パンチの独り言

(2012年9月17日〜9月23日)
(老後、被虐、相互理解、悠長、供養、殺し文句、奇行)



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9月23日(日)−奇行

 虐待行為が蔓延したり、自らの権利主張に伴う破壊行為が正当化されたり、現代社会の荒廃ぶりには、憂いの声さえ聞こえてくる。その中で、人間性の失墜を問題視する意見もあるが、例の如くの自分を特殊視する姿勢には、哀れに思う気分さえ催す。弱肉強食の世界に当然のことが、何故特別に扱われるのか。
 野生動物の行動が度々紹介されるが、映像を眺めていても、そこに誰かの解釈が被せられる。それぞれがどんな思いを抱くかは、所詮理解されること無く、擬人化されたものばかりが実しやかに伝えられる。それによって満足して来たのは確かだが、大いなる誤解が築かれて来たことも否定できない。そんな中で自らの行動を省みて、特別な変化を際立たせる。だが、その多くが野性の世界では、ごく当たり前のことであり、その違いを理性と呼ぶことで、自らを特殊な存在として来たことに、気付く人は余り居ない。集団生活を送る動物たちに、イジメという現象が見られないと、誰が言ったのかは知らないが、猿山での行動は、その典型が多く見られるし、町中を飛び交う烏たちも、一羽を執拗に追い回す姿を見せる。ただ、重要なことは、それらの行動の殆どが、死を強いることが無いことだろう。死に追いやる程の圧力をかけたかどうかは、現実には、加害者側の問題とされて来た。つまり、死に至る程の傷を負わせれば、野性の中では生き残れないということに繋がるから、そこまでの暴力を及ぼさないという感覚だろう。ところが、特殊化して来た中で、被害者側の問題として扱われることが頻繁となり、自らの選択への圧力が問題とされる。これは特別な感覚であり、野生動物で見られたという話は聞いたことが無い。もし、人間の特殊性が理性と呼ばれるものにあるのだとしたら、それがこんな異常行動を導いたことにならないだろうか。集団の中の行動における異常は、実はごく当然のものに過ぎず、それが招いた結末にこそ、異常があると言えないだろうか。

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9月22日(土)−殺し文句

 情報伝達において、最も重要な単語は、と考えてみると、今現在の状況では、「不安」と答えたくなる。状況分析の結果やその数値などを流すのが、伝達の最も重要な役割であることに変わりはないが、その伝え方に明確な特徴が見られる。誰かが、不安という感想を漏らす、という光景を付け加えるのだ。
 分析の数値が何を示すかは、それを眺める人間により、異なってくる場合がある。だが、言葉による伝達では、意味をそのままに伝えることができる。不安と言えば、何かに苛まれている状況が伝わり、分析の結果を一定方向に向けることができる。情報操作において、これ程便利な道具も無く、あらゆる機関が挙って使う状況は、当然のことと言えるのかも知れない。だが、伝えるべき事柄は、ある装飾を施され、真の姿は覆い隠される。真実を伝えつつ、思惑通りの方向に導くことは、欺瞞ではないとするのだろうが、とてもそうとは思えない。もし、民衆がこんな小手先のことに左右されないのであれば、これ程多くの人々が多用することは無く、振り回されるからこそのことだろう。愚かな人々が騙されるのは、本人の問題とする考え方も、自らの責任を放棄した結果であり、そんな連中に特別な権利を与える必要も無い。人々を導く役割に、酔い痴れている連中には、こんな魅力は他に無さそうだが、それにしても、地に堕ちたと言いたくもなる。自らの責任も当然のことだが、それより重い病いを抱えていると思えるのは、全てに総じて同じ処理を施す姿勢であり、知性の欠片も感じられず、詐欺師が持つ騙す能力のみが、表に出ているように感じられる。まあ、その程度の人間が、その程度の社会に巣食っている、だけのことなのだろうが。

