パンチの独り言

(2012年8月13日〜8月19日)
(倹しさ、moral、狂騒、幼稚、亡者、感化、不健康)



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8月19日(日)−不健康

 誰もが長生きをしたいと願う。その為に必要なことは、健康を心掛け、様々な手立てを講じることに違いない。だが、それで十分かと問われれば、誰しも不安を抱くのではないか。特に、最近の傾向は、種々の病気の原因や症状が取沙汰され、誰もが罹る病気と紹介されるばかりか、如何に深刻かを伝えるようになっている。
 長生きに心配は大敵と思う一方、健康維持の為の手立てを心掛ける。そんな矛盾は無いと思うが、これらの両立を迫る動きは、強まるばかりのように思う。危険性を訴える人々に、どれほどの心配があるのか、疑わしいものと思えるが、その警告を受け止める人々には、心配の種が尽きることは無い。次々と湧き出る危険に、一々心配していては、日々の生活もままならなくなる、と思える人はまだましであり、ただ心配の淵に落ち込んでいく人は、抜け出す糸口さえ掴めなくなる。要するに、心配こそが諸悪の根源と理解すれば、自分なりの心掛けを貫くのみで、他人の余計な一言は聞こえなくなる。こんな簡単なことで、と思うかも知れないが、敵もさるもの、その程度では引っ込んでくれない。メタボという言葉を流行らせ、予備軍という名の半病人のような扱いは、まさにその典型とも思える。予防の重要性は否定できないものの、過度な心配や気に病むことは、健康に良い筈も無い。健康管理の為の検査が、心配の種を作り出すだけとなっては、無意味どころか、命を縮めかねないだろう。それなりの手立てを講じる為のきっかけとして、これらの数値を活用することは重要だろうが、不安に陥らせるだけとなってはいけない。肝心なことが、自らによる管理だとすれば、数値そのものより、その経年変化にこそ、注目する点がある。一回こっきりの値をネタに、脅されたとしても、恐れるに足らずなのではないか。

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8月18日(土)−感化

 自分たちの時代との違いが何処にあるのか、改めて探したことは無いが、それほどの違いがあるのかと思ってしまう。子供たちの生活は一変し、様々な便利が満ち溢れる中で、どんな努力が必要か、などと論じる人が居るが、彼らにとって、その環境は当然のものであり、昔を知る人の感覚とは、明らかに違うのである。
 まるで、環境が人間の成長を妨げているかのように訴える人にとって、自らの経験との違いが唯一の拠り所となる。だが、その一世代前の先人たちから見れば、貴重な経験も一面的で拙いものにしかならない。そんなものを大きく掲げ、問題を追及するような態度に、呆れる人が居る一方、責任を負いたくない人からは歓迎すべきものと見られる。便利な社会の典型として、情報伝達の発達が取り上げられることもあるが、使い方の誤りも数多見られることとなる。驚きの一つとして以前取り上げたが、休みの宿題の難物の一つである、読書感想文の例を提示し、それを書き写すだけで良いと豪語した馬鹿者は、自分なりの解釈を滔々と述べていた。この愚行に対して、意見は様々にあるだろうが、子供たちにとっては、それに惑わされるか、はたまた、無視するかは、自由な選択である。努力とは、自らの中から出てくるものであり、外から強いられるものではない。そのことを考えれば、こんな子供騙しに飛びつく子供は、それこそ下らない大人にしかなれず、社会に文句や注文ばかりを出し、自らの責任を微塵も感じない人間になるだろう。便利が作り出した人間と、まるで社会の責任を問うような意見も、本人にその素質があったとするだけで、一蹴できるのではないだろうか。環境を整えることに異論を唱えるつもりは無いが、全てを環境の責任とする考えには同意できない。そろそろ一人一人の責任を問うべき時期が来ている。

