過言とも思しき発言に、注目が集まり、賞讃の声が浴びせられる。冷静に見れば、大言壮語としか思えぬものも、天晴な行いと評価され、人気が集まる。いつの間に、人を見る目を無くしたのか、などと考えさせられるが、実は、大多数の人々はその程度の力しか無く、噂や流言に惑わされつつ暮らして来たのだ。
そんなことに耳目が集まることも無く、当然のこととして聞き流されて来たことに、最近は、驚く程大きな力があるように思える。発言力と表現され、言葉の力に皆の注目が集まっていた頃と違い、発信源となる力が、無能な筈の人々にまで配られた結果、こんな不均衡が強まったのではないか。言葉の意味を読み取ろうとする力より、上辺の飾りに惹かれる性質が際立つ、大衆の動向がこれ程注目される時代も珍しい。下品なまでの言動が、殊更に取り上げられたり、非常識としか思えぬ発言に、拍手が送られたりと、下々の人々の行動には、品格の欠片も感じられないものだが、それが大勢を決するとなると、時代の行く末に不安を抱くのも、無理も無いことだろう。大きな声は、理にかなう声より強くなり、常識が軽んじられる時代には、こんなことが起きるのも仕方が無い。常識そのものが、どんなものなのか薄ぼけてしまい、本体を見出す力さえ、失われてしまった。理性より欲望が力を得た中では、遠くまで見通す眼力は評価されず、身近な利を追い求める行動ばかりが、重視される。理を説く必要のある話より、欲に走る話の方が、分かりやすいのは当然であり、それを知りつつ、抑え込むのが品格などと説いてみてとて、誰の目も向いてこない。だが、よく考えれば、大衆とは所詮そんなものであり、彼らが決めたことなど一つも無かったのだ。今の問題は、本来、決める役割を負うべき人々が、何処に消えてしまったか、ということなのだ。
先週、本分の放棄について書いたが、あの突然の幕引きには、そんな言葉は当てはまらぬとの反論が聞こえてきそうだ。自らの役割を考えたら、こんな所に留まるのは本意でないといった内容は、あの人物なら当然とされたが、どんな理解を示せば、そんな結論に至るのか、普通の人間には思いもよらないのでは。
身勝手さが取り上げられるかと思ったが、政治を扱う記者たちは、自らの仕事に光が当たるとばかり、双手を挙げての歓迎となったようだ。だが、何故今なのか、というごく普通の疑問に、答えを出す気配は見えない。思い通りにならぬ状況で、自らの力を発揮できる現場として、乗り込んで来た場所も、数期に渡る在任中に、できることできぬことがはっきりして来た。所詮、首長の一人に過ぎないとの揶揄の声に、様々な形で反論を繰り返したとしても、国を操る人々との違いは大きくなるばかり。自らの力を信じる人間として、忸怩たる思いがあったとの解釈は、余りにも偏ったものに見える。様々な提案を繰り返し、多くが頓挫して来た中でも、選ばれ続けられたのに理由は見つからないが、今でも、その幾つかが課題として残っていることに、目を向けること無く、先の展開だけを問題視するのは、明らかな間違いだろう。政の本分は、どんな所にあるか、同じ役割を負おうとしているのに、何故問われないのかと思うが、それを問題として取り上げられる程の分析力も理解力も、あの人々は持ち合わせていないのだろう。互いに本分を見失い、机上の空論を回し続ける中で、国の秩序が守られるのか、身近な不安に怯える人々には、こんな問題は遠くに霞む存在なのだろう。
新聞の履歴書は、この季節に見合うものとして、ある賞の受賞者のものが連載されている。この国に育った人は、決して奢らず、自らの歩んだ道を意外な展開として描くことが多いが、今回もそんなものの一つとなっている。その最中に新たな人が賞を授けられ、下馬評通りの結果に、納得の声が多く聞かれる。
結果は予想通りだったのかも知れないが、件の人の歩んだ道は、平坦なものではなかったようだ。技術の無さを指摘された時代を経て、所期の目的は失われ、別の選択を余儀なくされた。その後の展開も、順風満帆とはとても言えない状態だったらしく、様々な紆余曲折の末、得た職も競争の中で埋もれてしまう状態だったとされる。流石に、偉大な賞を授けられた人間の人生を、失敗や挫折の連続と言うわけにもいかず、成功物語へと徐々に書き換えられていくと予想されるが、歩んで来た道にあったものに対し、その功績を讃える声が聞こえない例も少ない。個人の力で勝ち得たものだから、それは当然のこととの解釈もあろうが、全体として眺めてみると、同じ賞を授けられた先人とは違い、他人を押し退けてでもといった攻撃性は感じられず、驕りも表には現れていない。一方、対象となった研究を推進できた最も大きな理由には、思った程には注目が集まらず、相も変わらぬ、選択と集中の論理が大手を振って伸し歩く姿には、誤った選択を改める兆しは見えてこない。偶々大きな研究補助金がおりたことが、研究発展の原動力となったことは認められても、その理由は注目されず、額の大きさばかりに目が集まる。その運の良さは確かだとしても、その決断の理由を見ずに、運だけで片付ける風潮には、頭の良さは見えてこない。更に、そこに至るまで、比較すれば小さな額の補助がどんな役割を果たしたかについては、誰も目を向けない。この国の科学が、真似と揶揄された時代から、独自のものと評価される時代に変貌したのは、金や運だけで片付けられる問題ではない。
