パンチの独り言

(2012年10月8日〜10月14日)
(異形、被疑者、歓喜、談判、確実、自責、善悪)



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10月14日(日)−善悪

 突然の騒ぎが、急激に盛り上がる。最近の報道の傾向には、理解できぬ部分が多くある。特に、大盛り上がりの後の冷え込みは、余りに呆気ないものと映り、熱を上げた意図は何だったのかと、その度に思わされる。話題提供が役目とする見方もあるけれど、不確かな情報を垂れ流した挙げ句、いつの間にか幕が降りている。
 事件や事故、様々な出来事が起こる度に、そこに話題となる種を掘り出し、芽を出させようと世話を始める。真相を発掘するだけでなく、有るか無いか定かでない事柄にまで、世話が及び始め、有ること無いこと並べ始めることとなる。それでも、大衆の目が集まり始めればしめたもの、話題に群がる人々とそれを提供する人々が、共同作業のように盛り上がりを支えるが、それも長くは続かない。同じ話題が何度も繰り返され、更なる抉り出しが試みられるが、無い所に話題が湧き出す筈も無く、結局、興味も失われることとなる。毎度繰り返される筋書きだが、今度もそんなものの一つとされるのか。研究成果の捏造は、これまでに何度も話題とされて来たが、今回のは、何か特別な興味を惹いたからか、紙面画面共に賑わせることとなる。挙って取り上げる姿勢には、正義を掲げるものもあるだろうが、興味本位としか思えぬものも多い。大元では、様々な不正が有り、それを正すことが重要とされたのだが、いつの間にか、尾ひれがつき始め、核心はぼやけてくる。大衆にとっては、悪行にしか目が向かず、その原因や背景に思いを馳せることも無い。だが、勝手に名前を使われ、片棒を担いだ如くに扱われかけた人々にとって、これ程の迷惑は有り得ない。不正が横行する世相を反映し、制度自体を変え始めた所も有るようだが、勝手な使用を防ぐ手立ても、簡単には講じられない。善意を基本とする制度に、悪意が入り込むと、こんな混乱を招くのか。

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10月13日(土)−自責

 我慢することは、必ずしも正しいことではないかも知れない。しかし、最近巷に流れる話の多くでは、余りに気が短く、直截な行動が目立つように思える。他人の非常識な行動に、見て見ぬふりを続ける人が、一度世間の話題になると、一気呵成の責めを繰り返す。その急変も異様だが、極端な行動に違和感を覚える。
 たとえ間違いを犯したとしても、反省を促すことによって、更生を図る。特に、若者を対象とした対応によく見られるが、こんなやり方が常道とされて来た。ところが、その多くが再犯を繰り返し、反省の跡が見られないことから、自省を促すことの無意味さに、徐々に気付かされて来た。確かに、厳罰に処すことに大きな意味があるものの、一度受けた罰を消し去ることはできず、自らの責任とは言え、大きな傷を残すこととなる。人間の成長を考えたとき、こういった厳格な処置は、善悪の峻別を明確にする反面、人間性の構築には結びつかなくなる。子供の世界だけでなく、大人の世界についても、この図式は当てはまるようで、特に、未熟な大人たちの、無謀で無鉄砲な行動に対しては、成人としての責任を前面に出すか、未熟な部分の改善を促すか、どちらを選ぶかで、その後の経過が大きく異なってくる。大目に見ることが正しいとは思わないが、赦すとか諭すといった態度を示すことで、自省に結びつけることが重要ではないか。悪事に対する厳罰は、正しい道のように見えて、実は大きな間違いとも映るから、安易に選択することは控えねばならない。だが、最近の傾向は、どうも唯一の選択肢といった判断が強まり、厳しい対応が選ばれるように見える。厳格な態度は、様々な場面で重要となるものの、その過程で、看過をした挙げ句に、態度を急変させるようなものでは、同意し難いものとなるのではないか。罰を考える前に、色々と考えることがあるのを、忘れてはいけないと思う。

