パンチの独り言

(2012年7月2日〜7月8日)
(破談、籤引き、欠格、落とし穴、専心、七夕、芋蔓)



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7月8日(日)−芋蔓

 やっとそれらしい季節になったと喜ぶ人も居るだろうが、一方で、折角の週末が台無しと思う人も居る。季節の移り変わりを楽しむのであれば、自然の営みに文句を並べても仕方ない。だが、人間の関わりが幾つもの要素を絡めながら、天候にまで影響を及ぼすとする人は、身勝手な人間に文句を言っているつもりなのだろう。
 それにしても、人間の力がこれ程評価される時代も初めてだろう。自然の脅威という大きな存在さえ、制御できると信じ始めた時代でさえ、遠い未来のことと思われたが、今の状況は、制御とは言えないものの、影響を及ぼしているように見られている。環境破壊が悪い方に働くことは、誰もが知る所となっているが、これは単に、自然のあるがままの姿を壊しているに過ぎず、昔取沙汰された制御の話とは大きく違う。直接的な働きかけという意味では、やはり悪い方への関わりしか、目に見えてこないけれども、これらの多くは人間の驕りの結果として、吐き捨てられる。それに対して、気候変化などの微弱な影響は、逆に、人間の関わりが真の原因かどうか、明確にできていない。平均気温の上昇を、記録から検討することは、さほど難しくないものの、長期的な変化が取り上げられるような形で進んでいるのか、確実なことは言えない状態にある。更に、大気の状態の変化を原因とする見方も、様々な提案の一つに過ぎず、確実さは取沙汰される程の域には達していない。こんな状況を背景にし、季節の変化に文句を並べる人が出るのは、当然のことかも知れないが、それにしても、長い期間を経た変化に対して、今の人々の前に並ぶ苦言は、何処か的外れに見えるのは何故だろうか。

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7月7日(土)−七夕

 年に一度、出会いが演じられるが、肝心の星たちは雲に隠れて見えず、肩透かしを食わされた気分となる。何故長雨の季節に、星たちの物語が演じられるのか、不思議に思う人も多いだろう。こんな形で季節と謂れのずれが感じられるのは、その殆どが旧暦、新暦のずれを発端とする。季節の移ろいがあればこそ、か。
 四季の変化を楽しむことが、この国に住む人間の特権と言われる。寒さ暑さの真っ只中では、嫌気もさして来て、いい加減にして欲しくなるものの、暫く我慢を続ければ、いつの間にかがらりと変わることで、ほっと一息つける。季節の移ろいが無い地域では、変化を心配する必要は無いが、一方で、代わり映えのしない毎日と付き合う必要が出る。どちらが嬉しいかは、人それぞれだろうが、表現の多彩さに現れたように、この国の人々は、変化そのものを楽しんで来たようだ。だが、月を中心に据え、季節の移り変わりを表現して来た歴史が、太陽がその座を奪い、世界共通の考え方が導入された途端に、大きな変化を受けてしまった。あれはあれ、これはこれと、区別して扱う姿勢がある一方、杓子定規に月の名前を押し付けて、本来の季節の変化を無視する動きは、強大な力を発揮した。今では、後者が中心となっており、違和感を抱きつつも、仕方なく使う人も多い。だが、季節を楽しむのなら、人間が作ったものに振り回されず、目の前の自然を楽しめば良いのではないか。それができない程の力が加わっているとしたら、全く余計なお世話というものだろう。たまには、古い暦を引っ張り出して、その意味を感じ、楽しむのも一興ではないか。

