パンチの独り言

(2012年9月10日〜9月16日)
(大づかみ、立ち上がる、寝返る、認める、言い負かす、知らぬ、見誤る)



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9月16日(日)−見誤る

 巷で噂される程、この国は酷い状態にあるのだろうか。飽きること無く、悲観的な筋書きを披露し続ける人々は、何を根拠とし、何を信じて、あんなことを言い切れるのか、冷静に見渡すと、現実との乖離に首を傾げてしまう。作り話と揶揄されようが、本人は意に介さず、警告と名付けた自説を曲げず、主張し続ける。
 彼らの思いは、国の行く末を案じ、道を示そうとするものだろうが、その多くは、論理を欠いた、ある極端を示すに過ぎないものである。それでも、有事の際には、その極端も起こりうるとして、全く別の観点から示された警告の威を借りて、自らのものも有用と主張する。文化人と呼ばれる人々の一部が、こんなことにどっぷりと浸かるのは、どんな思いから始まるのかは、今一つ判らないことだが、昔から、身の回りの重要な事象を、際立たせ、注目させる役割を負って来た。所詮、知識の範囲では庶民と何ら変わらぬ人々が、無関係な分野での名声を追い風に、人々の注目を集めるのは、彼らが築き上げたものによると言えるのかも知れないが、的外れな議論や提案が、恰も正論かの如く扱われると、そこにある狂気にも似た空気に、どうしたものかと思えてくる。ずっと昔、様々な公害が社会問題となり、一地方に限らず、地球規模での環境破壊に繋がると、ある小説家が警告を発していた。彼の言葉はそれほどの広がりを見せなかったが、愛読者たちには強い印象を残した。情報社会の発展は、今なら全く違った様相を呈しただろうにとの想像に繋がるが、かの言葉とて、的を射ていたものか、明確ではない。そんな中で、評論家だけでなく、何かしらで名声を勝ち得た人々が、次々登場して、悲観の披露へと結びつける。ただ、風向きを気にするばかりの人々には、何ら本質を見極める力が無いことは、明らかではないか。

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9月15日(土)−知らぬ

 外からの目を気にする国民性は、自らの評価を捨ててしまったのか、はたまた、忘れてしまったのか、兎に角、自分を振り返ることさえ難しい状況にある。以前ならば、送られる礼賛の言葉に喜びを露にし、辛辣な批判の言葉に打ち拉がれていたが、最近は、何を言われても我関せずといった態度が続いている。
 自らの判断を優先して、他人の言葉に惑わされない、ということであれば、以前とは大きく異なり、ある意味の成長を感じさせるが、現実は、正反対のものらしい。自分のことに目を奪われ、全体を見渡す余裕が失われた結果、他人の言葉が耳に入らない。そんな状況が散見されるに連れ、自分たちの権利を護ろうとする姿勢が、強まり続けている。どちらの持ち物かを、互いに主張するだけの応酬では、何の利も得られないと思うのは、余りに冷たい対応かも知れないが、そこに入り乱れる思惑に目を向けても、下らない争いに巻き込まれるだけに思う。天変地異を殊更に取り上げるのも、こんな余裕の無さの現れか、警戒を呼びかける声だけが強められるのには、嫌悪に近い感覚を覚える。全ての基本が、不安に結びつくものという考え方は、一見、安全を目指すもののように見え、その実、逆方向へ驀進するものとなる。悪い方向への考えは、不安という味方を得て、膨らむばかりとなり、楽観的な考えは、全て一刀両断の如く否定される。こんな中では、外からの礼賛の声は届く筈も無く、世界各地が危機に見舞われる経済状況でも、どういう訳か評価が高いままの為替についても、悪い話へと結びつけられる。不安定な中での安定という評価は、悲観的な見方を常とする人々には、全く届かず、国内事情に向いた目は不安要素を皿のようにして探し続ける。科学、文化、その他様々なものへの社会的理解は、そんな中で凋落頻りと見えるが、それでもあちらの国々よりは高いらしい。だが、無い袖をどうするか、やはり無理難題なのか。

