七十五日と言われたものの、最近の情報化社会では、それほどの賞味期限は確保できないらしい。海の向こうでは、九日との表現もあるようで、流石に合理的情報社会と思えても来る。いずれにしても、人の口の端に上る話題には、繰り返し強調しない限り、短い命しか保証されない。多くは、根も葉も無いものだからだ。
根も葉も無いものなら、それなりの判断が下せるだろうが、情報化の波は別種の厄介者を運んで来た。確実な根拠を示しつつ、そこから湧き出す不安を、あぶり出そうとする動きである。根拠は確かめられたものだろうが、それが不安に繋がるかは、人それぞれの感覚によると言われる。にも拘らず、それを確実にする動きが強められ、「不安だ」という発言をきまって取り上げる。だが、不安と呼ばれるものの多くは、相対的なものであり、当然の如く変化を伴う。一時的には、確固たる根拠が存在したとしても、いつのまにか、その問題が解消されると、根拠無き不安も消し飛んでしまう。となると、取り上げる人々の熱意も失せ、すっかり忘れ去られた話題となる。変化が一気に押し寄せてくるなら、こんな態度の変化も理解できるが、多くは徐々にゆっくりとしたものであり、問題は小さくなったとしても、解消されていない。それでも大袈裟に取り上げた後では、その印象は薄れてしまい、効果が期待できないと判断するのだろう。だが、こんなことを繰り返していては、肝心な情報も重みを失い、根も葉もない話と見なされかねない。反省を期待できる連中でないことは、十分に理解しているだけに、こんな愚行が罷り通る社会になってしまったことに、こちら側が何かを感じる必要があるのではないか。
季節の移り変わりは、遅々として進まぬように思えて、徐々にその姿を変えつつあるようだ。以前、その開花の時期の正確さを取り上げた花も、今年の気象では当てが外れたらしく、一週間遅れとなった。ご先祖様も、手を合わせる人々の後ろに広がる光景が、いつもと違うことに戸惑いを覚えたのではないか。
地温の下降が始まらず、今回の遅れが起きたとされるが、気温の変化による植物に比べれば、年毎の違いが少ないものでも、いつに無い違いを表したのだろうか。一週間はほんの僅かな違いとも思えるが、一方で、別の植物の動向は一種の混乱を招いている。赤い花の群生を眺めている最中、何やら覚えのある匂いが漂っていることに気付く。暫くはその正体に思いが至らず、ハテと首を傾げていたが、突然思い当たった。毎年、同じことを繰り返す頭には、何ともはやという思いが過るが、今回は特に難しかったようだ。目の前に広がる光景と鼻腔に広がる匂いの組み合わせが、こんな混乱を生じたのだろうが、何でもかんでも異常と結びつける人々にとっては、格好の材料なのではないか。本来は、生き物毎に指標とするものが異なり、人間のように数値化されて初めて気付くわけではないから、年毎にある程度のずれを生じるのは当然だろう。それが一定方向にずれれば、異様さを感じずに済むものの、偶々逆に動いてしまうと、異常と言いたくもなる。これが単に偶然の一致のようなものか、何かしら必然と言えるものなのか、素人考えでは結論には至りそうにも無い。だが、結論が導き出せなくとも、自然の営みを楽しむことは十分にできる。そこにいつもと違う姿があったとしても、それをどう感じるかは人それぞれの楽しみの範囲だろう。ここでも不安とやらを漂わせている人が居るようだが、そんな声に耳を傾けず、自分なりに花を愛で、香りを楽しめば良いのではないか。
自らの責任を果たさないまま、不平不満を並べる人を、恥知らずと呼びたくなることがある。面と向かって呼んだことは無いが、何故この社会はそんな人々を抱え、保護しなければならないのか、まともに生活している人間には、理解できないことが多過ぎる。機会均等とか平等とか、聞こえの良い表現で誤摩化したまま。