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7月6日(金)−専心

 効率を上げる為とは、如何にも役立ちそうな掛け声だろう。だが、そこから、最低限とか最小限といった言葉へと繋がり、広げることより絞り込むことに力を入れるようになると、ある目標に対しては、的確な対応と言えるのだろうが、その後の展開へは繋がらず、頭打ちに似た現象に陥る人々が頻出する。
 傾向と対策は、効率向上への近道として、専ら注力されて来た。元の事象が絞り込めず、広がりを維持する場合には、対策も絶対的な効果を望めず、ぼやけた印象が残る。だが、多くの事例では、広がりを維持することが難しく、一部に集中する傾向が見られることから、絞り込んだ上での対策に効果は望める。この傾向が強まるにつれ、対象の絞り込みは、最低限や最小限へと落ち込み始める。能力の活かし方には、様々な形がある筈だが、特に効果を上げたのは、対象の数を減じることであり、反復の効果を上げる最良の策は、その対象を絞り込むことにあり、反復の回数を増やすこととなる。一見、実力を身につけさせたと映った手法も、それしかできない人間を目の当たりにすると、実力への疑いが深まるばかりとなる。力を測る方法として、様々なものが考えられるものの、現実に使われているものには、対策済みのものが多い。結果として、見かけの力に惑わされ、限界にまで高められた力を見ることで、その後の発展発達を見極める手立ては失われていった。現場では、何故と思える事象が次々起こり、問題を抱えさせられているのだが、その原因を究明しようにも、大元はそこには無いだけに、無駄な努力となる場合が多い。困った人々を前にしながら、対策が見当たらないのは、どうにもならぬことかも知れないが、結局、一部の人の改善に繋がる手立てを講じるしか無いようだ。

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7月5日(木)−落とし穴

 他人との付き合いは、所詮騙し合いである。こんなことを書くと、大仰な話になりそうに思えるが、現実には、そんな風に見られていることが多い。昔で言えば、お見合いはその代表格だったし、今はと言えば、厳しい就職戦線がそう見られている。嘘を吐いてでも機会を得たい人は、嘘に塗れた人生を歩むつもりか。
 何よりもまず、機会を得ることが第一、と考えるのが悪いとは言わない。だが、その為に、何をしても良いとなっては、正当な選抜と呼べなくなる。必死になる人に意見を求めれば、採る側も同じように嘘で塗り固めているのだから、という返答が戻ってくるが、自分の行動を考えるのに、相手のことを引き合いに出すのは、どうにも解せない。気に入られることが最優先とは、まるで結婚相手を見つけようと躍起になる人の見合いのようなものだが、その後の長い付き合いを考えると、騙すことが必ずしも得策には思えない。軽い嘘だから、との言い訳にしても、それを重ねることは、信用を落とすばかりだし、それが仕事の上で出てくれば、雇い主の責任も無視できない。こんな考えを披露しても、渦中の人々は耳を貸さず、あらゆる手段を使ってでも、という態度は改まらない。前線でのこんな行動に目が向くが、実は、戦いに出る前から、彼らの行動には、こんな傾向が溢れているようだ。友人関係一つ見ても、互いを傷つけず、気遣いを見せる行動には、自らの本意を抑え込み、関係の維持に腐心する姿が見える。友達作りに励む人々の、心理的不安定は何度も問題となるが、根源的な原因へと話が及ぶことは無い。気のおけない、という表現を使える友なら良いが、気遣い満載の関係に、どんな意味があるというのか、不思議に思えてならない。そんなことで自己崩壊を繰り返すなら、邪魔な友を切ることこそ、治癒に繋がるのではないか。正直が忌み嫌われる時代には、こんな考えはまさに異端なのだろう。

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7月4日(水)−欠格

 主義主張を持つことが重要と教えられた人々にとって、今度の茶番劇はどのように映ったのだろう。主義を通す人に同調する人々は、どんな主義があるのかと思いたくなるが、そんな質問をする無礼者は平穏な社会には居らず、真意を掴むことはできない。各人独自の考えも取り上げられず、ドタバタ劇が演じられる。
 造反や裏切りなどという言葉が飛び交うが、組織の一員としての資格喪失という見方は少ない。自らの主張に固執し、調整を怠った結果が、目論見外れに終わったとしても、その責任を外に求めるだけの感覚には、信頼が寄せられることは無い。この展開に対して、更なる嘲りが浴びせられたのは、造反に造反が加えられたことではないか。裏切り者を裏切る行為に、どんな意見が寄せられるのかは、今後の成り行きを見守らねばわからないが、委任状に似た存在を破り捨てる行為に、信頼を論じるより、常識を疑う方が先に立つ。だが、この時代には、この手の行動が屡々見られ、昨日までの非常識が、今日には常識になっているかの如くの様相を呈する。微妙な考えの違いが背景にあるとの言い訳も、同調し、任せた行動の説明にはならない。保留することもできず、勢いに任せた行動との見方も、非常識を正当化することはできない。烏合の衆の集まりとは、直後から指摘されたことだが、その職に必要となる能力の欠如より、人間としての最低限の資質の欠陥は、彼らの抱える問題の大きさを実感させる。お山の大将を誇る人間と、寄らば大樹を体現させる人々、その脇で、欺瞞発言を繰り返す元人間にマイクを向ける人々、何と、この国の政治はお寒いことか。

