何か事が起きてから、こうすれば良いと提案することは、それほど難しいことではない。以前に思いつかなかったことも、現実を目の当たりにすれば、様々に思いを巡らし、対策を講じることは容易だろう。だが、それが本当に役に立つのは、何時のことだろう。もう一度同じことが起きれば、役に立つ筈なのだが。
対策と同じように、事が起きた時に役立ったことが、二度目も同じように役立つとは限らない。経験は、有用なものに違いないのだが、同じで良いとは限らない。これは大変に難しいことで、本当にそっくりそのままのことが起きれば、役に立つことでも、ちょっとした違いから害にしかならないことも多い。提案の中で、最も危険なのは、一つの選択肢に拘る姿勢で、特に、最適化という考え方が、危ないものと言われる。それでも、危機回避の手段として、対策を講じる訳だから、多種多様な対策より、一対一の限定されたものの方が、歓迎されることがある。一見、最適な対策に見えるものだが、最適は、ある限られたものにしか適用できず、結果的に役立たずに終わることも多い。では、どうしたらいいのか。結局は、視野を広げておき、一点に集中しない方が、様々な場面で役立つこととなる。上手く行けば良いが、失敗した時に、と考えてみると、自ら縛り付けていたことに気付かされる。経験の大切さは、ある特定のものを指すのではなく、人それぞれに、自分独自の経験をすることにある。それが種々雑多であればある程、集まった時に文殊の知恵が出てくるのではないか。そんな思いで居れば、互いに足らない所を補いあいながら、最善を模索する。最適と最善は同じものかも知れないが、少し感覚的に違っているように思うのは、こんなことを考えるからだろうか。
被災地という言葉は、何を印象づけるのだろう。他とは違う状況にある土地、という意味はすぐに判るとしても、それが何時まで続くのか、また、その違いとはどう変化するものなのか。色々なことを思い描いても、いざ、それを目の当たりにした時には、また違った感覚が芽生えてくるものなのだろうか。
災害の直後には、あらゆる機会を捉えて、その惨状が伝えられる。それを見る度に、被害という言葉を思い浮かべるが、そのうち、徐々にその機会が減り始め、ついには何も無かったかのような状態に至る。それは、回復の兆しと見ることもできるが、現実には、何も起きていないと思う人も多い。以前と同じ状態に戻ることが回復であれば、それは起きる筈も無いことかも知れない。元通りとは、あらゆる意味でのことだけに、それが簡単でないことは、少しずつ戻り始めた時に、強く気付かされる。再生という言葉は、簡単に使われる割に、それを実行に移すことは、実は難しいものとされる。原状回復などと言われるが、原状が必ずしも良い状態ではないだけに、それだけを目指す考え方には、異論も噴出する。機会を見出せず、発展を逃して来た人々にとって、災害は、天から与えられた機会と思える。だが、大きな被害に打ち拉がれた人々にとって、回復も覚束無いのに、更なる発展を、という考えは中々に受け入れ難いものだろう。そんな中で、将来を見通した計画を提案し、それを実行に移すとなると、そこには強い意思の力が必要となる。被害者然とした態度が第一と思う人々にとって、それを遥かに越える考え方は、困難ばかりが目立ち、無理難題としか映らない。では、今はどんな具合になっているのか。
面と向かっては言えないことも、画面を通してしまえば、簡単に書くことができる。相手の反応は、冷たい言葉でしか返ってこず、無視することもさほど難しくない。だが、こんなことに慣れてくると、面と向かっている時にも、相手の表情を見ること無く、無遠慮な物言いを繰り返す。意思疎通は、望めない。