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10月12日(金)−確実

 閉塞感とは悪印象を植え付ける表現だが、安定と言えば、何処か安心を感じさせるものとなる。同じ状況を表すのに、正反対の表現があるのは、そこに個人の解釈や感想が盛り込まれるからだが、逆に言えば、人間の感覚が如何にいい加減かが判る。その上に論理を築いたとしても、基礎が違えば、非論理的と言うべきかも。
 安定が招いた事態として、何度も取り上げて来たのは、傾向と対策の頻用であり、それが歪みの大きな原因となって来たことである。安定の中での安全策は、如何にも確実な道に見えて、確率事象が絡むことで生じる問題は、方策の不確かさを実感させる。確実や安全を好む傾向は、昔も今も、変わらずにあるものだが、その下地に社会の安定性が塗り込められると、人々の感覚は大きく違ってくる。それが現状を的確に表しており、確実を追い求めた挙げ句、不確実の穴に落ちる人々の山が築かれる。人気の高さや噂に振り回され、自ら評価を下さぬ人々は、確実の蜃気楼に惑わされ、道を誤ることとなる。自主性の無い行動は、修正が施されること無く、ただ闇雲に突き進むのみで、穴の底にまっしぐらとなるのもやむを得ない。自らの責任を棚に上げ、環境の影響ばかりを取り上げるのも、この傾向に拍車をかけるが、もうそろそろ気付くべき時が来ている。不確定への不安から、自らを磨き上げる努力を怠らないのは、今も昔も変わらぬことで、安定の微温湯に浸かっている人とは違い、彼らは正しい選択を繰り返す。その成功を羨み、選択のみを真似る人々は、肝心なことに目を向けられない。厳しい結果を招いた原因は、殆ど自らの怠慢にあることを省みて、姿勢を正すことができれば、違った展開を手に入れることは可能だろう。今更とか、遅過ぎるとか、言い訳じみた言葉を吐く前に、動くことこそ肝心なのでは。

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10月11日(木)−談判

 この国に、交渉人という職業があるかどうか判らないが、映画の中では、特異な状況下で解決を図る役割が紹介されている。あまりに異常な状態だけに、日常的な環境で、これらの人々が活躍するとは思えないけれど、交渉という行為そのものは、誰もが日常的に行っていることになるのではないだろうか。
 交渉というと大袈裟に聞こえるが、話し合いを続けたり、提案を交わしたりする中で、ある結論を導こうとする行為は、その一種となるだろう。互いに、自分に有利な条件に至るように努めるが、何処かに落とし所を見出さない限り、決裂という最悪の結果を導いてしまう。交渉で重要となるのは、如何に有利にするかより、結論を導くかどうかにあり、それを忘れて、利点を追い求めるばかりでは、成果が上がらないこととなる。議論の勝ち負けに拘る人々にとって、交渉は、同じ過程を経るものの、全く違った終着点を目指すことから、上手く立ち回れないものとなることが多い。言葉を弄して、相手を言い負かすことに執着するあまり、落とし所を見出せず、行き場を失ってしまう。議論には確かに圧勝したとしても、肝心の結論は導けず、決裂してしまえば、交渉は失敗となる。誰にも明らかなように見えるが、交渉下手な人々に共通する欠点が、こんな所にある。時に、相手を見下すことから始め、全てを自分の思うままに、という行動をとる人が居るが、彼らに交渉はできない。どんなに優秀に見えても、一人でできることは限られている。交渉は相手があってこそのものであり、そこに生まれる協力関係が基本となる。それを独善的な態度を貫き、手を差し延べる気配さえ浮かばないのでは、何も始まらないどころか、二度と議論の場につかないといった最悪の事態を招く。彼らの多くは、真面目に問題を考え、自らの結論を導く力を持つが、持論に固執することで、共通理解に至る機会を失ってしまう。足らないものは何か、本人が気付くしか無いのか。

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10月10日(水)−歓喜

 我が事のように喜ぶ声が弾んでいる。国家的大事件のように伝えられる内容に、この国の人々は、始めの声と同じように、一緒になって喜んでいるように見える。複雑な心理が、その影にあるのかも知れないが、表面的には、科学に対する関心の高さが、この反応に現れたとの解釈が最も妥当なのかも知れない。
 毎年この時期に発表される賞の対象に、一喜一憂を繰り返すのは何故か、理解に苦しむ部分がある。確かに、科学を基礎とした産業の振興が、この国の繁栄を支えて来たのは事実だが、そこで活躍するのは応用であり、賞の対象となる基礎の関与は殆ど感じられない。にも拘らず、関心の高さは、他国とは比べようの無い程で、その真の理由は定かではない。自らの評価が不当に低いままに抑えられていた時代を経て、徐々に正当な評価に近づくことに、喜びを覚えるという考えも、その一つとなるかも知れないが、これが国民全体の関心となりうるのか、と問われると、答える術が見出せない。件の賞を出している国でさえ、道端でこの話題に触れる人の姿は無く、一部階級の人々の催しとしか思われていない。最多数の受賞者を抱える国でも、報道や研究に携わる人を除けば、何の関心も呼ばない話題だろう。この違いこそが、科学への関心の高さを示すものだ、とする人も居るだろうが、賞への関心は高いだろうが、理科離れの傾向はその勢いが衰える気配を見せない。それは、何人の受賞者という話題には加わるものの、その理由はという点には見向きもしない、という点に現れている。噛み砕いた解説にさえ、一瞥をくれる程度で、判らないけど素晴らしい、という話に終始するのは、まさにそういった傾向の現れかも知れない。いずれにしても、やはり喜ばしいことには違いないのだろう。

