パンチの独り言

(2012年7月9日〜7月15日)
(新発見、異端、査問、器量、咀嚼、寝落ち、変わり身)



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7月15日(日)−変わり身

 依然として、被害者の天下が続いている。本来は、害を被ったからこそ被害者なのだが、その後の展開に注目が集まる時代には、以前とは全く異なる様相を呈する訳だ。その中で、滑稽とも見えるのは、被害者の座るべき椅子を奪い合う姿で、加害と被害が入り混じる混沌とした光景が現れる。どうなってしまったのか。
 極端な書き方で始めたから、最初の部分が怒りを買ったかも知れない。だが、騒ぎの渦に巻き込まれず、対岸の火事を眺めるようにすると、こんな感想を抱くのも異様ではないだろう。そんな異常な状態が、情報伝達の仕組みを巧みに辿って、広がっていく。こんな社会を正常と呼ぶ人は居ないと思うが、渦中の人々は生け贄狩りを続けるが如く、次々と加害者という名の怪物を捕まえていく。だが、その騒ぎが落着きを取り戻すと、いつの間にか、加害と被害が入り混じり、誰がどちらに属するのか、全く分からない状態になる。一時の盛り上がりは、冷静さを失わせ、ギラギラと目を光らせて、獲物を追い続ける人々を映し出す。個人情報の保護という、勝手な解釈の横行が、こんな行動を増長させていることに、狩りに手を貸していることに、当事者たちは気付かぬふりを続ける。被害を受けた人々を温かく見守ることに、異論を唱えるつもりは全く無いが、害を被るより、害を振りまく人々に、もっと厳しい対処の仕方があるように思うだけだ。冷静な判断を、渦に巻き込まれた状態で下すのは、容易なことではないけれど、渦の外で眺める人が、冷静を保てず、勝手な判断を下すのは、罪深いことと言わねばならない。こんな簡単なことが、と思っていても、画面の向こうでは、それさえできぬ人々が闊歩、放言する。

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7月14日(土)−寝落ち

 外国人がこの国にやって来て驚くことは、文化の違い、歴史の美しさ、色々沢山あるだろう。でも、中で異色なものは、何と言っても電車の中の光景ではないか。暑い今は少なくなったが、背広を着た大人たちが、漫画を読み耽る姿、今やこの国を代表する文化となったものだが、昔の子供たちが今でも浸かっているようだ。
 もう一つの有名な光景は、眠りこける人々の姿だろう。手に荷物を持ち、網棚に荷物を置いた上で、何の心配も無く眠るのは、安全の証と言われることもある。盗難などの犯罪がまれで、周囲の目が気になることから、多くの乗客が居る場所は、自宅同様に安全と見なされた。だが、そんな時代は遠い過去となり、不審者を訝る視線は消え、安全は神話となっていった。だから、もう睡眠を貪る人は居ない、かと言えば、とんでもない。今も、多くの人々が一時の休息を楽しむ。何故眠るのか、と尋ねてみたら、おそらく、電車の揺れに誘われて、いつの間にか眠りに落ちてしまった、と答えるのではないか。それほど、この国の人々は寝るべき時間だけでなく、他の時間にも眠りに落ちるのだ。それは、何も規則的な揺れに誘われるからなのではなく、会議や授業など、人の話を聞いている最中にも起きる。これも、何故と問えば、話がつまらないから、とでも返ってくるのだろうか。だが、肝心な話でも誘惑に勝てぬ人を見ると、単に話の内容によるものではない、となる。眠りに落ちる習慣が、この人種にはあるとするのもいいが、別の国に育った人を見ると、どうも当たっていないようだ。文化とは、余りに大上段となるが、何かそれに似た、この国の風土に基づく行動なのかも知れぬ。仕方無いとの見方があるが、肝心な情報が伝わらないのは問題だ。許す空気があればこそ、となれば、それを許さぬ気配を作り、厳しく当たることが必要か。

