針小棒大、小さなことを大仰に扱い、恰も大層なことのように話を進める。こんな脚色はお手の物、次々に気を惹きそうな話題を拾い上げ、それが如何にも大きな問題かのように見せる。以前なら、狼少年と呼ばれた人々が、いつの間にか、本質を見抜く人間のように扱われる。狂気の一端はここにもある。
何度も繰り返し主張したくなる程、現状は重い病に罹っているかの如く、手の施しようの無い状態にある。何も気にせず、自分の生活を守ることを貫けば、平々凡々に過ぎないけれど、まともで安定した人生が送れる。だが、不安を微塵も抱かぬ人は、世の中に居る筈も無く、雑音に惑わされる気配が充ち、つい耳を傾けてしまうこともある。その中で、冷静な判断を下し、雑音の杜撰さを指摘し続けるのは、それなりの精神力を要求される。劣悪とも呼べる環境で、雑音を拡声器に通し、轟音に変えるだけでなく、その音色にまで化粧を施す人々は、少し疲れた人々を相手に、自らの芝居を演じ続けているかのようだ。その一方で、狂気に取り憑かれた人々は、狼と呼ばれたり、嘘吐きと呼ばれた時代と異なり、自らが膨らませた異常な論理が、恰も当然かのように受け取られ、嬉々として持論を展開する。批判されることも無く、無視されなくなった状態で、評価されているように見える状況は、悦に入りやすい性格には、喜ばしいものとしか映らないだろう。こんな社会の中で、冷静な分析に基づき、論理を築き上げる作業は、評価に値しないものと扱われる。科学から離れ、精神論へと繋がった人々には、単に煩い言葉としか見えず、落ち着いて耳を傾ける暇も無い。理解不足が著しくなった中では、あらゆる言葉が跡を残さず、頭上を通り過ぎるだけでなく、理解できぬ言葉を使う人間を、敵とも見なす勢いさえある。そろそろ、昔のように、冷や水をかける手立てが必要なのかも知れない。
この所、ある意味の拘りを持って、常軌を逸した人々のことを取り上げて来た。狂気という言葉を多用し、その逸脱ぶりを表現したつもりだが、此処を読みにくる人から見れば、そんなことを言われるまでもないとなるだろう。だが、世間は異常の度を増し続け、自らの異変にさえ気付かぬ、典型的な症状を示す。
決まり文句のように出てくる「安全・安心」には、辟易とさせられているが、当然の権利として主張する人々は、自らの狂気に気付く気配もない。拘りもある範囲を超えると、過剰反応へと変貌し、他人の忠告や意見に対して、冷静な対応ができなくなる。それが個人の範囲で起きていた頃は、周囲も冷たい視線を向けるだけで、ある意味落ち着いた対応が可能だった。ところが、その数が増すにつれて、様相は徐々に変化し始め、制御の利かない乗り物に乗っている気分が強まって来た。異常さが強まった人々が手を結び始めると、その行動は仲間内では正常なものとなり、異論を唱える人間は、敵と見なされ、攻撃の対象となる。時に、あからさまな反対の表明が無くとも、攻撃対象を追い求める人々に睨まれると、一対多数の対立の構図が出来上がる。だが、この話は、まるで、苛めの構図そっくりではないか。巷で話題になる話は、そういう見方をすると、何とも興味深い図式に思えてくる。その話題を取り上げる人々が、攻撃対象を渉猟し、次々に批判の声を集中させる。加害者と被害者が交代したが如くの、立場の入れ替えは、当人たちにとっては重要なことでも、外から見れば、同じことの繰り返しにしか思えない。集団私刑が許されないのは、法治国家の常識であり、越えてはならない一線の筈だが、現代人の多くは、それを上回る基準を身に付けたようだ。こんな中で、異論を唱えることは、可能なのか。それとも、徒為に過ぎないのか。もし無理なら、狂っていることになる。
警告を発する役割の人は、その責任の重さに比べて、信用の無さに悩みを深めているようだ。住民に危険を伝える為に、様々な手法や言い回しで警告を発するが、それが重大な災害へと繋がった途端に、批判の対象として矢面にさらされる。注意勧告など、様々な方法があるのに、それが正確に伝わらないとされるのだ。