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10月9日(火)−被疑者

 世相を反映しているのだろうか。ずっと昔なら、仕方が無いと片付けられ、暫く昔だと、自己責任と糾弾されただろう事件は、加害者が被害者に変わった途端に、捜査の不備を追及する声ばかりが大きくなった。確かに、冤罪の類いと言えなくもないが、その発端は自らの操作である。本当に責任は皆無なのか。
 新種の犯罪が紹介される度に、捜査体制の遅れを指摘する声が上がる。あらゆる事態を想定すべき、という指摘は、妥当なものと扱われるが、結果を知ってからの声では、その重みは感じられない。責任を負うべき組織には、厳しい声を浴びせ、無関係な組織は、涼しい顔を続ける。全く同じとは言えないものの、想定という意味では、どちらも可能な状況にあったわけで、一方的な責任追及は筋違いとも思える。今回の事件は、自らの持ち物が発端と疑われたことから始まったらしいが、それが他人が使える状況にあったとの分析から、当人の犯罪とは認められなかったことに、核心がある。乗っ取りと呼ばれる行為を可能にするソフトは、ウイルスの一種と呼ばれるが、その感染は源が無ければ起こり得ない。二つの事件とも、現時点では共通する要素があるように報道されているが、未だ詳細は明らかではなく、所謂「真犯人」に届く糸口は見出されていないように思われる。犯人が別に居るから、無罪であるとの解釈は、大きく間違っては居ないものの、罪の意識無く、犯罪を手助けしたとの解釈は、不可能なのだろうか。携帯電話の変貌も、この持ち物以上に急激で、便利に見える「アプリ」と呼ばれる道具には、数々の悪巧みが組み込まれていると言われる。製作者の罪は非常に重いものの、使用者に責任は無いのか、今後、こんな問題に目が向きそうだ。知らなかったでは済まされないことは、様々な犯罪において言及される。ただ使っているだけだから、とは、それとどう違うのだろう。

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10月8日(月)−異形

 外の世界を眺めるのは、異質のものを見ることと似ている。自分とは違う存在を見つめ、そこから何かを感じ取る。だから、何が起きるというわけでもなく、ただ、異質を感じることが大切と思うだけだ。同質を追い求め、同類が群れる社会は、一見、安全安心を保証するように映る。隠れた脆さを孕みつつ。
 頭の中では判っていても、異質なものは異様としか映らず、忌み嫌ったり、避けたりする。人間同士でこんなことが起きれば、大事となりかねないから、何とか包み隠して、日々の生活を送る。だが、異質に対する態度は、全く別の所で顕在化しているのではないか。最近の情報化は、日々の呟きを公の場にさらすことさえ、自覚無いままに実現している。害虫の代表格とされるゴキブリも、その話題の中に屡々登場し、悲鳴にも似た声が届く。少し昔なら、大の男が、と言われ、今なら差別などと批判が飛びそうな感想を抱くが、まさにその図が展開する中で、虫を忌み嫌う人々が、異様な程増えているように感じる。それだけとは思わないが、子供の頃の自然との接触が、こんな行動を決めるきっかけとなっているのではないか。今と同じように、小さな画面を見つめながら、ボタンを押し続けていた人々は、画面の中の似非自然に触れたかも知れないが、本物が目の前に現れたとき、異質に対する拒否反応を示す。子供の頃に、もっと自然な形で接していれば、その怖さも弱さも知れたのに、ただ恐れ戦く存在としてしまったのは、機会を逸したことによるのではないだろうか。ちょっと草むらにいけば、飛び回る虫たちを見られるし、夏には樹々に止まって喧しく鳴く蝉を見ることもできるのに。確かに、詳しく見ると異様な姿をしたものばかりで、気色悪いと思うこともあるが、それぞれのその形に行き着いた結果を、受け入れることも必要だろう。異質の排除が極まれば、何が起きるか、想像に難くないだけに。

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