パンチの独り言

(2012年9月24日〜9月30日)
(眼前、品質、失墜、夢幻、自力救済、捨て置く、実力行使)



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9月30日(日)−実力行使

 暴徒と化した人々を映す画面に、恐怖を感じた人は多い。冷静さが保たれた中では、欲望のみに走る人々の姿は、異様なものとしか映らず、何故という疑問に答える手立ては見出せない。しかし、掲げられた主義主張は、正当なものの如く扱われる。それでも正当化できぬ暴力に、眉を寄せることは当然なのだろう。
 震災後の混乱時にさえ、保たれた秩序に賞讃の声が向けられた国から見れば、何の危機も身近に迫っていない人々が、無秩序な行動に走る国の状況は、異常としか見えない。それは平和ボケのせいだろうとの意見もあろうが、世界に配信された映像から、彼の国の印象が変化したことは、核心を外していないのを表しているだろう。その中、一番の大国の政府は、さほど大きな動きを示さなかった。冷静な対応とも見えるけれど、記憶を辿ると全く違った解釈も可能ではないか。海を渡って来た大量の車が、自分たちの仕事を潰すという危機感を表す為に、破壊したり燃やしたりと、過激な行動に出た人々は、この間の暴徒と似ていたように思える。あの時も、こちら側では暴力に走る人々に、恐怖を感じた人々が出ていて、現場に居合わせたらと考える人も居た。ある意味同類と見えるだけに、こちら程強い違和感を抱かなかったのでは、と思えてくる。実は、暴力や無秩序が、ごく当たり前である国情と、平和ボケとまで呼ばれる国情では、根本的な違いがあるのではないか。その一方で、巷の噂に過ぎないことだが、あの暴力は、金で操られた秩序立ったものとの指摘もあり、奇異に映る姿さえも、号令一下によるものと言われる。もし万が一そうだとしたら、彼の国に対する認識を大きく変える必要があり、対応の仕方も常識的な範囲では不十分となる。いずれにしても、四十年を経て、こんなことをしているようでは、情けないものには違いない。

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9月29日(土)−捨て置く

 高齢者の頑さは、頑固者と表現されるが、若年層のそれは、どう表現されるのだろう。頑固は、拠り所に縛られ、変化を受け入れない事と思えるが、一方で、若者たちの頑さには、寄り掛かる所も無く、ただ単に外からの力を受け入れない態度、としか思えない部分がある。拘る実体を持たず、拒絶を表すのみなのでは。
 大人たちから見れば、遊びに毛が生えた程度にしか見えない態度に、苛立ちを覚える事が多いだろうが、若者にはその意味が分からず、疎外されたという印象ばかりが残る。この関係が続けば、伝えねばならないものが次々に失われ、伝統の多くは失われる。その責任は双方にあるように思えるかも知れないが、最近とみに実感させられるのは、一方的な関係解消の姿ではないか。甘やかして育てた親の責任は当然とは言え、自ら判断を下す力と権利を得た人間たちが、拒絶を繰り返す事には、当人に重い責任があるように思う。将来を担う人材と持ち上げられる一方で、自らの努力は棚上げにする。こんな状態で、どんな未来が見えてくるのか、殆ど見通しがたたないように感じられる。不安とか不満を殊更に取り上げ、弱者を保護する姿勢は、その殆どが、この状態を悪化させる方向にしか働かず、改善という方向は失われるばかりではないか。聞く耳持たぬ馬鹿者たちに、届く言葉が無いのは明らかで、その解決策を講じる事は、おそらくかなり難しいだろう。切り捨て、という手段は、特に嫌われるものに違いないだろうが、拒絶のみを手段とする人々に対しては、そんな手立てしか残っていないように見える。たとえ、そんな連中が多数派を占めるとしても、少数精鋭が重用され、その力が発揮されれば、まだ回復の余地はあると思う。要は、選別を如何にするか、なのではないか。

