パンチの独り言

(2012年10月15日〜10月21日)
(救い、誑かす、先入観、人道、赤恥、応分、爽爽)



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10月21日(日)−爽爽

 あのとんでもない暑さは何処へ行ったのか、と思うことも無く、いつの間にか訪れた秋の涼しさを当然と受け取る。異常気象を口にしていた人々が、いつも通りに届けられる紅葉の便りを、当たり前のことにしている。自然の営みは、人間の浅はかな考えなど耳に入らないかのように、いつもと変わらず流れている。
 異常とは普通じゃないことだから、少しでも違えば、そう言い切れるものだろう。特に、それを受け取る人々が、普通じゃないと思っていれば、その言葉は腑に落ちるものとして強く印象に残る。だが、多くの場合、それも一時的なものに過ぎず、いつの間にか忘れ去られることとなる。四季の移り変わりを楽しめる国に育った者でも、少しの変化に大騒ぎするのは何故なのか、答えを導き出すことは難しいけれど、こんな調子で次々と騒ぎを繰り返した後、すぐにそれを忘れてしまうのは、やはりそこに移ろいがあるからなのだろう。心の問題も、この国の季節と同じように、一つ所に留まらず、まさに移り気と言えるものだろう。そんな風に、次々と移っていったとしても、実は四季が繰り返されるのと同じように、元に戻り、また変わるの繰り返しをする。だからこそ、異常を殊更に気にし、そこに変化を追い求めたくなる。毎年繰り返される出来事に、これ程注目が集まるのは何故なのか、その答えは見つからないけれど、自然の恵みを楽しむ気持ちを失わず、農産物、水産物を食べることだけでなく、気侭に変化する季節を楽しんでみてはどうか。

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10月20日(土)−応分

 最近強く感じることの一つに、本分の放棄がある。身近な人間から遠くの存在まで、国の中から外の世界まで、何処を見渡しても、自ら為すべきことを見失った人々が、肝心なことを投げ出し、些末なことの批判や深入りを繰り返す。皆がすべきことをせず、堕落にどっぷりと浸かれば、良くなる兆しは見えてこない。
 「閉塞感」という言葉で、世相を言い表そうとする人々は、環境の変化に目を向けてばかり居る。その前に起きることに目を向けず、結果ばかりに目を奪われる人々に、期待できるものは一つも無い。まるで、社会が抱える問題は、外から押し付けられたと言わんばかりの態度には、その原因を探る気持ちも解決しようとする気も、微塵も感じられない。そんな状況下で何度も繰り返される茶番は、既に大衆の関心も呼べないものとなり、無為の時間が流れている。確かに、本分を捨ててしまった人々に、最大の問題があるのは間違いないが、それを批判する人々も、同様に自らすべきことを見失い、目的も見出せないままに、迷走を繰り返す。そんな事例は上げきれない程数多あるけれど、その根底にあるのが、他人のせい、という考え方なのではないかと思う。何も起きないのは、相手が悪いからという話は、巷で良く聞かれるものだが、解決の手立てが見つからず、そのままに時間が流れる。約束したという話も、言葉の解釈の違いとされ、いとも簡単に反古にされる。他責的な考え方は、その安易さから大流行りとなり、誰もが自らの本分を放り出してしまうこととなった。だが、全体が塞がれる中で、誰もが行き先を失ったとしたら、何が起きるのか。大衆が戸惑う中で、要職にある人までがそうなってしまえば、どうにもならない。他責の恐ろしさに、気付かぬ愚かは、本当に恐ろしい。

