パンチの独り言

(2012年7月23日〜7月29日)
(愚心、拠り所、盲千人、素人考え、他責的、抑圧、異端)



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7月29日(日)−異端

 他人と同じか違うか、そんなことを問題にする人が多い。同じだから良い、違わないといけない、などなど、そんな言葉が連ねられるが、比較が全てなのかと思えてくる。今の時代の多くの問題は、実はここから始まっていて、その病を治す特効薬は見つからない。他人の目を気にする心に、効く薬がある筈も無いのだが。
 注意された途端に、「皆がやっている」と言い返す人々、自分が悪いかどうかは、他人がやっているかどうかで決まる、とでも言いたげな態度だが、これについて厳しい批判の目が向けられることは無い。ほぼ全ての人が、他人を気にしつつ生きているのだから、そうなるのは当然ということなのだろう。だが、自律性が問題とされ、毅然とした態度が殊更に取り上げられるのは、当然の筈のものが、実は大きな誤りを含むことを表しているのではないか。「皆」を掲げる人の多くは、上に居る「皆」ではなく、下に居る「皆」に目を向ける。劣化することは容易く、向上は難しい。当たり前のこととて、目の前にそれを実践する人を見ると、落胆の色は隠せない。落ちていく人々にとって、誰かと一緒であれば安心とは、まさにそんな状況を表すものだが、劣った人間と呼んでもよさそうだ。違いを拾い出し、集団から弾き出す行為も、陰湿さや凶暴性に話題が集まるものの、そこに潜む真の原因に光が当てられることは無い。役立たずの評論家どもは、昔から言い続けて来た空論を並べ、問題が起こる度に的外れの指摘を続ける。彼らの意見が的を射ているなら、とっくの昔に根絶された筈が、依然として話題として取り上げられるのは、日常の光景と受け取られているからだろう。だが、現実には殊更に取り上げられるもの以外は、殆ど存在せず、見たことのない怪物を恐れる人々の噂に過ぎないものばかりだ。少なくとも、現場ばかりが、問題ではないのだ。

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7月28日(土)−抑圧

 個人が様々な考えを持つことに、異論を唱える人は居ないだろう。如何に強い拘束をしたとしても、人それぞれの考えを無くすことはできない。何かを信じ込まされ、騙された形で、ある考えに陥ることは、これまでの時代にもあったが、世論がどう形成されようが、個人の考えは何処かに潜み続けて来た。
 自由があるかないかに関わらず、個人がどんな考えを持つかには、何の制限も加えられない。心の中、頭の中の考えに対しては、外からの力がどんな形で加えられようとも、それを変えることなどできない。ただ、それが外に出てくる際には、様々な圧力が加えられ、時に、元の考えとは似ても似つかぬものとなって、皆の目に映ることとなる。それぞれの意見交換では、これらの表に現れた考えを基に、互いの意見として議論を交わす訳だが、本心とは異なるものとしても、それを区別する手立ては、その意見を持つ人以外には持てない。本当は違う考えだが、周囲の目を気にすることで、迎合する人も居れば、他人との違いを追い求めるあまり、奇怪な意見を採る人も居る。それぞれに思惑があり、都合があるのだろうが、こんな経過を辿ることで、ある考えに吸い寄せられたり、世論という形のものが形成される。そういった空気が出来上がれば、いつの間にか自由が失われ、他人の考えを押し付けられたり、自らの考えや意見を潰されることが起きる。いつの間にか、自由が失われていることに、圧力を加える人々は気付かず、依然として自由な意見交換が行われていると信じる。いつの時代にも起きたことで、不安定だろうが、平和だろうが、そんなこととは無関係に、時に、意識もせずに行われて来た。人間の特性とでも言うべきものは、自ら求める自由を、失わせることとなりかねない。