だが、この手の話、何度聞いても首を傾げたくなる。災害が生じなければ、無駄足だったと文句を言われ、無視したことで災害に巻き込まれた人々は、深刻さが伝わらなかったと文句を言われ、一言言ってくれれば、ちゃんと従ったのに、とまで言われる始末。同じ時期に別の地域で降った大雨で、出された避難勧告はほぼ九割の人々に無視されたのに、実際に大災害となった地域では、勧告があれば逃げていたとの主張が出る。結果次第で話の内容が変わるのは、何もこんな事例に限らないものだが、それにしても、自らの判断を棚に上げて、こんな言葉を発する責任は、どこにあるのだろう。被害者となれば、その責任は棚に上げられるなどと言えば、弱者に鞭打つ行動などと批判される。いやはや、困った状況になったものだ。こんな中で、「これまでに経験したことの無い」云々といった表現が使われているのを見て、不思議に思った人も多いだろう。不思議も両極端であるのが更なる不思議だが、言葉の重さは人それぞれに感じ方が違う。災害の度に問題視されるが、それが何度問題にされても、自分に降り掛かる話とは思わない。そんな人々が聞く耳を持つかどうか、難しい問題であり、責任の重さだけが取沙汰される。結局は強制力のみが肝心だが、よく見なくとも、そんな力の行使は何処にも無い。
教育の現場が揺れていると伝えられる。相変わらずの興味本位な捉え方に、何処までが真実なのか、疑いの目を向ける人も多いが、その一方で、極端な内容にも関わらず、鵜呑みにする人の多さには、呆れを通り越す感覚が芽生える。事実を見極め、正しく理解する。この本質を基本とする世界に、何故こんな目が向けられるのか。
冷静に分析すれば、異常な見方としか思えないものを、当然のもののとして捉える感覚は、理解とか分析とは全く異なる、ある心理作用が強く影響した結果としか思えない。好き嫌いを何よりも優先し、理解以前の問題として、好悪を前面に押し出す。そんな感情が、全ての理解を妨げているとしたら、その感情に囚われる人々は、何と不幸な星の下に生まれたのか。自分の感情を制御できず、叫びに近い調子で、周囲の出来事に接する。可哀想としか思えないものの、自業自得と言ってしまえばそれまでだ。自己責任などといった言葉も飛び交うが、震源がそれに関わる場であるだけに、教育の本質がこれ程蔑ろにされていることに、危機感を覚える人も多い。ただ、その多くが、こういった遣り取りの中で、まさに感情に振り回されているとしか思えぬ解釈を押し付けるのだから、ここでも自業自得、勝手に落ちていけば、と言いたくもなる。理解の妨げは、それを欲する人自身が持つものとする考え方は、言われた人間にとっては心外かも知れないが、今一度、周囲を見渡して欲しいものだ。思い込みを最初に口にし、好悪に似た感情で人を吟味し、言葉や意見を冷静に受け止め、理解を進めようとする気を見せない。そんな人々が、身勝手な発言を繰り返すのは、無批判の姿勢が悪いのだ、という考え方も、被害優先の空気の中では、興味を惹くことも無い。
四面楚歌の状況で、反論を並べることができるのか。そんなことを思い浮かべたくなる光景に、話題への興味は一気に失われた。狂った考えとはどちらを指すのか、などと連日書く訳にもいかないが、立場を変えれば、それぞれに正論であることが、最低限の条件の筈が、いつの間にやらすり替えが行われる。
恐怖が狂気に変わるが如く、多数意見は論理を失いつつある。これだけならば、馬脚を現す所までいかぬものを、反論に対して、嘘吐き呼ばわりを繰り返すとなると、やはり常軌を逸していると言わざるを得ない。それが多数派の中に居座れば、集団の常識は非常識へと変貌しかねない。不安を前面に出し、心理的な効果を追い求める人々は、まともな考えを持てないのか、と思えたのは、ある集会に参加した人の発言として、問題のすり替えのように、政権への不満を声高に謳ったものを取り上げる報道姿勢にあり、こんな選別が正当と思い込める非常識に、時代が異常な状態に向かい続けていることを意識させられる。立場による発言の違いは、場を与える段階では問わないとされたものが、非常識に押し切られる形で、方針変更へと向かう。専門家と一般市民の違いは何処にあるのか、こんな遣り取りを見る限り、明確な線引きは不可能に思える。にも拘らず、暴挙が罷り通るのを眺めると、「やらせ」とは、こんな意見聴取を開催すること自体にある、とせざるを得ない。様々な意見を皆で聴くことに意味がある、という姿勢は何処へ行ったのか。参加者の暴言が、正当な意見として取り上げられる狂気に対して、異論を唱えることの難しさは、今の社会が抱える最も大きな課題ではないか。「虐め」などと興味本位に取り上げる時も、同じ心理が働いていることに気付かぬ人々に、通じる言葉は無い。