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9月14日(金)−言い負かす

 議論の上手下手に注目が集まる。だが、そこで問題となるのは勝ち負けであり、議論の中身ではない。典型なのは、ディベートと呼ばれる競技にも似たもので、屁理屈を並べてでも、相手を言い負かすことが第一とされる。下手と呼ばれた国民性か、最近、勝負に拘る人が増え、肝心なものを見失っているのではないか。
 極端な例では、電気しか使わない生活までが、一時もて囃されていたが、震災後、見直しの風潮が高まった。理由は簡単で、あるのが当然のものが、無くなるという危機感が抱かれ、危機回避の為の依存分散に目が向いたからだ。良い点ばかりを前に出し、欠点は覆い隠す、という姿勢の現れだが、その後の混乱も、同じ様相を呈していることに、気付かぬ人々に、またぞろ、愚民という呼び名を使いたくなる。電力供給の見直しは、一部への依存を下げるどころか、害を及ぼすものとして、無くす所まで主張を広げている。その中での議論は、様々な思惑が入り乱れ、直近の恐怖を糧に煽る戦略が、特に功を奏したかのように見える。だが、大した知識も無く、感情論に走る人々の論拠は、弱いどころか、無いに等しいものであり、付け焼き刃のひけらかしには、反吐が出そうになる。安全性に目を奪われる人々は、自然がもたらす資源を重視し、光、風、熱などといったものへの依存を、当然のものと主張する。だが、農作物の不作に見られるように、自然の気紛れは、人間の思惑など気にも掛けない。依存性の高さは、安定供給を絶対条件とするが、気紛れに左右されるものに、どんな保証があるのか、安全ばかりを繰り返す人には、判る筈も無い。火力や原子力に力が注がれたのは、その点を考慮したからだが、火力は別の要素で抑えられた。一方、不作の原因である水不足は、水力への依存に不安を抱かせる。更に、絶対の安全が無いことを考えれば、今安全と見られるものも、いつ悪者になるか判らない。将来を見据えて、などと高慢な意見を放つ人々が、実は小さな点しか見ていないことに、気付くべきだろう。

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9月13日(木)−認める

 官僚主義が批判され、様々な圧力が加えられたが、その結果として、現状はどう評価されるのか。改めて質すまでもなく、答えは明白に思えるが、そうなった原因は何か、不明な点は数多くある。一部の人間が国の行く末を決定する、と聞くと、それだけで不安を抱く人が居たが、その理由は、実は、はっきりしていなかった。
 にも拘らず、批判の矢を飛ばす人々に、期待を抱いたのは何故か。今となっては、こちらの方が、解けない謎のように思えてくる。選挙で選ばれた人間には決定権が委ねられているが、公僕として雇われた人間には、その権利を有する資格がない、という論理は、一見妥当に見えたものだが、現実には、言葉の遊びに過ぎず、各人の意識には、そんな事情とは全く異なる矜持があったようだ。それが根底から崩され、自らの立場を失墜させられた結果、自負が失われただけでなく、それに伴う形で、能力の急降下が起きたのではないか。奪われかけた権利は、紆余曲折の末、手に戻ったように見えるが、そこには、以前とは全く異なる、混乱が生じているように感じられる。成長期にも、数々の失敗が繰り返されたものの、伸びの影で静かに処理されていた。そこでは、失敗なぞ、無かったが如くに、新たな方向への修正が施され、実しやかな理由が付け加えられた。論理のすり替えなどは、その為の常道として多用されたが、失策を隠蔽する装飾が、常に用意されていたと思う。ところが、能力の低下は、こんな所にも影響が及び、急激な方向転換を、いとも簡単に行い、以前の主張は無かったかのように装う人々には、自らの失敗を隠そうともせず、裁断もしなかった前言を、放置している感がある。これ程明確に失敗の痕跡を残すなら、少なくとも、失敗を認め、時には謝罪をすべきではないか。装飾も施せず、失敗を繰り返し、方向転換ばかりするのは、官僚主義を批判した人々に、典型的な行動様式だが、社会全体にそれが当然となっては、下り坂が続くのも当然だろう。

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9月12日(水)−寝返る

 美味しそうな話にすぐ乗る人の多くは、自分でその手の話を作ることは殆ど無い。責任を負う立場になることを避け、おこぼれでも良いから利を稼ぐことを第一とし、沈みかけた船からさっさと逃げ出す。無責任の極みだが、本人は先頭を走り、時代の先端を行くと思っているらしい。何と身勝手なことか。
 こんなことを書くと、多くの人はあのことか、と思うかも知れない。確かに、国政に携わる人々の茶番とも思える騒動には、まさにこんな日和見的で風見鶏の人々が、相も変わらぬ馬鹿騒ぎをする姿が現れる。だが、この手の話は、何も特別な人に限られたことではなく、身の回りで日常的に見られることではないか。あらゆる組織で、こんな人々が活躍し、何の役にも立たないことを繰り返す。停滞感、閉塞感と呼ばれる状況は、社会全体に広がったが、雰囲気とか時代とか言う前に、こういう役立たずの人間が活躍する場を提供してしまった、全体的な緩慢さが、問題の核心であるように思う。国政と同様に、日和見的に人気に乗じて動き回る人々が、勝利を得る環境は、現実には、一部の悪人が害を及ぼすのではなく、その組織に属する人々が、人気や甘い言葉に騙され、そこに群がってしまうことで形成されている。愚民と揶揄されようとも、身勝手な利益追求を繰り返すのは、そこへの批判がないからであり、無批判が無責任を招いていることに、社会や組織の構成員が気付かぬ限り、この展開は繰り返される。離党して参加するという、如何にも聞こえの良い決断も、ただ単に、次の選挙でも選ばれたいという欲によるものと見れば、下らないものへと堕ちていく。中身がないからこそ、他力本願へと飛び回る。そんな人間ばかりで、大事を成すことなどできる筈もない。