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10月19日(金)−赤恥

 社会の中で情報の流れを司る組織に対し、この所厳しい言葉が浴びせられている。不確かな情報を断定的に流したり、一部の人間の思惑に基づく情報を垂れ流したり、極端な偏りのある情報を提供したりと、その体たらくは枚挙に遑が無い。業界内での批判も目立ち始めたが、内輪揉めにも似た様相に目を覆うばかりだ。
 情報に国境が無いのは確かだが、様々な障壁が有ることは、外からの情報を見れば判る。この国には、他国には無い仕組みがあるそうで、排他的な壁は強固で高いものとされて来た。徐々にその仕組みが崩されて来たものの、大災害の中でも意味なく機能していたことから、厳しい批判が浴びせられて来た。ただ、依然として、そういった表現が巷に流れている所を見ると、相変わらずの協力関係が維持されているようだ。正しい情報を提供するのに、唯一の情報源にしがみつくのでは、誤りを犯す可能性が高くなる。横並びにそんなことを繰り返す国内の組織に、批判の雨が降ったのも記憶に新しいが、反省の兆しも見えず、旧態依然とした状況が続くのは、何故だろうか。そんな中で、狂気の沙汰とも思える行為を繰り返した「研究者」もどきを、勇者の如く取り上げた新聞社に、競合する新聞が攻撃を仕掛けたのは、まるで内輪喧嘩のように映った。何処かの首長の批判記事を掲載した雑誌の親会社が、取材拒否を言い渡された話に関しても、件の誤報の新聞と同系列のテレビでは、他社とは異なる姿勢での報道が見られる。下らないことを繰り返した輩が、恥の上塗りをしているとしか思えぬ状況に、掛ける言葉も見つからないが、こんな連中が免許が必要となる画面を独占したり、大量に流される紙面を利用することに、危機感を覚えない人々は、何を考えているのか。それとも、考えなくても済む平和な時代を、享楽しているのだろうか。

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10月18日(木)−人道

 責任転嫁と言ってしまうと、誰か特定の人に責任を擦り付けることのように聞こえる。だが、今の世の中で、頻繁に起きていることは、誰かを特定せず、自分の責任だけを逃れようとすることだろう。社会とか環境に責任を負わせることは、正当なことのように扱われるが、それを自分も構成するのだとすれば、どうか。
 一見正当と思える論理が、こんな形で世の中に蔓延するのを見ると、自分自身の責任を問うこと無く、他人の責任ばかり追及する姿勢が、現代人の心を映し出すものと思えてくる。こんな中で、詐欺や詐称などの悪事が目立つこととなり、それを防止したり、回避する手立てが大々的に講じられるのを眺めると、対症療法の重要性の反面、真の原因の追及が殆ど行われていないことに、気付かされる。他人のせいにするという風潮は、古今東西、何処にでも存在していたものとされるが、そんな人間を見つめる目は、厳しいものがあった。最近の傾向は、仲間を見出した喜びに溢れるもので、同類相憐れむを地でいく姿が見えている。そこにある矛盾を指摘することで、折角見出した仲間を失いたくない心情が、見て見ぬふりを繰り返させ、社会全体を劣悪化させる。原因は何処にあるか、この部分に関しては明白なのだが、では、何故、そんな風潮が蔓延ることとなったのか。そちらの原因は簡単には見出せそうにも無い。全体として言えそうなことは、おそらく、倫理観の欠如という話だろうが、これとて、原因を探し当て、指摘したとしても、大多数がそんな状態にあるのでは、解決の糸口も見つからない、ということになってしまう。倫理が社会の中で形成されるものとしたら、これも当然の結果なのだろうが、社会の前に人間として、という事があるとしたら、さて、どうだろう。

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10月17日(水)−先入観

 欺く話ばかりが世の中に流れていると、人々は騙されないぞと力を入れるようだ。だが、闇雲に力を入れたとしても、役に立たないばかりか、別の形で害を被り、結果的に欺かれることとなる。本来ならば、誤りや矛盾をつくことが肝心と言われるが、その力は無く、別の指標を頼りに判断するのでは無理も無い。
 人の話の内容を吟味するのに、人柄やら人格が問題になるのは、何処か外れた話に思える。だが、今の世の中に流れているものの多くは、そんなものを基準に判断されたものではないか。自分の意見と異なるものが出る度に、その背景にあるものを探し出し、自らに有利な展開を図る。つまり、異論は何かしらの思惑や目論見によるものであり、自分の意見は、そんなものに左右されない正当なものとするわけだ。この考え方の杜撰さは、意見の内容に無関係な要素を採り込むことで、正誤の判断を下すことで、内容を聞くまでもなく結論は決まっている。こんな暴挙が罷り通るのが、今の世相の抱える問題であり、自らの誤りに気付くこと無く、曲論を展開し続ける。そこで行われるのは、敵味方を明確化し、どちらに与するかで人や意見を区別することであり、理解や思考という行為は、全て停止してしまったかのように見える。こうなってしまえば、誰も止めることはできず、二極化した議論の場は、互いに歩み寄ること無く、無駄な時間が流れるのみとなる。敵味方に分かれた戦いでは、中立な立場は有り得ず、知識を有する人々の考え方は、どちらかに偏ったものと受け取られる。正しい情報を、という意見が盛んに出される一方で、こんな愚かさが表に出ているようでは、まともな吟味も議論も不可能となるのではないか。これは、正確な情報を出さない人の問題ではなく、情報を正しく受け取れない人の問題なのだ。

