猛暑の中では、炎天下に出て、外の様子を眺めることもできない。自然の営みに、目を向けたいと思っても、この状況では無理となる。昔から自然観察に精を出す人々の話は、様々な形で伝えられて来たが、自然の脅威を目の当たりにすると、心の余裕を含めた、ゆとりの気持ちが無ければ、実現できぬことに思える。
鳥類は汗腺が無いそうで、体温を下げる為には呼気に頼るしかない。犬のように舌を出して、というわけにはいかないが、烏が嘴を開け、何とも無様な姿をさらすのも、そんな所に理由があるようだ。空調の効いた室内に留まり、水分補給で体調を整えている人間と違い、彼らは精々日陰に入り、水たまりで水を補給したり、烏の行水をするくらいが精一杯だろう。こんなことを詳しく観察するのも、ある覚悟が必要であり、うっかり眺めるのに夢中になると、自らの体調に危機が訪れるかも知れない。酷暑の夏を喜ぶ生き物も多いだろうが、その観察に精を出す程の余裕は、こちらにはない。こんな時には部屋に戻り、ゆっくりと画面の中の自然の営みを、楽しむのが良いのではないか。触れることの大切さを説く人も居るが、直接に触れずとも、単に眺めるだけでも十分なこともある。無理をして体調を崩したのでは、元も子もなくなる。それより、まずはどんなことが起きるのかを知り、次にそれに触れる機会が訪れた時に、見逃さないように準備をしておくことも重要だ。本物の虫を捕まえる喜びも格別だが、その為の知識を身に付けておくことも大切だろう。子供たちにとっては、楽しみの広がる季節、それぞれに過ごし方がありそうだ。
誤用が横行し、無知が闊歩する事態に恐怖に注目が集まる反面、理解が進まぬ環境に、苛立ちが募る。その原因の多くは、情報伝達に当たる人々の無知と無理解に始まるが、無能さの極みは、是正の機会を見出すことも無く、無知の拡散を継続してきたことだ。あの事故以来、僅かな修正が加えられ、少しはましになったか。
能力が漏れるとは、嘲笑の対象ともなる表現だが、それを正しいものの如く扱い、文字が踊り、言葉が並ぶ。流石に、連日の伝達では、誤りが露呈し、情報の正確さを追い求める声に、抵抗を続けられなくなる。やっと修正されたが、依然として無理解は放置され、恐怖のみが強調される。基盤の脆弱さが、全ての根源であることは確かだが、基礎工事からのやり直しは困難で、諦めより、放擲とも思える態度に出ている。理解に基づく伝達が必要なのに、こんな態度が続くのでは、好転の兆しは見当たらず、それこそ、先行きへの不安は膨らむばかりだ。文系理系の区別は、適用すべきでないとの声もあるが、こんな所にも、それを根源とする難問が積み上がっている。特に、科学の知識を必要とする情報には、こんな問題がつきまとう訳だが、その基となる部分には、科学の知識をひけらかす人々の傲慢とどうしようもない無知があるようだ。この間も、天然物を材料とするクレヨンの制作者の話が伝えられたが、彼女の動機が、ある少年の化学物質過敏症との関わりにあるとのこと、化学物質という範疇に天然物が入れられない定義は、聞いたことが無いだけに、違和感が強まった。これもまた、始めに取り上げたものと同様に、ある仮定を置いたり、誤解に基づいた、大衆に無知を拡散する言葉の一つだろう。不用意な適用には、こんな問題が常にあり、多くの人々への伝達では、特に、注意を要するものではないか。新語を創出することに、意味を見出す人々が居るが、それが誤解を生じ、理解を妨げるとしたら、悪語であるとしか言いようが無い。こちら側の問題とするだけでなく、あちら側の落ち度が一杯あるということか。
年長の話に耳を傾ける。昔はごく普通に見られたが、最近は少なくなった光景ではないか。尊敬や敬意といった感覚が薄れたことが、主な原因と言われるが、その一方で、無駄話や自慢話を続ける人々にも、大きな問題があるように思う。針小棒大の自慢話は、聴く価値も見当たらず、まさに時間の無駄と思える。
