パンチの独り言

(2012年7月30日〜8月5日)
(夢中、付加価値、保有、異端、正体、体調管理、解放)



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8月5日(日)−解放

 夏祭りと来れば、懐かしい人々に会えると連想する人も居るだろう。盆との繋がりから、それとは別の、何らかの催し、様々な祭りがあるが、それぞれの目的は違うのではないか。でも、そこに集まる人々にとって、理由や成り立ちなどはどうでも良い事なのかも知れない。賑やかな時間と旧交を温める機会、それだけで。
 踊りを中心とした祭り、伝統行事を据えた祭り、祭り好きの人にとって、こんなに良い季節も無い。夜店が並び、商店の前に出店を構える所もある。つい雰囲気に流されて、駄菓子に手を伸ばしたり、異国の食べ物に手を出す。子供たちは、景品に心を奪われながら、遊びに興じることとなる。何となくだが、普段とは違う雰囲気に、ひと時の自由を楽しみ、浮かれる気持ちを抑えることも無い。祭りとはそんなものの筈が、この頃は時に窮屈な思いを抱かされることがある。様々な制限が加えられ、規制の箱の中に入れられる。喧嘩は祭りにつきもの、とは言わないが、ある程度の脱線は許されて来た。ただ、度を過ごす人が増えると、やはり枠にはめようとする動きが強まる。自由より制限を好む人にとっては、枠を設けられることで落ち着くかも知れないが、どうにも不自由な世界になったものと思う。普段の生活で自由が制限されていたのに対し、祭りがそれを解き放つきっかけを与えた。そんな時代から、普段が勝手気侭で、利己的な生活となり、他人との関わりも気にかけない、いつの間にか世の中が変わったようだ。となると、こんな制限も、安心へと繋がるものだろうか。何だか、おかしな具合になって来たようだが、そんな時代なのだろう。

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8月4日(土)−体調管理

 猛暑という言葉が大きくなり、熱中症が耳に入らぬ日は無い。温暖化とか、熱帯化とか、まるで暑さが増しているような印象があるが、本当にそうだろうか。連日、35℃を超える気温からは、猛暑を否定することはできないものの、人々の体調に関する話題には、違和感を覚える人も居るのではないか。
 空調も無く、気力のみが頼りと言われた時代に、日射病の言葉はあったものの、熱中症なる言葉に接したことは無かった。専門家の中で、どんな言葉が使われていたのか知る由もないが、連日搬送の数が取沙汰されるのを眺めると、何が変わったのかと考えさせられる。どのみち、素人が少し考えたくらいで、何らかの答えが見つかる筈も無いが、違いを数え上げることはできそうだ。水分補給の重要性は、今や最優先の話題なのだが、当時はそれを禁じる人々の存在があった。陰に隠れて飲んでいた人も居ただろうが、その多くは、我慢を強いられていたのではないか。それでも、死人が出たとの報道も無く、異常な数の話も出なかった。症状が出た人に限れば、確かに、水分不足が一因となったのだろうが、それが全てか分からぬ点が余りにも多い。その一方で、平気で過ごす人々の行動は、余り取り上げられることも無く、何処に違いがあるのか、注目する動きさえ無い。平均的な捉え方や、総じて処理しようとする動きには、何か別の意図があるのかも知れないが、不幸に見舞われる人々には、納得できないことばかりとなる。人々がそれぞれに、何が大切かを考え、体調の変化に対応することが、重要であることは言うまでもないが、その一方で、個体差の問題が常にそこにあり、それを無視した指摘が無意味となることに、目を向けることも大切に思える。無理を承知、は無謀に思えるが、無理が人それぞれに違うとしたら、特に意味を持たない話にしかならない。