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9月11日(火)−立ち上がる

 復興が遅々として進まぬ、という情報が多くの場所で流される。画面に示される光景は、直後の瓦礫に溢れたものではないものの、衝撃的な更地をさらしている。外から見る人間にとって、あれほどの支援を受けながら、何故何も起きないのか、と思ってしまうが、現実には、計画が定まらないことが一番の理由のようだ。
 あれほどの被害を受けたのだから、それへの対策を講じるべき、との指摘は、間違いとは言えないだろう。だが、一方で、千年に一度との意見を汲むと、防災設備として無駄遣いと揶揄された施設と同様に、折角のものも肝心な時には劣化が進み、といった筋書きが登場する。確率的な事象への取り組みは、人間の最も苦手とする所らしく、この手の議論は平行線を辿る。更に復興への足枷となるのは、都市計画という名の強制的な措置であり、喜怒哀楽が入り混じる中で、地域社会としての姿を築き上げる必要がある。自己主張が飛び交う中では、こちらも平行線に乗せられ、答えに至る道筋は見えてこない。行政が住民の顔色を窺い始めてから、この問題を解決する道には、越えられない壁が立ちはだかる。強制は、確かに、禍根を残すことになるだろう。だが、無為に時間を過ごせば、復興は幻に終わるのではないか。多数決に頼ったとしても、同じ禍根が残るのであれば、行政が先頭に立ち、方向を定めた上で、強制にも似た施策を編み出す必要があるのではないか。同じような状況を歴史上に探せば、おそらく多くの都市の焦土と化した、あの姿を思い浮かべる人が多いだろう。その中で、行政が機能せず、人々の動きを後追いした大都市がある一方、行政が先頭に立ち、道路の拡幅や墓地の移転などによる、都市計画を断行した大都市もある。前者は住民の力の勝利かも知れないが、それと同時に、公的援助を頼りにしない姿勢に目を向けるべきであり、後者には、行政の実行力に注目すべきだろう。どちらもない事態では、あの画面に現れた光景も、当然なのではないか。

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9月10日(月)−大づかみ

 人材不足が強調されているが、本当なのだろうか。こんな疑問が湧くのも、そんな批判が聞こえる一方で、組織の中での人材活用が不十分で、その為に組織の活性が落ちているとの指摘も聞こえるからだ。人材という視点は同じなのに、的となっている部分は大きく違う。一体全体、何が起きているのだろうか。
 人材不足を訴える人々の声に耳を傾けると、そこには、人々の能力不足が深刻になっていることが見える。課題を見出す能力の減退を訴える声が高まっていたが、目の前にある課題を解決する能力の欠如が、更なる問題の深刻化を見せている。だが、人材活用についても、実は同様の問題があることに、気付かないのだろうか。活用を決めるのは、それらを管理する人間であり、彼らの能力を測る手立ては、人員配置にあると言われる。相手の力量を見極め、それに適した場を与えるだけでなく、表に現れていない潜在力を引き出す能力が必要とされるが、後者のような付加価値は見るべくもなく、前者さえも満足に実行できない人々に、諦めの声が聞こえてくる。結局、同じ根っこなのかと思える所だが、この問題に関しても、巷で話題になることの多くは、上辺だけに目を向けたものであり、本質的な問題が顕在化されることは殆ど無い。課題を見出し、解決するという能力に、重要な要素は何か。知識を第一と挙げる人も居るが、その前に、相手を知る必要はないのか、と思う。知識は、相手によるものでないだけに、机上の空論では対処できない。現実を目の当たりにしつつ、そこに問題を見出す必要があるのに、知っていることだけで取り組もうとしても、無駄に終わるのだろう。おそらく、把握する力、つかみ取る力が足らない為で、その上に、全体を纏める力も不足する。こんな状況が、今を決めているように思う。他人の纏めに頼るのも、そんな事情によるのではないか。

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