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9月21日(金)−供養

 気味が悪いと敬遠する人が居る一方、先祖を敬う気持ちの現れと定期的に訪れる人が居る。更に、有名人が眠る場所では、その場所を探して回る人も居るようだ。削り取ったり、撫でたりと、迷惑千万な行為に及ぶ輩まで出る始末では、流石に困ったものらしく、それ用の石を用意する所さえあるという。何ということか。
 一人亡くなる度に、新たなものを建てていた時代もあったろうが、敷地の狭さが問題となり、中心となるものを一つとし、その横に墓碑銘と呼ばれるものが立つ所も多い。業界に通じているわけではないが、その手の場所を回ると、画一的とはいかないまでも、ある程度一定の形式があるように感じられるが、個人の自由を尊重する時代には、独自のものが紹介されているようだ。それにしても、故人を懐かしむ気持ちが、それを眺める度に滲み出てくるというのは、どうしたものかと思える。記念碑的なものは、個人的なものであれば許される気もするけれど、何々家のと書いたものが、一個人の趣味に基づくとなると、流石に違和感が湧いてくる。二世代も経過してしまえば、そんな人が居たらしい、程度の情報しか残らない。にも拘らず、そこには明確な主張が佇む。身勝手とか、利己的とか、死んでしまえばどうでも良いことなのだろうが、跡を継ぐ人々にとって、何が継承されるのだろう。気に入らぬから、新たに建て替えてしまえば、というのも、冒涜に近い感覚に苛まれる。狭い国土で、一人一人の場所を確保するのは、不可能に近い。そんな状況は、周知の事実に思えるが、個人の願望は、それとは関係ない、ということになるのだろうか。それとも、目立ちたがりにとっては、何も関係ない、というだけなのか。

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9月20日(木)−悠長

 夢を実現する為に、近くの目標から遠くのものまで、綿密に設定し、それぞれに向かって邁進する、という人生を送る人も居るだろう。その一方で、場当たり的と言われつつも、目の前の目標のみを視野に入れ、その場その場で一つずつ片付けるという戦略をとりつつ、結果として夢に近づくという人も居る。
 どちらが偉いとか、どちらが素晴らしいとか、そんなことを論じるのは下らないことで、夢を夢として終わらせず、たとえ部分的にせよ、達成することこそが、人の歩むべき道として、重要なのだと言える。だが、世間では前者を讃える声が大きく、後者はさほど評価されない。有言実行も含め、周囲にそんなものを提示する決断が、印象を強くする為かも知れない。だが、実現できる人はごく一部であり、何かを掲げたとしても、徒労に終わる人の方が遥かに多数である。だからこそ、達成者は評価されるべき、となるのかも知れないが、夢というものへの考え方としては、可能性の有無で片付けてしまっては、何にもならないように思う。個人の話であれば、夢と呼ばれるものが、組織の話となると、計画と呼ばれ、実現性が重視される。将来に向けての考え方としては、同様に扱われるけれど、現実には、全く違った評価基準が適用され、その扱いも全く異なる。にも拘らず、巷では個人の考えと組織の計画を同等に扱い、それが合致することが当然との風潮がある。民意という名の化け物が、闊歩し始めたのはつい一昔程前のことだが、所詮、個人の考えを集めたとしても、綿密な計画と同等とはならず、場当たり的なものの集まりとしかならない。結果として、最終的な計画に、個人の考え全てを反映させることは不可能となり、その乖離は大きくなるだろう。これを当たり前と思うのは、大勢ではないらしく、世間では裏切りなどと揶揄される。だが、個人の夢を、こんな風に扱うことこそ、的外れにしかならぬことに、気付かぬ人の何と太平楽なことか。

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9月19日(水)−相互理解

 「イジメ」も人間関係から来るものだが、社会性の生き物として互いの関係を良好に築くことは、生きていく上で最も重要な要素の一つとなる。だが、そこに存在する問題から判るように、関係構築に繋がる手法に、絶対的なものは無さそうだ。様々な指南書が出されるものの、決定版が無いことが、それを如実に表している。
 この状況に関して、何故と思う人は多いだろう。だが、少し考えれば判るように、不変の冷たい存在との関係と違い、相手は血も涙もある、相手に応じて自在に変化し得る生き物であり、対等な関係にある場合が多い。そんな中で、一方が勝手な論理に基づき、最善策と称する手法を講じたとしても、相手がそれに応えるとは限らず、却って関係を悪化することさえ起き得る。相互の関係が大切と思いつつ、一方的な働きかけをすれば、時に失敗へと繋がることは、冷静になった時に考えれば、思い当たる筈なのだろうが、渦中の焦りがある状態では、視野は狭まり、利己的な判断を下す場合が多い。その結果、関係構築どころか、修復できぬ状態にまで破壊が進むことさえある。人間関係は、個人間のものが始まりだが、大きく広がることさえある。組織間、企業間などといったものから、果ては国家間のものまで、その関係を基本として、互いの信頼関係が築かれるものだ。そこでは一方的な仕業ではなく、相互の働きかけが重要となるのではないか。苦手意識から生じた分析と思うが、外交の問題が何度と無く取り上げられるが、一方的な拙策を糾弾する姿勢には、違和感を強く感じる人も多いだろう。この所の国家間の問題は、平和惚けした人間には理解できぬものとの指摘もあるが、現実には、自らの都合だけで動く人々の問題とも捉えられる。間の関係の前に、内の問題があることに、気付かぬふりを続けることは、分析を誤った方向に導くようだ。人間関係の難しさは、身近から遠くの存在まで、実は様々な所で感じられることは、如何に大切かを示しているのではないか。