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7月13日(金)−咀嚼

 噂を信じるかどうかは本人次第、という言い方が度々聞かれるようになった。自己責任と一言で言ってしまうが、その噂を流す人々の責任は、何処へ行ったのか。「こんな話を聞いた」とか「誰それが言っていた」とか、そんな話の多くは、根も葉も無いもので、時に、誰と挙げられた人を被害者としてしまう。
 子供から大人まで、何故と思わざるを得ない程、噂話に首を突っ込み、真偽を見極めること無く、情報の洪水に巻き込まれ、流される。これが人間の性であると言いたくなるのは、渦中の人々だけでなく、外に居る人たちまで、ガセネタとしか思えないものに振り回されているからで、冷静に眺めていれば、信じ難い程の従順さを見せる。ある程度の勢いがついてしまうと、人は鵜呑みを繰り返すのみになるらしく、咀嚼をする感覚は失われる。それをすること自体に、責任が伴うとの意見は、現状を眺める限り、通用しないものに映る。つまり、種々雑多の人々が、伝達の仲介を繰り返し、真偽の判断を下すこと無く、噂の広がりに力を貸しているのだ。吟味力を各人に期待するのは、強いたものではないのは確かだが、仲介者に責任が無いと言いきるのは、明らかに間違いである。顔の見えない仲介者が、電脳世界で活躍する仕組みが取り入れられ、惑わされる数は増え続けているが、その下地となったのは、実は公共電波の世界で、社会的信用を得た人々が、嘘をまき散らして来た所にある。滑稽に思えるのは、伝達者として頼られる立場を守る為に、疑義の塊としか思えない電脳世界の情報を、挙って紹介する姿をさらしていることだろう。広告主の顔色を窺う人々が、噂を流すのは勝手だが、国民一人一人から料金を集めて、根も葉も無いものを流すのは、詐欺と変わらないのではないか。

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7月12日(木)−器量

 器の大きさが話題に上ることが少なくなった。一時は、過去の偉人たちの人間性を紹介し、その大人物ぶりを伝えることが多かったが、最近はその手の話がとんと流れなくなった。これは、偉人の偉大さに変化が起きたからではなく、無い物ねだりが長く続き、現実感が乏しくなったからなのではないだろうか。
 歴史を作る為には偉大な指導者の存在が不可欠、という考え方が一般だった頃には、次の指導者を見極める為にも偉人の話が重要だった。ところが、何時の頃か、それぞれの勝手な考えが合わさり、自然発生的に方向が定められる、といった考えが主流となり、誰が決めたものでもない道筋が、浮かび上がってくるといった感覚が、大勢を占めるようになった。経済の問題での市場の役割は、まさにそれを表したものと思われるが、逆に見れば、この種の考え方が如何に怪しげなものか、という点についても、経済同様明らかになりつつあるようだ。全体主義の台頭が、この事態を招いたとする向きもあろうが、それより重要で深刻に思えるのは、指導者候補の欠乏だろう。器の大きさを競うことも無く、それが取沙汰されることも無くなったのは、結局、そういう人物が現れないことの証拠となる。次々に入れ替わる頭には、その資格も資質もない人々が数多居たが、それでも急場しのぎができる程、安定した時代が長く続いた。そのうち、急場が常態化し、誰が何をしたのか、興味を持たれることも無い時が流れた。こうなれば、あるべき姿が論じられることも無く、逆に、如何に肝っ玉が小さく、自分中心で身勝手な人間か、といったことに目が向くこととなる。大器晩成などという言葉も、最近、聞かれなくなったことも、器の大きさを問題としない世相を反映しているのかも知れない。小さくまとまれば良かった時代が、小さいままに乱れる時代となり、視界不良は続く。

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7月11日(水)−査問

 人災だったとの判断が下された。当然の結果として受け取られているが、予想通りだったからと納得するのはどうだろう。様々な指摘に対し、対応を怠ったのだから、人災とすべきという論理は、妥当過ぎるものだが、では、事故の原因はそこにあったのか、それとも、別の要因は些末で、取り上げる必要がなかったのか。
 そういう問題を更に追及する勢いの他に、外野の参加が悪化を招いたという結論を求める声は、静まる気配を見せない。責任ある立場にあった人々を、批判の対象とした時、いつもの如くに勢いを増す人々は、自らの責任にはとんと疎い人種らしい。責任は何かを任された時に生じるものの筈だが、こういう遣り取りの中では、犯人探しの為の追及ばかりで、真の原因追及に至っていないことが甚だしい。事故の原因を特定することは、依然として難しい状態にあるものの、その背景にある要素に関しては、かなり多くのものがあぶり出された。その結果としての結論が出された訳だが、現実には背景の色が塗られただけで、主題となるべき対象は、まだ描かれていないように思える。一方、塗りかけた絵に横から筆を入れられたとする話も、それが指導的、修正的なものなのか、はたまた破壊的なものだったのか、その判断も容易に下せないようだ。大勢と異なる見方をすれば、あの程度のことで済んだのだから、原因は兎も角、対応は一部妥当だったとすることも可能だろう。極限状態の最中で、究極の判断がなされた際に、どんな要素がどう絡んだかは、簡単には解きほぐせない。にも拘らず、予断に満ちた考えを押し付けるかのような動きに、総じて加担する人々は、やはり知性の欠片も無いとしか思えない。究極の判断と冷静な分析、相容れない所があるが、それがぶつかってこそ、真相が明らかになるのでは。