そんな風潮では、礼を失するような言葉も、咎められること無く、放縦な状態が続く。若い世代にとっては、当然のような状況も、年配にとっては、異様な雰囲気が漂う。そんな思いを抱くものの、現実には、若者より、ある程度の年寄りの方が、放言を繰り返すのが現実のようだ。抑制されたものが放たれるが如く、勝手気侭な物言いには、何の配慮も感じられず、無責任な大人の代表に見えてくる。世代の断絶などと言われたのも、実は彼らが若い頃の話であり、伝統を破壊し、慣習を無視する行動が、新たな時代を切り開くものと、歓迎されていた。だが、実際には、破壊のみが残り、新たな展開へと移ることは少なかった。いい大人は姿を消し、分別の無い人々が、勝手な振る舞いを繰り返す時代となった。自分だけが良ければいいと思う人々が、ある割合を超えた時、抑制は効力を失い、暴走が繰り返される。その中で、互いの考えを理解し、合意に至ることは、ほぼ不可能な事態に陥る。優しさという名の放置が、その状況を悪化して来たとしても、それを食い止める手立ては見出せない。改めて、身の回りを見渡してみても、解決策が見出せないばかりか、悪化の一途を辿っていることは否めない。そんなものと思えば、どうということも無いが、でも、何とかならないかとも思う。ただ、皆の意識が変わらぬ限り、やはり、兆しは見えないのではないか。
呟きとは、他人に聞こえるかどうか、微妙な状況での発言を表すものと、思われて来た。それが最近、皆に聞こえるように、公にするものを指すようになり、それが伝言の仕組みに乗って、異常な程の広がりを見せている。こんなものは呟きでも囁きでもない、などと文句を並べても、乱れた言葉は暴走を続ける。
意見の交換は殆ど望めず、互いに言いたいことを並べるのみ、という状況は、こんな仕組みが導入される前から、世の中の趨勢となっていた。それを加速させたのが、通信網の発達で、選ばれし者たちの手から、一般大衆へと移るに連れ、一方的な意見の提示は著しくなった。公的な機関でさえ、常識を失いつつある中では、大衆が自らの責任を顧みることは無く、感情的な発言を反省する気配は見えない。特定されないことを良い事に、身勝手な発言や暴言を繰り返す人々に、社会は鉄槌を下すこと無く、伝達ゲームに勤しむ人々は、面白おかしい発言を無思慮に流し続ける、遊びに耽っている。先日も、御用学者と揶揄される人々の、尻尾を掴んだとした、オンブスマンを自任する劣悪な人々が、確認を怠ったままに、誤報を流した際に、判断力の無い人々が、それに飛びつき、批判の言葉を並べ、罵倒を繰り返す連鎖となった。後日、誤報を確認する情報が流れても、叫び続けた人々からの謝罪も修正も無く、これが現代社会の現状であることが、はっきりした。面と向かっては何も言えぬ人々が、画面を相手に悪意に満ちた言葉を入力する。自分が同じ言葉を突きつけられたら、衝撃に耐えられぬ人々の、こういった行状には、人間がとるべき行動規範は見えない。多分、情報源の間違いに、自らの責任は無関係と、勝手な論理に縋っているのだろうが、噂話に振り回される、最下層の人間であることを、自覚すべきではないか。この仕組みの最大の欠点は、過激な言葉程、独り歩きを続けることで、これまでの仕組みなら、源を絶てば、消え去ったものが、増殖を繰り返す中で、訂正もできず、消し去ることもできないことにある。だからこそ、気軽に愚かな発言をすべきでないのに、愚者にはそんなことさえ判断がつかぬのだろう。
外国人の講演などで活躍するのが、通訳ではないだろうか。言語の専門家と呼ぶ人も居るようだが、現実には、言語そのものを専門とするより、言語間の橋渡しを専門とすると言うべきだろう。彼らの能力のうちで、特に驚異的と思えるのは、専門用語の翻訳にある。外国人の専門性に合わせ、周到な準備をした結果として。
言語間の往復と言っても、観光ガイドの範囲程度であれば、日常用語で十分に対応できる。だが、専門家を迎えての講演となれば、そこで使われるものも専門性の高い言葉となる。それが一般大衆を対象とするものであれば、気を遣う必要も無いだろうが、専門家の集まりとなると、自らの能力の不足を前面に出してしまうと、大きな妨げとなる。通訳は、その度に新たな術語を仕入れ、その場限りの対策を講じる。言語に通じるとはこんな所にも当てはまるのか、と思える能力の一つだろうが、一般には余り評価されていないようだ。本質的な理解は別にして、少なくとも異言語間の変換を円滑に行うことが、最優先の課題だから、単語の意味より、対応を先とするのもやむを得ない。言葉を知ることが専門性と思い込む人々からは、俄専門家と見られかねないが、現実には全く違った状況にあると言える。