年寄りの話の最大の欠点は自慢にあり、同じ成果でも、度の過ぎる評価を並べれば、聞き手には苦痛にも似た感覚が残る。ある世代の高齢者にこの話をすれば、自分の時代も同じだったとの答えが返る。だが、そこにある大きな違いに、当人が気付く気配は無く、誇大広告そのものの自慢話を、悦に入った如くに続ける。違いの一つは、成果の自己評価にあり、膨張し続ける結果に、周囲はしらけるしか無くなる。最近読んだ本にも、そんな話題が並べられ、著名な随筆家の未亡人が語る話には、自己防衛の極みとも受け取れるものが多く、品の無ささえ感じられてくる。それでも有名人の妻ともなれば、こんな駄本を残すことができるとは、世も末なのか、はたまた平和な時代なのか。もう一人は、一世を風靡した女優の自伝だが、こちらも何を伝えたいのか、殆ど見えてこない。夫婦の自画自賛ならぬ、自我自慢とでも言えそうな論調だが、当人の悦の入り方は尋常ではない。彼らの世代の共通点は、戦争との関わりにあり、より高齢の人々は直接の関与を悔やみ、下の世代は判断する力も無く、実感を抱けない。その間の世代は、多くの人々が如何に被害を受けたか、悲惨な青少年時代を送ったかを訴え、そこに原点を置く。それ自体が悪いとは思わないが、過去を振り返っても、負の遺産ばかりを目立たせ、被害者然とした態度ばかりが目立つ。自己主張が幾ら大切とは言え、若い世代に重ねられぬ経験には、自慢以外に何も無いとしか言いようが無い。
欲に目が眩んで、という話はよく聞く。強欲と聞けば、悪い印象しか残らず、無欲が一番かのように扱われる。だが、上を目指す意欲や、何かを手に入れたい欲無くして、何ができるというのか。目標を達成して、欲が満たされたのに、更なる上を目指し、結果として欲をかいてしまい、全部失うのは、過ぎたることに違いないが。
悪い印象ばかりが強調されるものの、人間にとって、欲は欠けてはならぬものと思う。だが、一方で悪印象を与える原因は、それに拘る人間の、非常識な行動にあることにも、目を向ける必要はある。自分の考えを押し通そうと、万難を排して、という態度にも、客観的な視点を欠き、私利私欲に走る姿が露骨となる。同じ目標を設定し、達成するにしても、そこに私欲が入り込めば、周囲から冷たい視線が向けられる。最近目立つ行為は、欲を表に出すことに対する羞恥心の欠如であり、それを恥と思う心から、過剰とも思える言葉による武装をした時代と異なり、他人の為と称した利己的考えを、包み隠さずに披露する。不正直を歓迎すべきではないが、名分無き提案に賛同するのは難しい。その欲が露骨であればある程、この傾向は強まり、嫌忌の対象ともなる。欲そのものが悪いこととは思わないが、それを露にすることに、恥も外聞も無くという態度には、品格の欠片も感じられないことに、気付かぬ人が増えたことには、何か特別な事情がありそうに思う。本音と建前、という区別も、最近は忘れられているようだが、愚かな言葉を連ね、信頼を無くすことが、どれほどの影響を及ぼすのか、欲に目が眩んだ人には、見えないものなのかも知れない。そんな人々が徒党を組み、闊歩する姿には、目を背けたくなるのも、無理の無い反応だろう。
人の上に立つ者の条件とは、様々にあるに違いない。だが、その中でも、最近特に欠如が目立つのは、責任ある態度とぶれない姿勢ではないか。臨機応変を目指すあまり、猫の目のようにくるくる変わる戦略や発言が目立ち、基本や基盤といった、据えるべきものを持たぬ人が多い。周囲の混乱はその結果と見るべきだ。
誤りを認めず、固執する姿勢に、嫌気がさすことがある。豹変を繰り返せば、混乱を来すのは明らかだが、その一方で、硬直化した思考は、落とし穴に嵌り、展開を好転させることもできない。そんなことが繰り返された結果、閉塞状態を打ち破るどころか、落ち込んだ穴を抜け出せない状況が続いた。長く続く闇に、その原因と解決策は、徐々に明らかになりつつあるが、現場に立つ人間たちは、現実には、何の反省も無く、無策を続けるという無能ぶりを曝け出している。企業などの組織は、それでも首の挿げ替えを繰り返すことで、何とか解決策を模索しているが、例の永田町の人々は、それより遥かに重い病に冒されたようだ。自らの発言に責任を持てず、前言撤回は以前からの得意技となっていたが、それでも、自らが率いる集団の政策決定には、ある程度の責任が感じられたものの、最近の状況は悪化の一途を辿っている。それぞれに風見鶏のように方向を変え続け、種々雑多な思惑に基づく意見に振り回される。意見を吸い上げ、柔軟に対応するという夢物語は実現せず、単に人気取りの為の多数派工作のみが表に出る。何が重要か、既に考えられなくなった人々に、何を決めることができるのか。だからこそ解散との声があるが、何が起きるかは明白で、無意味な無駄遣いに過ぎない祭りに支払う金は、何処にも転がっていない。