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7月10日(火)−異端

 自分たちは悲劇的なシナリオの中にいる。この国には、こんなことを信じている人が多い。主人公になりたいという気持ちは無いだろうが、悲観的な見方が大勢を占める中で、自らの立場は悪い筈と思うのではないか。しかし、泡が弾けたあの時代でさえ、他の国々に比べて、ずっとましな生活を送って来たのだ。
 踊り狂う中で、急に音楽が止められたような、そんな落胆に似た経験は、人々の心の中に大きな傷を残した。しかし、その傷が利己的な見方に基づくものであり、他との比較が無視されていることに気付く人は少ない。この所の景気後退に関しても、自分たちの事情は低く見る一方で、他の事情は軽く見るか、場合によっては無視し続けている。井の中の蛙をまさに地でいく様子があるが、そういった身勝手な考え方が、自分たちの社会の維持を第一と考え、全体の均衡を棚上げする気分から出たものであるとすれば、井戸の中が快適であれば、それで良しとするとなる。一見、利己的な考え方のように見えるものの、現状を眺めると、何が基本となっているかは別にして、全体として無難な動きを続けていることは確かだろう。不安定な状況に陥っている国々では、今のこの国で自分勝手な行動をする人々と似通った人が、権利を主張し、被害者然とした行為を繰り返す。将来の自分たちの姿と思える部分もあるが、この国の場合、同じ道を歩むようには思えない。理由を明確に、論理性を持って伝えることは難しいが、どういう訳か、全く違う気質が表面化するように思えるのだ。ただ、個人主義の台頭は、流石にこの国でも様々な歪みを来たし、病いにも似た症状が現れ始めている。それを食い止めることができるのか、はたまた、違った道を歩むことになるのか、現時点では、何も見えていないが。

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7月9日(月)−新発見

 新発見に沸くニュースが伝えられる。予想されたにも拘らず、その存在が確かめられず、その為に必要な施設の建設が、分野の研究者から強く求められていた。経済停滞は、こんな所にも影を落とし、資金調達の困難が何度も伝えられたが、今斜陽が伝えられる地域が、その中心となったようで、今回の報道へと繋がる。
 こんな背景を思い描くと、今回の発見の報に対しても、かなり違った見方が出てくるようだ。同じ分野の人々が、喜びを表しているのだが、報道の姿勢も同調しているようで、冷や水をかけるような話は出てこない。逆に、これまで反論を唱えて来た有名人を引き合いに出し、今回の発見の重要性を高める演出まで施し、全面支援の空気がある。だが、冷静に眺めてみれば、この分野の研究において、これまでにも、様々な勇み足が見られ、ついこの間も、光より速い存在の発見が、取り下げられていた。今回のものも、この世界の存在全てに関係するとして、興味を惹くような伝え方が、意識的に使われている。だが、これまでの流れから見れば、意味を理解できる存在はごく僅かであり、これ程の騒ぎの意味も見えてこない。だが、始めに書いた事情に目を向ければ、この騒ぎの意味は明確になるのではないか。発見の重要性やその信頼度よりも、そこに至る道筋における、経済の影響を見渡せば、どんな意図が注がれ、どんな思惑が乱れ飛んでいたかが、徐々に見えてくる気がする。ただ、研究者たちから見れば、そんな外野からのヤジは無視すればよく、本質を掴む行為の偉大さを感じるだけのことだろう。発見が発見であった時には。

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