これとは正反対の事態が、今巷で起きているとするのは、少々乱暴な考え方だが、何かある度に登場する俄専門家に、愚かな人々は惑わされ続けている。詐欺にかかりやすいのと同じ仕組みかも知れないが、彼らの多くは極端な言葉に惑わされ、論理性を検証すること無く、信じ込む傾向にある。宗教の一種かとも思える洗脳に、すぐに嵌ってしまう人々には、何か肝心なものが欠けている気がするが、次々に罠に落ち込むのも、無理の無いものに思える。被害者と呼ばれる人々の問題は最も大きいが、その一方で、俄仕込みを自慢げに披露する人々を持ち上げる連中の煽動も糾弾されるべきものと思う。無知より遥かに悪質な、俄たちには、正しい知識より、機に乗じることが肝心なのだ。
何か事が起こる度に注目されることの一つに、備えがある。事への対処は、備えの有無により、大きく違ってくる為なのだが、小さくて、すぐにできるものならまだしも、大掛かりでかなりの投資を強いるものまで、取沙汰されるのを眺めると、人間の恐怖感が産み出す、一種の害悪なのではと思えてくる。
記録の保存は、様々な所で必要となるのは当然だが、それが失われないようにとの対応は、費用対効果を考えるべきものだ。千年に一度の災害への対応が、日常的なものに適用されるとなると、どれほどの意味があるのかと思える。特に、永年保存すべき記録なら理解できるが、多くの公的記録の保存は5年と限られ、そこに過大な投資をする事には、抵抗を覚える人は少なくない。馬鹿げた騒ぎの一種と思えば、喉元を過ぎるまで暫く放置すれば良いのだが、過剰な恐怖はその暇を与えぬように働きかねない。落ち着いた対応が求められる場面でも、悲鳴にも似た声が上がり、一気に盛り上がれば、過ぎた対応へと繋がりかねない。公的なものへの投資は、住民全体の負担となり、幾ら国からの補助があったとしても、過大な負担を強いられることとなる。二度と御免という気持ちを汲むべきとの声もあるが、話題の的しか見えぬ人々の、愚の骨頂とも思える行状に、手を貸す必要があるのだろうか。更に、火事場泥棒のような人々は、この機に乗じて儲けに走る。備えの一言で、あの危機を乗り越える為の手立てを紹介する企業があるが、もし稀な出来事への備えを指しているのであれば、それが役立つ機会に出合うことは有り得ない。それを十年使うかどうか判らぬ道具に装備し、その付加価値を謳うとなると、詐欺にも似た話と思えないか。確率は非常に低く、二度と起こりそうにも無くても、零ではない訳だから、詐欺ではないと主張するのだが、ここまで来ると、騙される奴が悪いとなるのか。
夢を実現する、という話に誰もが飛びつくようになり、世間全般に、どんな夢を抱くかが肝心と言われるようになった。だが、その為に必要なこととして、夢の描き方ばかりが取り上げられ、描いた夢への近づき方には、殆ど関心が得られなかったのは、不幸の始まりと言えるのかも知れない。夢心地に浮かれて。
夢を見ること自体が悪い訳ではない。夢を描き、それを達成する為に、努力を重ねる。そんな当たり前の図式が、崩れ始めたのは何時頃からか。夢の評価に皆の注目が集まる一方で、その達成度には人それぞれの違いが現れ、差を明確にすることに、ある意味の遠慮が現れてしまったのかも知れない。そんな過程を経て、結果を重んじる姿勢は、徐々に弱まり始めた。となると、達成できそうにも無い夢を描くことが重視され、身近な到達点は矮小化されてしまった。夢は実現できぬもの、という考え方にも、おかしな所は無い筈だが、何時の頃からか、達成できないものを意図的に選び、大きなものを殊更に選ぶ傾向は、強まるばかりとなった。と同時に出て来たのは、達成に向けての努力より、夢を描くことを優先する考え方で、描いてしまえばそれでおしまい、という物語が沢山出てくることとなった。その結果は、地道な努力を蔑視し、日々の積み重ねを忌み嫌う風潮となり、ついには、手当り次第に無理を繰り返す人々が、続出することとなった。この異常さは、こんな風に取り上げるも無く、周囲に溢れるやる気の無い人々を見れば、すぐに解ることだが、目標達成を第一とする人々の登場で、少し状況に変化が現れて来たのかも知れない。ただ、あの人々を特殊と見る感覚が残る限り、悪い風潮はそう簡単に引っ込む筈も無いのだろうが。