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8月17日(金)−亡者

 志の高さを実感する機会は、全く無くなったのだろうか。そんなことを思い浮かべたくなる程、腐敗した社会が目の前に広がり、欲に走る人々が蠢く。自分さえ良ければ、という考えが大勢を占め、我先にと争う姿が映される。だが、当人たちにその気はなく、罪悪感も無い。この当然が、病いの重さを示すのか。
 現在の状況がどうなっているのか、さっぱり分からないが、こんな社会情勢で、まともなことが行われているとはとても思えない。何の話か、読んでも解らないと言われるだろうが、昔の学校で、ある意味無理矢理に読まされた副読本の話である。道徳の時間、それを読んだ子供たちが何を感じたのか、今となっては、遠い思い出でしかないが、全国版の偉い人ばかりでなく、地元の偉業を紹介する文章に、そうだったのかと思ったような気がする。用水の敷設は、そこにあるものという感覚しか無く、それを成した人が特定されるとは思わぬものだから、そんな感覚が芽生えたのも無理はない。滅私奉公などという言葉が、度々聞かれたのも当然だったのだろうが、今では、私利私欲という言葉しか聞こえてこない。貧しい心には、邪悪な考えしか浮かばず、欲に走るのではなく、志を高く持て、といった教えは、果たして伝わったものか、自信は無いどころか、現状を見渡せば、明らかに失敗だったことが解る。だからといって、伝達を怠れば、状況は悪化の一途を辿る。それほど明らかなことを、無駄を理由に疎かにするのは、何と馬鹿げたことに思える。志の無い政治家はその代表格だが、彼らにあるのは欲望のみに見える。その言動や行動の幼稚さには、偉人と呼ばれた人々のあるべき姿は重ねられず、呆れた声が聞こえてくるが、その根源を辿れば、愚かな人々の妄言に惑わされる愚者の姿が見えてくる。愚民政治はこの国のみと思う人も居るようだが、現実には時代の趨勢であり、世界中で同じことが起きている。隣国の宰相の言動にも、分別の無さのみが見え、餓鬼の喧嘩の叫びに似たものが感じられる。相手にしないことが肝要と言っても、餓鬼が頂点に居る国に、どう接したものか。

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8月16日(木)−幼稚

 倫理や道徳の話が取沙汰されるようになったのは、それが失われているという実感があるからだろう。だが、そんな大層な話なのかと思えることの方が、遥かに多いように感じることが多い。欲望に走る、身勝手な行動に走る、そんな所から、幼稚な心の問題と扱う動きがあるが、子供でももっとましではないか。
 子供たちは大人から見れば、勝手な行動ばかりしているように見えるが、彼らなりの理屈があり、周囲の大人の目を気にしている。幼稚化といった表現に違和感を覚えるのは、この部分の違いの大きさで、いい大人が周囲の目を気にすること無く、自らの欲望を満たす為だけの行動に終始する姿には、子供とは全く違う、人間が本来持つべき考え方を、全て何処かに忘れてしまった感がある。倫理とか道徳とかの問題以前に、人間としての最低限の要件を失ったとしたら、果たしてそれ相当の扱いをすべきものか、怪しいものとなりかねない。暴力に暴力で応じたり、怒りを抑えきれずに力の行使をしたり、集団による苛めの構図に自らが関与することに気付かなかったり、これら全ては、周囲からの視線を感じ、それを自らの行動に反映させる、ごく一般的な社会性を捨ててしまった、ある意味犬畜生以下の生き物を見る感覚がある。一方で、歪曲された社会の中で、自らの同調性を示すなど、仲間意識という名の暴力を行使する人々が、巷に溢れているのを見ると、周囲からの厳しい関与の必要性が、より強く意識される。だが、ここまでねじ曲がってしまった社会では、何が規範となるかさえはっきりせず、基準の無い中での関与は、方向を誤ることに繋がってしまう。まずは、下らない言動や狂気に満ちた行動を排除する動きから始め、改めて基準となるものを考え直す必要がある。誰が始めるかを気にする人が居るが、本来は、誰もが狂気を意識し、暴力を排除することから始め、自らが中心となる気にならねばならない。

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8月15日(水)−狂騒

 実況中継を見ていて、普段との違いを実感した人も居たのではないか。ただ騒ぎ立てる実況や、飾り言葉ばかりで嫌みさえ感じられるもの、五月蝿いという表現が当てはまる程、下品なものが目立つ中で、落ち着いた流れに安心を感じる。そんな違いが、今回は殆ど感じられず、何故と思った人も居るだろう。
 理由は簡単で、従来ならば、それぞれに用意した自局社員が担当するのに、今回は競技毎に担当を決め、普段とは違う雰囲気が流れたからだ。興奮を抑えられず、話すより叫ぶに近い状況に陥る人も、競技による違いと見れば、何となく許せるものらしい。その一方で、盛り上がらぬ中継に、ネット上では不満が続々と寄せられた。普段なら落着きが歓迎される中で、盛り上がりに水を差すとなると、状況により大きな違いを産むものだと思えてくる。だが、それにも増して、大きな変化が感じられたのは、これまで冷静さを失わず、伝達を第一と貫いて来たのが、いつの間にか、他との違いは殆ど見えず、ただの馬鹿騒ぎに興じる愚者へと変貌したことにある。盛り上げる手法は様々にあり、叫ぶのはその一つでしかない。冷静さとは正反対の姿に、番組選択を間違えたのかと思える程だが、当人たちは、悦に入った気分なのだろうか。こんな批判を思い浮かべる中、全く別の方向から、厳しい声が寄せられているとされる。催しを盛り上げる為に、まるで音楽会の如く、次々と有名な演奏家が登場する中で、この中継を担当した件の局の人々は、音楽を楽しむ気分も無く、ただ喧しく喋り続けたらしい。下品な態度は様々な場面で指摘されるが、今度は全く違った方からの指摘で、少しは反省に繋がるのだろうか。