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7月3日(火)−籤引き

 弱い者は保護される、そんな考え方が悪いとは言わないが、弱者は必ず被害者であり、被害者を保護しなければ、という考えに繋がるとすると、そこに大きな矛盾が生まれる。この考え方を危険と見る向きからすると、害を被る原因とか被害の可能性を取沙汰する風潮に、異常さが際立ち、論理の崩壊が見えるという。
 弱者保護は成熟した社会が取り組むべき課題であり、それを蔑ろにしたままで社会制度を維持することは難しい。だが、弱者が権利主張を繰り返し、違法とも思える形で援助を求めていることが明らかにされ、批判の矢が飛び交うようになると、真の弱者とは誰のことか、という問題に目が向く。権利ばかりに囚われ、金を追い求める人々は、保護が必要な「弱さ」ではなく、権利を誇る「強さ」が見えてくる。この図式は、他の場面でも目立ち始めており、被害者という言葉に飾られた主張が、様々な形で突きつけられている。安全の問題もその一つであり、危険にさらされた人々が、それを追い求めることは、当然の権利と見なされる。だが、間近で確実な危険に直面している場合を除き、そこにある危機は以前よりその可能性を増したものであり、確定的な捉え方をすることはできない。そんな事情から確率という数字が活躍することとなるが、安全が安心へと繋がる心理的影響は、数値で表現できないものとなり、この手の議論は平行線を辿る。利便性の追求は、欲望を満たすことへと繋がり、それによる危険は、仕方が無いものと片付ける。ここでも、感覚的な扱いが優先され、数字が活躍する場は存在しない。こんな日常に慣れきった人々にとって、危険の度合いを測る手立ては無く、単に不安の一言で全てが片付けられる。被害が及ぶ前に対策を、という意見にも、論理の欠落が目立ち、現実との乖離が広がる。危険を確率で測り、それを比較してこそ、意味ある議論が始められるのではないか。

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7月2日(月)−破談

 公約という言葉は既に忘れ去られ、別の表現が使われるようになった。といっても、そこに期待があることには変わりなく、魅力的な提案に興味が集まる。だが、呼び名を書き換えたとしても、その中身や実現性には大した変化は無く、評判の凋落は以前と同じように起こる。まるでそれが約束かのように。
 そんな慣習をぶち破る姿勢を示し、その貫徹を目指した人々は、約束を果たすことを最重要と掲げる。嘘吐きと呼ばれ続けた人々が、それに対する反発として始めたとしたら、何とも初心な話に思えるが、あの連中がそんな素直さを持つ筈も無い。となれば、どんな思惑が潜むのか、真意を掴むことが大切と見る向きもある。だが、所詮、あの程度の人々と見なし、この見せ物に目もくれぬことも、実は大切なのではないか。本来の主題である事柄に、目を向けることを忘れさせ、ろくでもない遣り取りに時間を割くことこそ、無駄の極みであり、大事を忘れてしまっては、あの連中の思う壷に思える。買い物をする度に奪い取られる金額が増えたとして、それがどんな影響を及ぼすかは、すぐには見えてこない筈のものである。にも拘らず、答えが自明であるかのように扱い、悪化の一途である筋書きを紹介する声が強まるのは、何か別の意図があるように見える。一方、同じように収入を増やす手立てとして、もっと確実な方法もあるのだが、そちらに話題を向ける人は殆ど出てこない。支出を減らす命題に依然として取り組み人々は、ついに、一部の給料を削減する方策を講じたが、渡したことにして、取り戻すやり方と、渡すのを止めることは、同じ金額を確保するにしても、随分と違った印象を残す。感情に訴える約束を並べる人々が、その一方で感情を逆撫でする行為を始めることに、違和感を覚えるのも一部に過ぎないだろうが、答えの見えないものに、何故これ程の手間をかけるのか、さっぱり解らない。

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