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10月16日(火)−誑かす

 人を騙して金を奪い取る、自分を大きく見せ利益を得る、などといった形で、自分を有利にする為には嘘を吐くことも構わない、といった風潮が強まっている。目的を達成する為には手段を選ばぬ、の典型として、嘘吐きに注目が集まるが、騙される人々の話題は、被害者という括りに限られ、その能力が問われることも無い。
 弱者救済を第一とする世相は、被害者に対して厳しい指摘はせず、強者と見なされる加害者に、その責任を負わせる。犯罪の主体を考えれば、罰を与える対象は加害者に限られるが、これは、被害者が既に害を受けているとの見方からだろう。だが、この考え方故に、被害を減らすことができないとしたら、どうだろうか。これは、被害者にも罰を、などという乱暴なものではなく、被害を減らす為に必要なことを、真剣に考えるべき、と指摘するものだ。被害者の多くが、知らなかったとか判らなかったと述べるのに対して、知らせることの重要性が強調されるが、それで十分なのか、実はここに問題の核心が有りそうに見える。知らないことが多々有るのに対し、事例を一つずつ挙げることでは、いつまで経っても鼬ごっこは収まらない。騙しの手段は次々編み出され、被害者は増えるだけでなく、二度三度の人まで出る始末、根本解決は望めないと思えてくる。騙し方が無数にある中で、事例提示が無力なのは当然だが、そこに潜む根本問題に目が向けられることが無い。理由は簡単で、そんな判断をさせないことが、人心を掌握する為に最良とされて来たからだ。犯罪かどうかとは別に、世の中には騙しが溢れており、それを見破る力を大衆が得れば、混乱が生じかねない。だからこそ、そんな判断力を身に付かせないことが、不可欠となる。こんな環境では、堂々巡りは終わらず、被害を減らすことは不可能だろう。これでは、正しい情報を、などという呼びかけも、実は、無意味としかならない。

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10月15日(月)−救い

 特別扱いに違和感を覚えるのは、仕方のないことではないか。自分と違う扱いが、誰か他人になされた時に、それを差別と捉える人もいれば、弱い者への援助と捉える人もいる。強い者が特別扱いを受ける時に、不快感を露わにすることがあっても、弱い者となると、と考える人もいるが、どうも最近は事情が変化してしまったようだ。
 この頃特に目立つのは、弱者救済への方策の充実ぶりであり、異様に思えるほどのものも散見される。確かに、弱者を保護することは、ある見方からすれば重要なのだろうが、度を過ごしたやり方には、賛成できないどころか、明らかに異論を唱えたくなる。特に、環境を原因の一つとする分析には、当人の責任や選択は入り込む余地がなさそうで、避けがたい不幸を取り除くために、といった雰囲気さえ漂う。だが、弱者となるべくしてなった人も、数多く存在し、普通の生活をしてきた人にとって、始めの時点での責任の重さは、かなりのものに見える。いつの間にか、結果が全てという解釈が強まり、現時点での不幸の度合こそが、救済の対象となるように扱われる。それ自体が、何の罪もない人間を救う手段のように扱われるが、現実には、罪に罪を重ねた末の結果という場合が多く、簡単には賛同できないものも少なくない。どうも、世相が厳しい状態にあるせいか、こういった時の対応も、優しさや労りといった空気ばかりが重視され、責任を問う声は、そんな中で沈められていく。間違っているとは言えないものの、強い違和感を抱く人が多いのは、やはりどこかにずれがあるからであり、それを放置したままに、制度の整備を続けることには、かなりの危険があるのではないか。原因と結果の吟味を慎重に進め、そこにある問題の整理をした上で、対策を講じる手順を編み出して欲しい。誰もが不幸を主張しようとする時代に、どこが肝心かは、簡単に出る答えのない問いではないか。

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