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8月14日(火)−moral

 海の向こうの一流大学での講義風景が、どういうきっかけからか、茶の間で見られることとなった。学生の参加を主体とする進め方に、自らの経験を重ねあわせ、大きな魅力を感じた人が多いようだ。だが、参加する本体に、自らを重ねあわせると、一気に期待は萎むのではないか。厳しさの上の魅力は、手にするのに危険を伴う。
 その後、様々な講義が同様の形式を持ち、それぞれに魅力追求と負荷増大の微妙な均衡を保ち、効果を上げている状況が見えている。だが、形式的な問題より、内容へと目を移すと、それはそれで難解な問題を扱っていることが見えてくる。倫理を主題として、様々な場面設定の下、どんな道を選択するのかを、受講生たちに考えさせ、議論を展開させるものだ。こじつけが目立ち、無理筋を展開する流れに、違和感を覚えた人も多いだろうが、脳を鍛える手法と思えば、納得できるだろうか。それとは別に、気になったことには、何故、倫理とか道徳といったものを、このような試みの主題として引っ張り出すのか、ということだ。人それぞれに、それまでに得た経験に基づき、人間としてあるべき行動を導き出す、といった行為に必要な要素と見なされる、倫理・道徳だが、それを議論の対象とし、何を選ぶかを議論するのは、釦の掛け違いのように感じられた。教授の主題であり、講義の主題であるから、当然の展開と見るかも知れないが、人それぞれの違いを際立たせ、恰も正誤を論じるような流れに、根本的な過誤を感じないか。これと似た状況は、倫理の前に何らかの言葉を置いた単語にも感じられ、人間の本質であるべきものに、何故特定の括りが必要なのか、首を傾げざるを得ない。人間は考える動物だから、という具合に倫理や道徳の問題を扱うようだが、傲慢さが見えるのみで、本来あるべき姿が見えていないように感じられる。理論武装ばかりで、本質を見失えば、出る筈の答えも、見えてこないだろう。

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8月13日(月)−倹しさ

 経済停滞が続くと言われるが、庶民にとってどんな状況なのか。長い休みをとれるのは一部の人に過ぎず、海外へ出るのもそんな人々、という声も聞かれるが、それが全体の一割を超えるとなると、一部の特権階級などとは言い難い。悲劇の台本に固執する人々には、何とも受け入れ難い状況なのではないだろうか。
 消費を抑え、貯蓄に走る、そんな国民性に、批判が集まった時代もあったが、その後の変遷からは、身の丈に合った生活を維持する、そんな態度に評価は高まった。確かに、依然として苦しい時代が続いているように見えるが、それを一時の狂乱の時代との比較として見るようでは、強引な結論付けにしか思えない。悪く見る為に必要なこととは言え、その非常識さや非論理性には、攻撃の的となる部分が多く露呈する。主張する人々は、その欠落部分や欠陥に気付かぬようだが、そろそろ、再出発の為に、全てを元に戻すべきだろう。パソコンの場合、昔は固まってしまった機械の、唯一の解決法はリセットボタンであった。歴史の上に立つことは承知しているものの、歪曲された解釈が横行するようだと、一部の歴史だけを取り上げる姿勢は、批判の対象となり得る。本当に大切なことは、今を生きる人間にとって、正当な評価に基づき、今を楽しむ生活を送る権利であり、訳の分からぬ劇の台本を押し付けられる必要は無い。まず、周囲を見渡しつつ、自分たちの分相応な生き方を、探してみてはどうだろう。欲望に走った時代を超え、抑制が強くかかる時代へと入り、波乗りの如くの上下に、何かしっかりとした基盤を貫くことは、重要に違いないのだから。

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