社会制度や慣習などにより、機会の偏りが生じると、その是正と称した措置が施される。だが、措置後の状態に注目すると、別の差別が見過ごされていることが判る。逆差別と呼ばれる現象だが、機会不均等を指摘した声は、平等を望むより、自らの立場を有利にすることが主目的だから、問題が解消されれば、その後の不平等などに興味は無い。人権擁護の話題を精査すれば、こんな話は無数に出てくるだろうが、活動家にとっての目的は、全く別の所にあるだけに、達成された結果がどんな問題を抱えていようが、知ったことではないのだろう。だが、こういう恥知らずだけでなく、別種の恥知らずが巣食っているのが、現代社会の抱える大病の一つと言えそうだ。保護とか擁護という言葉に飛びつく人々は、特別扱いを権利と見なし、社会に寄生する自らの姿に気付く気配もない。平等という名の特別扱いも、それにかかる手間や経費を度外視した結果を産む。無視したり、放置することは、確かに成熟した社会にあるまじき姿だろうが、その一方で、将来全体を支えることとなる人々を、脇に置いたまま気にかけないのは、許されるのだろうか。放っておいても育つから、などという言い訳に、熟慮の欠片も感じられず、社会の疲弊が続く中では、そろそろ均等や平等に対する考えを、改める必要があるのではないか。正当な競争下の平等が、何の特別措置も必要としないのは明らかだが、そこに余計な手出しをした結果が、恥知らずの台頭を招いたとしたら、何処に問題があるのかは明白なのだ。
若いうちは少々の間違いは大目に見られる。そんな思いは誰もが抱き、好き勝手な振る舞いを繰り返していたのが、いつの間にか、若者たちの傍若無人ぶりに腹を立てるようになる。時に、自らの経験は矮小化し、後進の暴挙は針小棒大に捉える。立場の違いと言えばそうだろうが、これもまた身勝手なことだ。
何が何でも若気の至りとしてしまうことに、社会の秩序は制動をかける。最低限の規則は、誰にでも適用され、時に罰を下すこととなる。特に、ある年齢を超えた途端に、社会的責任が双肩にのしかかり、判断力の欠如という、若者に有り勝ちな特徴も、特別扱いをされなくなる。それでも、非常識な行動を続ける人々は、そう簡単に減ること無く、厳しい罰則に苦しめられることとなる。そんな考え方に大きな変化は無いのだろうが、最近の傾向では、大目に見ることが少なくなっているようだ。世も末だとか、世知辛いとか、色々と言われているようだが、閉塞感が強まるばかりの時代には、自らへの抑圧が、他人への厳しい目に移し替えられ、老若に関係なく、批判の目が向けられる。一方で、若者は相も変わらず、社会の責任ばかりを口にし、自らが果たすべき責任は放棄する。勝手な行動だけでなく、放言も繰り返され、規則は単なる足枷と見なされるが、秩序によって守られている実感を失い、ただ被害者然とすることが権利のように振る舞う人々には、不幸なことかも知れないが、無条件に厳罰に処すことこそが、唯一の方法に思えてくる。誰も言ってくれなかったとか、注意されなかったなどと、何度も言い続ける恥知らずに対して、説得を続ける重要性を説く人も居るが、若気の至りの行動が、聞く耳持たずによるものとすれば、こんな無駄は無い。説得と厳罰が全く異なるものとの解釈にも、首を傾げるものがあり、社会からの働きかけとして、どちらも同じ考えに基づくことなのではないか。
この国で一番の所でも、世界で見れば大したことは無い。競争とか評価が重視され始めてから、こんな話ばかりが聞こえてくるが、では、何をすれば、過去の栄光を取り戻せるのか。果たして、昔の評価はそれほど高かったのか。様々な疑問が浮かんでくるが、確かな答えは見出せない。今はそんな状態だろうか。
大学の質の凋落が話題となり、喫緊の課題として大きく取り上げられる。確かに、順位付けをしてみると、過去の栄光は何処へやら、下落の勢いは止まりそうにない。だが、この問題の本質が何処にあるのか、この話題を取り上げる人々は、気付いているのだろうか。大学は所詮器を提供するだけであり、その中身を決めているのは、そこに居る人々の質となるのではないか。教える側と教わる側、両者が抱える問題こそが、件の下落を導いているのであり、器の問題では無さそうに見える。こう書くと、まるで、質の良い器が提供されていると考えているように映るが、現実は、器自体は昔から劣悪なものであったが、中身がしっかりしていたから、何とかなっていたということのようだ。その中身とて、教える側より教わる側の変化こそが、下降線の元凶となっており、それを今更どう改善するのか、器をいじったとしても、どうにもならないと思える。元々、様々な制限を加えることで、厳格な仕組みを構築する、伝統のある国の制度を採り入れたことで、枠にはめ込む形式が主となっていたが、凋落により、一大転換を目論む人々は、それに比べたら遥かに新興の国にある、自由な様式を採り入れようと躍起になる。だが、多くの制限が存在する中での自由は、彼の国のものとは似ても似つかぬものとなり、捻り回された器にしかならない。器や制度で左右される程度のものでは、根本解決は遠いものとしかならないが、それに気付かず、厚化粧を繰り返す姿には、悲惨ささえ漂うのではないか。