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9月28日(金)−自力救済

 若者はいつの時代も大人とは違う考えを持っていたものだ。不満や不安に基づく、反発を態度に表す事は、時に過激な行動へと結びついていたが、最近は、そんな様子は殆ど見えない。では、不安が無くなったかと言えば、そんなことは有り得ず、依然として全体像が見えない程に、大きく膨らんだままのようだ。
 現状に対する不満が余り変化していないのに、そこへの反応が鈍いように見えるのは何故か。様々な理由があるものと思われるが、社会環境の変化は影響を及ぼしているようには見えない。個々の若者たちの考え方が、どのように変化して来たかを眺めれば、少しは理由に近づけるかも知れないが、昔同様に、大人が若者の考え方を理解できる筈も無く、原因がそこにあったとしても、解決の手段は見出せそうにも無い。安定社会の問題は、これまでに何度も取り上げて来たが、そこに弱者保護の考えが加わり、より一層事態を悪化させているように見える。となれば、先ほど否定した環境こそが、真の原因と思えてくるかも知れないが、全ての若者がその方向に導かれているとは、とても思えない。従順さが最優先と、家庭や学校で教え込まれたから、という解釈は、こんな時に良く引き合いに出されるが、そんな状況下で、反発に走っていた時代もあり、洗脳ならまだしも、教育にそれほどの力があるようには思えない。となれば、本人たちの心や脳の中に、原因があるとするしか無さそうだ。強引な解釈に見えるだろうが、当事者たちと話をしてみると、そんな傾向が感じられる。ただ、反発が失われた中で、何をきっかけとすべきか、答えは容易には見出せない。では、そんな実情を理解すべきか、多分その必要は無く、自立を待つだけの事だろう。

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9月27日(木)−夢幻

 お家騒動、昔ならそんな呼び方をされ、内部での抗争に結果が出た時点で、様子を眺めるのが常だった。それが、家を飛び出し、公衆の面前での言い争いを演出する。民の声を集めて、との姿勢を示すものとの声もあるが、現実には注目を集めたいだけだろう。力を失った事で、その目論見は一段と際立って来た。
 国の行く末を占うもの、などと大袈裟な装飾を施し、注目に値するかの如くの扱いをする人々は、不自然な状況を、更に虚飾に満ちたものとしている。国にとって重要な要素は数多あるにも関わらず、政にばかり血道を上げる人々は、相も変わらぬ一つ覚えで、大事のように伝えるが、肝心の対象は、下野した勢いそのままに、目の前の利益に飛びつくばかりで、国の行く末など眼中に無い。茶番と呼ぶべき芝居は、ついに千秋楽を迎え、人気投票への予想に力を入れた人々は、結果の行方に気が気で無い様子だった。だが、世間の注目は、結局集まる事無く、お家騒動は家中の事として、お家の事情を反映する結果を導き、厳しい言葉を浴びせられる事となった。どれを選んでも、大した違いは無いとの意見がある一方、劣悪さの比較の結果との意見もあり、長所を探るより、短所を見つけ出し、その数を競った結果と見る向きもある。所詮、昔の姿に戻ろうとする意欲ばかりで、中身が伴わない中では、大きな欠点も、他と比べて小さく見えれば、利点と見なせると言うのだろうか。いずれにしても、誰も期待せず、癒着した人々だけが騒いだ跡には、当然の結果として、夏草が枯れ始めた光景が広がる。

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9月26日(水)−失墜

 大企業の無知ぶりを表すものとして、市場の要求に対する誤算や机上の空論と化した経営拡大政策など、様々なものが紹介され、結果として国内経済の凋落を招いた責任を問う声が高まる。国を支えて来た自負も、そろそろ萎み始め、以前の毅然とした姿は、何処かに忘れ去られてしまったように見えている。
 そんな凋落ぶりに、寄らば大樹の陰といった言葉も、その意味を失いつつあるようだが、彼らは彼らなりの努力を続けているようだ。だが、傲慢ささえ漂っていたものを、急激な変化の渦の中に落とせば、混乱が広がるばかりで、根本的な解決には程遠いものとなる。傲慢さの現れとして、バブルが弾ける以前に良く聞かれた、人材育成に対する自信も、今やその跡形さえ無い様子だ。自信が失われつつあった時代、即戦力を熱望する声が高まったものの、その実像がどんなものかは論じられず、夢か幻を追い求めている感があった。流石に、意味不明な要求と気付いた人々は、基礎的な力を備える事こそ、即戦力の意味であるとの見解を示したが、それもまた捉え所の無いものに映った。こんな経過を辿りつつ、人材育成への熱意は失われていったわけだが、大きな組織は、依然として、意欲を失っていないと主張する。だが、昔、学校に対して、特別な教育は不要と豪語したことを、すっかり忘れたからか、共同教育の提案を持ち込む事に、違和感を覚える人は少なくない。教育と人材育成は、同一なのか、異なるものなのか、人それぞれに意見があると思うが、どちらの側も、本来の姿を見失い、表面的な魅力に、目を奪われているのではないだろうか。何事にも本質を見抜く力は重要とされるが、それが失われつつあることに気付く力も、減退しているようだ。