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8月3日(金)−正体

 世論調査とかアンケートとか、民主主義の中で民の心を掴む為の手立ては数多ある。だが、最近の傾向は、操作とか捏造とか、現実を表すのではなく、思惑に基づく結果の誘導が露骨で、目論見通りの展開を目指すものが急増している。その責任を調査側のみに負わせる声は大きいが、される側の責任は皆無だろうか。
 質問項目の設定により、回答を誘導させる手法は、既に良く知られる所となり、それが調査側の操作を指摘する声に繋がる。選択の余地を小さくさせ、話題の連関を利用して、道筋を示した結果、多くの人々の意見が、ある方向に導かれる。一見難しそうに見えることも、少し慣れた人々には、赤子の手を捻る程度に、ごく簡単な作業にしかならない。更に高度とも思える操作は、誘導を暴き難い状況を設け、民衆の意見を汲み取ったものに見せる。こんな背景が、調査側の責任を問う声へと繋がる訳だが、その一方で、こういう流れに乗せられた振りをして、好き勝手な意見を書き連ねる人々が居る。責任感の欠如はいつも通りであり、利己的な意見が当然のものとして詳らかにされる。耳を傾ける必要を認めた以上、こういった愚論や極論にも目を向けねばならず、時には対応を求められるが、空っぽの話に価値は無い。無記名の意見では、責任を問われることも無く、本心を吐露できるとされるが、同じ理由で、狂気に満ちた意見を出す人間が居ることに、そろそろ対処を考えるべきではないか。責務を果たさぬままに、権利を主張する人々の愚かさは、徐々に指摘される所となっているが、以前聞いた話の中に、面白いものがあった。教育機関での調査も、重要な指標と見なされるが、受ける側の常軌を逸した意見に、意味を見出せない事例が多い。そんな中で、ある機関の調査は、意見と共に取り組んだ時間を書き込ませた。すると傲慢な要求と共に、週に一時間も勉強しない回答が寄せられた。意見の価値はその中身にあるのではなく、どんな人間からのものか、ということだろうか。

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8月2日(木)−異端

 自分の意見を持つことは大切だが、単なる言いたい放題や暴言となると無意味どころか、邪魔にさえなる。発言の誤りを正されることも無く、冷たい視線を浴びた頃と違い、最近は、極論を好む傾向にあるからか、時に祭り上げられることさえ起きる。無責任な発言が歓迎されるのだから、図に乗るのもやむを得ないか。
 人間は調子に乗るものだと考える人も居ると思うが、こんな状況に陥る人を、ごく一般的なものと扱うのはどうか。事実を曲げてまで持論を押し通そうとする人や、まるで、眉を顰められることを望んでいるかのような極端な発言を繰り返す人には、それぞれに思惑があるのだと思うけれど、その異常な行動には、規範も倫理も欠片さえ見えてこない。この手の人々は、いつの時代にも存在し、異端と見なされて来たが、殆どは無視され続け、冷遇されることが当然だった。それが、様相が一変し、重用されているかのような誤解を産む事態となると、やはり、異常な時代と見るしか無いのではないか。何故、このようなことが起きてしまったのか。時代とか社会とか、まるで自分は無関係のように、原因を他に求める姿勢には、本質を見極める能力の無さに加えて、自らの誤りに気付くことも、それを修正することもできないことが見えてくる。そんな人々の態度を、更に傲慢なものにするのは、周囲の誤った判断であり、批判を避けて糾弾を怠る雰囲気にある。間違いを指摘できないことは、その中でも最も大きく、重い症状であり、対処が難しくなっている。だが、自分が何をすべきか、考えるだけで解決できることは幾らでもあるのではないか。

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8月1日(水)−保有

 実質とはどういう意味なのか、と考えたくなる程、ほぼ全ての報道が、この言葉を付けた情報を流している。株式会社としての決定は、株主によることは知られているが、大きな割合を占めれば、決定権を行使することが可能となる。それを指して、実質がついた言葉で表現したものだが、何故、外せないのか。
 実質の反対語は形式とあるが、ここでは当てはまらないように思える。現実には、決定権を手に入れただけで、従来から存在する株主は、手にした権利を奪われることは無い。単に決定する力を手に入れただけで、国のものになった訳ではない、ということを表す為の「実質」なのである。この報道に接した時、ある銀行の破綻を思い出す人も居たのではないか。別の銀行では、資金の注入のみで事が済まされたのに、この銀行については、株主の権利が失われ、国のものにされた。この話題が強く印象に残った理由は、直前に増資を実施し、地元からの支援をあおいだことにあり、新たに集めたものは即紙くずへと変わり、監督の意味が問われることともなった。では、今回の例では、何故、異なる手法がとられたのか。企業はあくまでもその形態を保つことが重要であり、それを失わせてはならない、という論法は、あの銀行の例を見れば、通用しそうにもない。必要と見れば、たとえ思いつきに過ぎなくとも、蛮行を実施する。そんな人々が、今回は注入でもなく、破綻でもなく、株式取得で支える方式を選択したのは、何故なのだろう。実は、公的な役割が強調され、それを支える仕組みが構築されて来た為に、個人株主より、公の株主が従来から多く居た。彼らの権利を奪うことは、連鎖を産み出す可能性が高く、それを避ける為との見方はできないだろうか。最終決定ができれば、何でもできるには違いないが、やりたい放題となれば、さてどうしたものか。