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9月18日(火)−被虐

 ハラスメントは、加害者の意識は無視され、被害者の意識のみが取り上げられるとされる。気遣いの有無が問題、と受け取られたこともあるが、元々、そういった風潮があった国では、更なる戸惑いが広がったようだ。上下関係がそのまま力関係へと結びつく環境では、こんな配慮が必要かも知れないが、腑に落ちないことは多い。
 これが始まりではなく、こんな新語が輸入されるよりずっと以前から、この国では若年層を中心として、「イジメ」が社会問題と化していた。社会への前段階とも言われる存在は、その縮図となることもあり、それが先取りしたことは何を意味するのか、今になって考え直してみると、色々と思い当たる所はある。被害者の意識こそが重要とする動きは、輸入品への注目と相俟って、異常な程の高まりを見せ、問題への取り組みは混乱を来すこととなった。これまでに何度も取り上げたように、現代社会において、最強の存在は被害者と名付けられた人々であり、特別扱いが逆差別と呼ばれたり、社会の歪みを強めているようにさえ見える。確かに、力による圧迫を放置することは、歪みを大きくするばかりに見えるが、外からの力によって、別の圧力をかけることは、同じような歪みを生じることになる。極端な所まで暴走を続けることを、肯定するつもりなど毛頭無いが、ある程度の歯止めをかける仕組みは、外からではなく、当事者内で作り上げる必要は無いのか。被害者がその地位に甘んじることに、違和感を覚えた人も居るだろうが、可哀想という感情を表に出せば、そこに手を差し延べるしか無いように感じられる。だが、真の解決は、当事者間でしか見出せず、その為には、圧力を受けている人間自身が、何らかの行動、ある意味の抵抗を試みるしか無いのではないか。極端な結果のみが取り上げられる一方で、数多ある何事も無く片付いた例は無視される。この風潮こそ、ハラスメントの現れと思うのは、こじつけかも知れないが、自分たちでの解決こそ、答えなのではないか。

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9月17日(月)−老後

 この時期に合わせたように、ある統計結果が流される。高齢者の数が増え続けるという事実は、実情からは理解できるものの、何処か違和感が残る話ではないか。三千万人、という数字も、ピンと来ることは少なく、それが全体の四分の一に近づいている、という話も、だからどうしたという感覚しか浮かばない。
 団塊が話題の中心になるのは、常に数が問題となるものだった。今回も、綺麗に線が引ける年齢に、その世代の人々が入り始め、あと数年この状況が続く。だから増え続けるのだ、と結びつけられると、首を傾げたくなる。こんなに単純な話を、臆面も無く出す人々に、深慮がある筈も無いのだが、では、聴く側にどれほどの理解力があるのか、確かではない。長生きがこれ程の問題として取り上げられるようになったのは、良いことなのか、悪いことなのか。この話題の流し方から察するに、何かとんでもないことが起き、既に悪化している状況が、更にその勢いを増すばかりと思えてくる。彼らの思惑は、まさにその通りなのだろうが、現実を見渡してみると、はて、その兆しは何処にあるのか、と思えることも多い。確かに、一つ一つの事例を取り上げ、そこで展開される悲惨な状況を、紹介されると反論し難い。だが、一点に目を集める方式ではなく、全体を見渡す方式で眺め直してみると、それほど大きな問題に見えなくなる。だから安心だ、などと馬鹿げた主張をするつもりは毛頭ないが、一人一人が自らの生活を保つことを心掛ければ、それぞれに波はあるものの、何とか豊かさを保てるのではないか。社会のお世話になることと、自らの権利を保つことが、何故か一緒にされてしまったようだが、実は、全く異質のものを、無理無理同じ枠にはめているに過ぎない。そんなことに惑わされず、分相応な生活を続けることが、大切なのだと思う。

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