狂気の特徴とは何か。その持ち主がそれに気付かぬことで、常軌を逸した考えに囚われ、それに反する考えを一切受け入れぬことだろう。狂気の沙汰の出来事は、昔から色々と取沙汰され、その異常さが話題とされて来た。だが、その主はそれに気付かず、暴走を続ける。異様な行動への対応は、冷静さの現れとなる。
誰しも、狂っているとは言われたくない。自分なりの考えを反芻し、他人に理解される形に整えるのも、論理性の構築という、常規の範囲に留まる為の手段と考えられる。議論はその一段階とされ、提案だけでなく、批判を交わすことで、受け入れ可能な考えと、磨きをかけていく。そんな当たり前の手立てが、最近、無視されることが増えて来た。独自の考えを尊重し、主義主張を重要と見なす風潮は、異常さに蓋をして、選別を怠ることへと繋がった。世論を構成する考えを、何の選別もせずに並べる姿勢は、機会均等の基本に思われたが、正常と異常の区別無く行うことが、どれほどの異常に繋がるか、考えてこなかったことが、大きな問題を生じ始めた。異常な考えに取り憑かれた人々を、殊更に取り上げる姿勢が、異常を異常とせず、恰も正当な議論の結果と見なす世論に繋がるとなれば、社会全体が、ある病に冒された状態にあると思える。狂気の一番の特徴は、他の意見を受け入れず、論理の崩壊を気に留めないことだが、今の世の中、様々な所で、こんな行動が頻繁に見られている。狂気を正気と扱い、正当な意見と見なす人々も、同じく狂った存在であるとすれば、全体をある括りの中に押し込めるしか、問題解決の道は無さそうだ。狂人はいつの時代にも居たが、周囲の正気が破滅への道を閉ざした。今、その危険性が異常に高まっているのは、主だけでなく、周囲にまで異常が広がっているからだろう。
教え育む方法には、二つの両極端があるようだ。まさに、育むという言葉が表すように、手取り足取り懇切丁寧に理解を進めさせる方法と、自らの力で解決することを優先し、余計な手助けをしないで温かく見守るという方法は、育てるという目的が同じでも、その対象には全く違った感覚が残ってくる。
背中を見ろとか盗めとか、一方的な指示ばかりで、具体的なことは何も示されない。これを不親切と思う人は、現在の若者と同じ感覚を持っているのだろう。教える役割は一つ一つを丁寧に、といった考え方は、何時頃からか大勢を占めるようになった。確かに、一から十までを教え込めば、その範囲を処理する力はつくだろう。だが、それを超える力を期待しても、無理難題となるのではないか。集団教育の目標の一つは、全ての人に最低限を、ということだろうから、懇切丁寧はその近道となる。その中で、突き出た杭の如くの子供や凹んだ穴のような子供は、無視されたり、叱責される対象となる。だが、常識を超える力の為には、こんな存在こそが意味を持つ筈だろう。下り坂に入った所から、そんな方針への反省が盛んとなり、飛び出た存在を尊重する姿勢が強まった。だが、これが大きな問題を産むとは、当時想像されなかったようだ。特別な存在を作り出す手立ては無く、それを尊重することで逆効果を産み、更に、集団教育の基本が失われる結果となる。懇切丁寧は形だけが残り、中身の無い空箱が教室に並ぶ。一方で、張りぼてになりきる子供たちは、上塗りの色を欲しがる如く、教えて貰うことを欲する。だが、そこには自力解決への道は見えず、上を目指す意欲は感じられない。出口の外での要求が高まり続け、行き場を失う若者を哀れむ前に、考えることはある。