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7月31日(火)−付加価値

 商売の話題になった時、いつの時代からか、付加価値の有無が問題となって来た。従来には無いものを、他には無いものを、といった誘いの言葉が並ぶのだが、それが何を意味するのかは、どうもはっきりしない。付け加えが、謳い文句の通りに意味を成すのか、それとも、単なる余分と受け取られるのか。
 付加価値が表に出た時、そこにある魅力を伝えられるかどうかが肝心と言われた。だが、作られた魅力が、どんな意味を持つのか、冷静に眺めると、不思議に思える部分も大きい。如何に新鮮か、如何に味わい深いか、そんな言葉が並んだとしても、それを食する人に見分ける力があるのか、そんなことは二の次のようだ。それより、価値を付け加えることで、利潤が上乗せされるかが肝心であり、その為に、ある程度の追加投資が必要となったとしても、結果が収まればそれで良しとされる。手に入り難いもの、新鮮さが問題とされるもの、それらを一気に解決する為に、輸送手段や方法が開発され、多くの品目や業界で、実施に移された。その結果は、高速道路や幹線道路の様子を見れば、何となく分かってくる。長蛇の列が形成される渋滞や高速の休憩所に並ぶ大型車の列はエンジンの音を響かせ、資源の無駄と思えなくもない。こんな中で、付加価値競争が狂ったように進められ、何処に向かうのか見えない行進が続く。運輸業界は、その他の業界との関係もあり、その隆盛は喜ばしいものと捉えられているが、その発端となった新たな価値基準は、不鮮明な姿から視線をずらす原因となっているのではないか。無駄なことを排する動きは、いつの時代も重視されているものの、無駄を取り入れることで、新たな価値を産み出すとなる動きは、全く別の存在として、同じように注目を集めている。全てを横並びにする必要は無いものの、こういった様相には、何かが違っているような印象を受ける。

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7月30日(月)−夢中

 一体何を目指しているのか、さっぱり見えてこない人々が居る。話をしているし、夢についても語っているが、では、具体的に何が目的なのか、確認することができない。夢を持つこと、追い続けることの大切さは伝わるものの、具体像は見えない。そんな人の話の相手は、疲れに繋がり、徒労に終わることとなる。
 夢追い人が巷に溢れ始めてから、何かが狂って来たように感じることがある。夢とは何か、目的とは何か、その他、人生の隅々まで、全てのものがぼやけ始め、目標を見失った人々が、呆然と立ち尽くす。何かを追い求めていたと思ったのに、いつの間にか、その何かが分からなくなる。夢を抱けと言われ続けて、それを持ち続けて来たと思ったのに、何を掴んだのか見えない。こんなことばかり書いていると、そんなに酷い状態では無いと言われるだろうが、本当にそうなのか。これだけ多くの人々が、追いかけて来たものを見失ったと思うのは、それこそ幻なのかも知れないが、そうでもないように思える。それぞれに、人々の夢は、何かしら明るさを持っているように感じられたが、現実には、それこそが幻となってしまった。掴みかけたと思ったのに、とか、掴む為に努力を重ねたのに、と、落胆の声は聞こえるものの、蜃気楼のような淡い存在は、元々何も無かったのかも知れない。もっと真剣に現実を捉え、夢より目の前の問題解決を心掛けていれば、随分と違った様相も有り得ただろうが、こうなってしまうとどうにもならない。夢か幻かと追っていれば、諦めもつこうが、現実と思ったことで、落胆へと繋がる。そろそろ、遠くの夢ではなく、目前の標的だけを見てはどうか。

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