住民の命を守る、と聞くと、当然のことを言っているように感じられるが、どうにもそうとは思えない。首長の表情には、決意を強さを見る思いもするが、同じようなことを言い続けて来た人のものには、狂気の片鱗さえ窺われ、長たる人間に必須となる、冷静さや落着きは感じられず、異様さが増すばかりに見える。
人々が自らの損得を主張するのは、命を守ることを始めとして、当然のことに違いない。だが、命の危険を冒すことを除けば、損と得は、天秤にかけた上で、どちらかを優先するなどして、結論を導くこととなる。その役目を負うのは、長たる人間とその取り巻きの筈だが、現状を眺めるに、その任を放棄した人々の、狂ったように一方的な振る舞いばかりが、大きく取り上げられる。命を第一に掲げるのも、何にも代え難い存在を前面に押し出すことで、自らの役割の重要性を強調したいからなのだろうが、別の選択肢も、生活の糧などとの繋がりから、命を長らえることに危害を及ぼす可能性は十分にある。その一方で、眼前の危機に関して、その危険度を測る指標は、殆ど明らかにされぬままに、議論は暴走を続けている。冷遇された自治体を、守ろうという姿勢を示すのも、どんな思惑から来ることか、定かにはならないが、視野の狭さや狭量さを取り上げること無く、個々の損得に目を向けることは、上に立つ人間にあってはならぬことではないか。害ばかりを殊更に取り上げ、そこから生じる益を無視する姿勢には、まさに差別や無視という心の動きが反映されている。ある地域内での解決を図る為に、一部の自治体が指定された時、命を守ることを掲げて、反対の声を上げる。当然の行動と思う人も居るだろうが、差別的な考えから言えば、自分の所でなければそれで良い、という身勝手さの現れ、となるのではないか。
睨みつけるように鋭い視線を送る相手に、メモを見たり、あらぬ方に視線を送り続けながら、言うべきことを呟いている、そんな光景が映し出された時、画面のこちら側の人々は何を思ったのだろう。自分たちの思いと同じ主張を、確かに相手に伝えてくれたと思った人が居たとしたら、驚いてしまいそうだ。
自分の思いを言葉で伝えようとする時、呟けば良いと思っている人が居たら、大きな間違いだと指摘したくなる。そっぽを向きながら、何かブツブツ言っている人の、話の中身に耳を傾ける人は、殆ど居ないのではないか。にも拘らず、自分が相手に伝えたい時にも、それに似た行動をとってしまったら、話の中身の重要性に関わらず、伝達が上手く運ばぬこととなる。件の人のように、睨みつける必要は無いが、他人から良く言われたのは、相手の目を見て話をせよ、ということである。国の代表たる人物が、空に向かって呪文を唱えるが如く、芝居の練習のように話しているのでは、何も伝わらないどころか、人としての信用だけでなく、国の信用さえ失うこととなる。宰相の器は、泥鰌には無かったと言えば、それまでなのだが、カメラに視線を送ることばかりに心を奪われ、不特定多数に話をしている気分になった人は、人として肝心なことさえ忘れてしまったらしい。目の前の人気を気にする人は、あらゆる国の代表にも沢山居るけれど、多くは時と場に応じて、その態度を使い分けている。今回の行動は、頂点に座る人にあるまじきものであり、たとえ、話の中身が重要なことを含んでいたとしても、それを確かに伝える手立てを講じなかったものとなる。所詮、何処かの役人が捻り出した作文に過ぎないのだろうが、それを読む態度には、礼を失したとしか言えぬものがあった。始めのうち、自らの作文に拘った人も、徐々に初心を忘れ、人気取りに腐心するようになる。結果、器の大きさまでを露呈することになったということか。