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7月27日(金)−他責的

 引責という言葉が久しぶりに飛び交っている。責任の問題は大切なものと扱われるが、どちらかと言えば、直接的なものばかりに注目が集まる。誰に責任があるのか、当事者の中で責任転嫁に似た行動が出るのも、直接の責任の所在をはっきりさせようとするからだろう。だが、最終責任はやはり一番上に居る人間にある。
 そんな場面で使われる言葉が引責となるのだろうが、企業形態が複雑に入り組んで来た結果、責任を引き取るべき人物が、果たして適切だったのかと思える事態が起きた。最上位の人間が責任を取ることで、けじめをつけようとするのが、引責の目的であることは確かだろう。ところが、企業が単体で立つより、複数が一緒になり、それを束ねる上位組織をおくことで、効率化を図る戦略が、多くの業種で採用されるようになると、どの組織の最上位が、引責すべきかという問題が顕在化する。以前の企業形態であれば、少しでも下に居る人間は、部下と見なされ、問題を起こした組織の上に立つ人間を処分したとしても、それが引責と呼ばれることは無かった。だが、一つ一つが企業として成立し、そこに経営者なる人間がいる中で、それらが集まった組織の中に更なる上位の人間が居るとなると、さて、誰が責任を負うべきか、迷うことになりかねない。これだけでも複雑に見えるが、今回の問題は、更に複雑な様相を呈する。というのも、束ねる組織の最上位が引責する際に、後継者を、その原因となった不祥事を起こした企業の最上位に座る人間に託した、と伝えられたからだ。同じ間接的な責任だから、どちらかが引き取ればいい、という論理なのだろうが、社会的常識に当てはまるのだろうか。首の挿げ替えを問題とするだけでなく、問題の摺り替えを問題とせねば、あんな反則行為が根絶されることは無い。

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7月26日(木)−素人考え

 専門家がこれ程軽く見られる時代は無いのではないか。科学的知見に基づき、その時点で明らかとなる点を詳しく説明したとしても、それが理解されることは少なく、時に、分からないと批判されるだけに終わらず、誰かの考えに与する説明として唾棄される。理解もできず、意味も分からないのに、だから驚きだ。
 専門とするものへの理解はあるのに、それを他人に説明する能力に欠ける。専門馬鹿などと揶揄された人々は、その典型のように扱われて来た。一見、正当な批判に映る話だが、最近のものは、説明を受ける人々の無能にも問題があり、一方的な批判は当たらないという見方も出始めた。だが、依然として、専門家への批判は厳しいままで、本来ならば、全責任を委譲される筈が、その適用範囲を不当に狭められていることが多い。外から見れば、如何にも妥当な措置であり、これまでの誤りを正す動きと思われているが、果たして、本質を理解できぬ人々に、真っ当な判断が可能なのか、疑わしいものだ。誰にも誤りはある、という仮定は、批判の最中には取り上げられず、その後の外部の人間の導入では、強調される。こういった公正さを欠く動きには、何か特別な考えが大きく影響しているように感じられる。多くの専門家が中立性を保ちつつ、事実を伝えようと努めるのに対し、先入観に囚われた人々は、自らと同じ偏りをそこに見出した気になりきる。専門外の人々の登用を強く求める声にも、専門家の偏見を危惧する心理が混じるが、自身の偏りをそれと意識しない人から見れば、中立も偏りと映るのではないか。従来に無い、新しい考えを採り入れるべき時に、専門外の目は重宝されるけれど、珍案ばかりが並んでも、埒が明かないことは明らかだろう。閉塞感が強いからと言って、こんな出鱈目ばかり繰り返しては、更なる闇に陥るだけだ。

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7月25日(水)−盲千人

 国民的英雄、などと評されることに、当人はどんな気持ちを抱くのか。自分ができることを、全力で行うのみ、といった反応が返ってくるだけだろうが、それにしても、他人にできないことを可能にした功績が、この評価に繋がったのだろう。それを否定することも、無視することもできないが、それにしても、である。
 余程平和なのだろうか、と思いたくなる程、不思議な状況が流された。マスメディアの常識は、最近とみに疑われているけれど、ここまで到達するとなると、流石に困りものといった感がある。その日の最大の話題を始めに取り上げるのは、どのメディアにおいても常道とされる。大きな存在は、その対象を万人と定めている筈で、最大の話題とは、誰にとっても通用するものであるべきだ。それが、職業野球の英雄を取り上げ、延々と、これまでに集めた話題を流し続ける。ついに、別の局へと移さざるを得ない程、しつこい位の押しつけは、評判のいい番組の看板が、野球好きだからだったのかも知れないが、常識の域を遥かに超えるものに思えた。元々、運動系の話題は、万人受けするものではなく、たとえ、英雄視されている人の話題としても、一番に取り上げるべきものではない。毎度のこととて触れるならば、その為に料金を払っていない人に、この構成は欺瞞に満ちたものとなったのではないか。それも、日常的とされる移籍の話題となれば、尚更のことだろう。全く違った見方をすると、普段から捏造のような形で話題を作り上げて来たものが、こんな所で、事実を取り上げる気になっただけのこと、なのかも知れない。