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9月25日(火)−品質

 斜陽という言葉さえ使われなくなったのは、傾くどころかどん底に落ち込んだからだろうか。戦後の整理により分離した企業が元の鞘に戻り、白ものと呼ばれる分野は海外に売り飛ばされ、鉛筆代わりの筆記具の製造に始まった企業は、先頭に立っていた筈の分野で凋落が続き、海外に助けを求めている。
 実は今に始まった事でない、こういった衰退の流れは、その勢いが増す度に、分析が施されて来た。何度もあった危機の中でも、答えが見つからなかったからか、真の問題が解決される事無く、浮沈が繰り返され、その中で何とか生き残って来た。だが、そろそろ自力での回復や解決は不可能に見え、援助を求める声が強まる。内需の低下は、全体の衰えに拍車をかけ、グローバルという名に惑わされたかのように、外国との関わりを強めていく。市場の主力に目を向けた結果とも言えるが、相手にとって、どう映っているのかに目が向けられる事は少ない。こんな業界では、山積する問題に対し、様々な分析がなされているが、的外れなものも少なくない。発展途上国での販売に、現地での要望に応えられない製品が問題との指摘も、大量生産大量販売を基本とする企業では、対応が難しい。品質が第一を貫いて来た社風に、市場は安価を要求するという実情が、大きな影を落とすとの解釈も、品質に対する見方の違いに気付く様子は無い。付加価値という言葉からも判るように、品質を多機能と言い換える風潮が、最近とみに目立っている。押しもしない釦を備えた機械が家中に溢れ、使いもしない機能に首を傾げる事が多い。にも拘らず、売る側はその開発に躍起となり、一部の新機能に飛びつく人間を客と見なす。品質とは、単純にその製品の質の高さであり、要求された機能と耐久性に、その大部分があることに、そろそろ気付いたらどうか。

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9月24日(月)眼前

 政には特殊な能力が必要とされた時代は、遠い昔のこととなったようだ。まるで井戸端会議の如くの噂に惑わされる民衆と、それを操ろうとして思惑ばかりを投げ続ける人々、どちらも思いつきの行動が目立ち、先を見通す力など、無用の長物とされてしまう。目の前の問題として幻を作り出す力こそが重要とされる。
 目の前の利益に飛びつくのは、人の性と言われるほど、安易な行動と言われるが、それを押さえつけ、冷静な行動を導くのは、かなりの困難を伴う。そんなところも含め、政に携わる人々に必要とされる能力は、目の前に立ちはだかる問題の解決だけでなく、その裏に隠された問題の本質を見破ることだと言われてきた。その多くは、結果のみで評価されるが、その場での評価だけでなく、その後の経過による評価が重要となる。これが簡単でないことは、すぐにわかりそうなものだが、目前に囚われる人々には、無関係なものとしか映らないようだ。愚かな人ばかりになった原因は、どこにあるのかはすぐには明らかとはならないが、互いの関係であることは確かなようだ。だが、もしそうなら、劣悪化し始めたものを止めたり、元に戻す力は、出てきそうにもなく、社会は悪化の一途を辿ることとなる。歴史的にはそうなっていないように思うけれど、現実には亡びた国々は数多あり、その原因も様々である。現代社会が同じ憂き目に遭うかは、そこに暮らす人々にかかっているはずが、井戸端ではそんなことが意識される筈もない。どちらの側にも、勢いを止める力がないとしたら、誰がという疑問はどうなるのか。救世主が現れるなどと、夢物語を語る人々が出てくるが、こんな馬鹿げた話を信じる人はいない。ただ、その代わりに、目の前にぶら下げられた餌に飛びつく人が出るだけだ。

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