その理由は定かではない。
 家計を預かる人間から見れば、入るより出るが多いという状況は、異常としか思えない。日常で考えることが通用しないのは、実体がないからなどと言われるが、単に真剣に考えないからだけではないか。必要なものを提示しても、不要と言われるのなら、こういう展開も当然だが、貰えるものは無くさず、出すものは拒絶するという形は、情けないものだ。それを当然のように続けることに、何の疑問を抱かないのでは、破滅への道を歩まざるを得ない。その窮地を脱する動きが、少しでも起きたことは歓迎すべきだが、依然として、異常な考えが蠢いていることは否めない。出た金の精査を続ける仕組みも、不正を繰り返さぬ為のものと受け取られるが、杓子定規な手続きに、異論が出ていることも確かだろう。節約を心掛ける為に、同じ仕事を安く行う所を採用する仕組みも、始めたもののできなかったとなれば、安物買いの銭失い、となる。簡単な仕事だからこそ、そうすべきという意見もあるが、どんな仕事でも、不手際が起きることはあり得る。それが複雑なものとなれば、当然、できるできないの区別があり、選定基準に組み込まれねばならない。だが、安さを追い求める仕組みでは、手を挙げた人々は全て、能力を備えている前提があり、そこで選別を行えば、不正を招きかねないとされる。ただ、最重要なことは、達成することであり、その上で、倹約に努めてこそ、意味がある。こんな簡単なことが通用しない時代に、馬鹿げた考えが蔓延するのは当然なのかも。

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6月26日(火)−不変

 画面に現れる顔ぶれが固定化していると思うのは、間違いだろうか。その上、同じ顔が全く異なる役割を果たし、さっき見た顔が、無能な役から有能な人へと変貌する。それぞれに意味があるのだろうし、それぞれに思惑があるのだろうが、洪水のように押し寄せるものに対して、混乱を来すのは不慣れだからだろうか。
 元々、芝居をする人の中には、先入観を持たれることを嫌い、出演機会を減らし、役柄を増やす努力をする人が居る。固定化することで、当り役を得ることが、成功へと繋がる場合もあるが、続編が成功しなければ、何処かで変更を迫られる。その際に、それまでの成功の源だったものが、足枷へと変わり、雁字搦めに縛られることとなる。この展開の大元には、観る側の感覚があり、そこに固定観念があれば、変わることは難しくなる。ところが、最近の傾向は、安心を第一とするようで、固定は安定へと繋がることで安心を招き、何処を見ても同じ顔が出て来たとしても、同じ展開を期待することで、安心が広がると見る。安物の乱発と見る向きもあるが、それこそが重要という見方もあり、無理矢理の展開は歓迎されない。異様に思える光景にも、何処も同じで安心との見方からすれば、全く違ったものとなるのだろう。変化を喜ばぬ人々が台頭し、二番煎じを揶揄しなくなるとともに、今の状況が生まれたのだろうか。変化を当然と見ていれば、それに応じる努力も当たり前となるが、避けるものと見るようでは、逃げ回るだけとなる。今後の展開に期待する気持ちは起きないが、垂れ流しの状態が続く限り、大きな変化が起きるようには思えてこない。

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6月25日(月)−貫徹

 約束を守らねば、と言われたとしても、その主に疑念がわくようでは、その言葉の真意が見えてこない。主張の正しさを吟味する時も、発言の主への信用は、大きな影響を及ぼす。人間の心理とは、そんなものであり、冷静な判断などと言われても、それまでの印象ばかりに目が向き、結果、好き嫌いが主となる。
 感情に走ることは、冷静とは正反対の行動のように見られるが、現実には、感情を全く入れない判断は、不可能なのではないか。では、感情だけを頼りにすればいいのか、と問われれば、その答えは否となるだろう。何の情報も無く、好きなものについていき、嫌いなものを避け続ける。一部の人々によく見られる行動だが、その末路は、これまでの話を並べれば分かる程、単純なものだろう。それにも拘らず、こういう人間が減らない背景には、寄らば大樹とか、権力に与するといった感覚が、大半を占める人が多いせいだろう。彼らの多くは盲目的に追随するだけだが、一部はそれでも情報収集に努める。ただ、その結果として、主への異論を溜め込み、反旗を翻すとなると、その勇気は湧き出てこないものだ。その程度の感覚の持ち主だからこその行動だが、発言の一部には逆の意図も出るだけに、別の裏切りも常態化する。造反などという言葉は、一方から出るものだが、反対側からは、正論とか、大義という飾り言葉が出され、感覚や立場の違いのみが際立つ。だが、と思うのは、どちらにも絶対的な正当性は無く、場当たり的な行動からは、一貫性の欠如が目立ってくるからだ。ただ、そういう右往左往の行動には、解釈を施す必要が出てくるからか、情報伝達を生業とする人々からは、歓迎の姿勢が示される。本質とか、核心といった言葉が示される度に、何も見抜けない論理の脆弱さに目が行くが、当人たちは悦に入った表情を見せる。所詮、安物の芝居なのか。

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