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7月24日(火)−拠り所

 「神話」に囚われたことが最大の原因、となったらしい。「神話」とは、実体も無いのに、絶対の存在として信じ込まれることと辞書にはあるが、今回の事故は、まさにそれに執着した為に、適正な判断が下せなかった、というものだ。これは、ある意味予想通りとは言え、ではどうすればについては、何も見えてこない。
 結論を導いたことに対して、批判をぶつけても何の意味も為さないだろう。何かしらの終着点に行き着くことを要求され、それに向けて様々な思考を進めた結果として、こういう答えが導き出されたのは、当然の帰結とも思えるからだ。だが、原因として、そこにあったものを改めて指摘するだけで、この手の問題は、解決できるのだろうか。結果を受け取り、往時の行為の正誤に思いを馳せている最中、神話の構築へと繋がる重要な言葉が、頻繁に使われている。新型の航空機が、訓練中に事故を起こしたとして、その安全性に疑問の声が上がったことは、既に、知らぬ人が居ない程、煩いくらいに取り上げられている。だが、絶対反対という極端な人々を除けば、多くは、その確保が優先されるべきで、確認されればといった妥協案を掲げている。ただ、言葉での主張には不鮮明な部分が多々あり、何が確保を保証するのか、いつもながら、肝心となる事柄への言及は、全く見えない。神話へと繋がると書いたのは、まさにこの点との関わりにあり、数字による明確化より、言葉による保証を選んだ結果、いつの間にか絶対的存在へと変貌することとなる。これを当事者たちだけの問題と捉えることこそ、始めに書いた問題を解答不能とすることになる。安全を論じるのなら、その程度を数字で表された時に、その意味を汲み取る力が必要となる。力を備えずに悲鳴を上げるだけだと、また「神話」が作られるだけのことだ。普段使う乗り物に、「神話」も無く、どんな気持ちを抱くのか、知りたい所でもある。

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7月23日(月)−愚心

 本質を見抜く力が大切である、という声は聞こえるものの、その為に必要な要素が何なのか、見えていないようだ。更に、そんな声の一方で、異論への反発ぶりからは、本質の追究といった感覚より、賛否のみに傾く感覚が、依然として強いことが見えてくる。元々議論を好まぬ国民性に、当然のことなのだろうか。
 中途半端なままでも、大した問題とならなかった時代と違い、二極化が重視され、分かり易さの為の極論までが、多用されるようになった時代には、本質の追究より、どちらに与するかといった結果のみを追い求める傾向が強まった。一見、分かりやすさが求められることで、理解が進んだかのように思える傾向だが、その実、両極のどちらかに与する人々の多くは、本質の理解も無く、単なる好き嫌いで物事を判断するだけで、正誤の見極めさえも怪しくなっている。こんな世相で、騙した騙されたという話が出て来ても、首を傾げることが多くなるのは、当然のことではないか。甘い言葉に踊らされ、儚い夢を追い求めた結果、被害を受けたとしても、勝手な想像も含めて、自分の判断が甘かったと言われれば、それまでのことだろう。欲に走った人々にとって、その結果は受け入れ難いものだろうが、当然の帰結と言えば、その通りなのだ。電話に騙される人の多くは、欲に走ったものではないという意見もあろうが、別の心理とは言え、冷静な判断を怠った為だろう。冷たく静かに、という言葉からは、余りいい印象は浮かばないが、本質の追究の為に、これ程重要なものは無い。論理性の吟味や知識による判断も、同じような心理が必須であり、愚かな心からは生じ得ない。何故、こんなに簡単なことが、見えないのだろう。

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