記憶力に自信があるだろうか。人の名前、人の顔、過去の出来事、などなど、数え上げれば切りがないだろうが、覚えていれば良いが、忘れてしまうと、時に恥をかくこととなる。その場で忘れていても、後で思い出そうと努力する。それで戻ってくれれば、ほっと一安心となるが、そのうちそれも難しく。
記憶と言っても、その種類は数多ある。顔と名前は画像として記憶されるとは言え、全く別のものと思えるし、更に音声や匂いという違う媒体を介するものとなれば、同じ枠に押し込めるわけにはいかない。だが、覚えるという行為は同じ、という見方もある。覚えが良い人と悪い人、そんな分け方が常に通用するかどうかは分からない。けれども、周囲を見渡すと、そんな枠に当てはめたくなる違いが見える。できる人には造作も無いことでも、できない人には努力のかいもない。何が違うのか、そんなことを問題にする人も居るが、これという決め手も無い。数字や言葉を覚えることでは、明らかな実力差が見えるのと違い、顔や声を覚えるのは、得手不得手が問題とされる。前者は学力と見なされるもので、偏差値との繋がりが強いと思われるが、後者はそういった力ではなく、学校を出た後に役立つものとされる。無意識に記憶しているものが多く、何処かで見た顔、何処かで聞いた声、といった感覚が出てくる。ラジオから流れる声に、特徴を感じない人も居るだろうが、意外な場面で同じ声に接してみると、声の違いもかなり大きいものだと感じられる。これも記憶の一種と見なし、特別な能力と見るのも良いが、それを学力などと結びつけず、人それぞれの能力の違いと見て、生活の場で役立てていけば良いのではないか。
経験を尊重する風潮は、唯一という言葉を掲げて、貴重な体験だけでなく、そこから得られた知識を、重視する姿勢へと変化して来た。だが、その知識は、いつの間にか捩じ曲げられ、歪曲されたものだけが、都合の良いものとして伝えられて来た。別の関連からか、新たな情報を掘り出す動きがあるが、今度はどんな意図からか。
被害者の保護が最優先され、その為の手立てに注目が集まった結果、影響の評価はある意味偏ったものへと変化して来た。その一方で、直後から影響の大きさを記録に留める作業は、客観的な見方を尊重し、大した意図を持たずに進められていた。ただ、その後の展開は、あらゆる方向に関係者の意図が乱れ飛び、それぞれに論を進める為の材料のみが、重要な情報として選別されることとなった。唯一の称号は、客観的なものではないとの指摘があるが、こういう所にも、主観性の問題が散見されており、多くのものを失わされた結果として、自分たちの上に残った記録さえも、人々の身勝手な考えに利用されることとなる。改めての検証などと、興味を惹く言葉が踊るが、それさえも、正確な記録の掘り出しより、その解釈に力が注がれ、再び、ある主観からの主張を、強く掲げることになるのではないか。一部の専門家は、記録の重要性を認識しつつも、社会的な役割を重視するあまり、自らの意見を、記録に載せて流そうとする。判断を他人に任せる風潮は強まるばかりだが、それが非常識を産み出す原因の一つだと指摘する声は、余り大きくない。それより、専門家たちが正しい意見や解釈を示さないことに、問題があるとする意見が多いようで、それさえあれば、全てが解決するとなる。だが、意見や解釈は人それぞれに独自のものであり、その尊重を訴える声も多い。矛盾に満ちた情勢だが、果たして、何が正しいのか。その判断は、誰がすべきか。