新たな知識を身につけようとする時、障壁となるものは何だろう。こんなことを取り上げるのは、学びの現場の混乱が様々に取り上げられ、その影響が社会全体に広がっている為で、情報の取捨選択も含め、自らの行動を決める手立てとなる事柄に、どう対応するかが問題とされるからだ。では、何が邪魔なのか。
自分たちが学んで来た過程で、どんなことを行って来たかは、それぞれに理解できる所だろう。それを、今問題となっている状況と比べれば、何が違うかは意外な程簡単に見つかる。しかし、見つけたから解決とはいかず、そこで壁を作り出している原因を特定し、それを取り除く為の方策を講じなければ、解決には繋がらない。多くの人は、自らが持ち合わせている知識と、新たに持ち込まれるものを比較し、その違いを見出すことで、新知識を加えて来たのではないか。これは、比較により違いを際立たせ、そこから古い間違った知識を修正し、正しいと思われる新しいものに切り替えることだと言えそうだ。こんな当たり前のことが、今は行われていないとしたら、何処に問題があるのか。気になる行動の一つに、大した知識でもないのに、それに固執するというもので、修正が行われる機会は、始めから存在しないといった状況にある。本人は、今持っているものを失いたくない、という思いからか、頑なに握り続けるというわけだが、それが間違ったものだった場合、誤りを持ち続けることとなる。何かのきっかけで取り憑かれたように、間違いにしがみつき、それを正す機会を逃し続ける。これでは、一度固定されたものが居座り、新たなものが入り込む余地はできない。何故、こんな行動を続けるのかは、上手く理解できていないが、こんな状況を打破する手立ては、一つだけ残っていそうだ。それは、後生大事に抱える間違いを、破壊することから始めることであり、本人には、その決断ができないのだから、周囲から圧力をかけることしか残っていない。自分の中で解決できない人に、何ができるのか、その悩みは残りそうだが。
不正の話ばかりが取り上げられると、時代は何処に向かうのかと思えてくる。その一方で、平等という考えの下に、偏った見方を公平とする動きには、局部しか見えず、俯瞰できない人間の台頭を感じる。この矛盾の原因の一つは、基準を排してでも、劣勢な人々を特別扱いしようとする、配慮のようなものがある。
一見、博愛精神に基づく行為のように見えるものだが、その多くが、逆差別とか、不平等と揶揄されるのは、心の問題として成立しても、運用の際に様々な軋轢が生じるからだろう。更に、いざ実行してみると、様々な問題が表面化し、一つの問題を解決する為の手立てが、別の問題を招くという悪循環が繰り返される。結局、特別扱いの為に基準を外したことが、一番の原因であり、それにより、二つの基準が一つの制度に存在するという矛盾が生じる。その結果、公平性が崩れ、人々の不満が噴出することとなる。では、弱者救済を目指すのに、何か画期的な方法があるのか。今の所、見つかっていないとするのが正しい解釈だが、皆無かどうかははっきりしない。例えば、一つの基準で選別することを前提とし、その範囲内である特定の資格の人々を優先させる、という方法は、彼らに別の基準を適用するより、的確なものに見える。公平性が問われる制度の中に入試があり、様々な特別枠を設けることで、多様性を保とうとする動きがある。だが、過度な多様化は選別を無力化し、選抜後の混乱を招く。ここで公平より公正などと、ある記事に著されていたが、そこでの論点に重大な欠落があるように感じた。そこでは、海の向こうの制度をより良いものと紹介したが、そこに厳然とある基準に目を向けるより、多様性を産み出す手立てに注目していたことは、そういった基準を設けていないこの国の制度に、当てはめようの無いものを見せることにしかなっていなかった。無基準に特別枠を設ける不公平を、多様性への新展開とするのでは、やはり無理があるのだ。
「ゆとり」という言葉は、いつの間にか悪い印象を与えるものとなってしまったが、それを楽しんだり、持っている事自体が悪いわけではない。最近は、無い人や欠いた人が目立ち、そんな行動に溜息を漏らすばかりだが、余裕の無い人には、そんな声もイジメに似たものと聞こえるらしい、難しいものだ。
目くじらを立てるとは、粗探しをしたり、非難をする行為を表すが、そんな雰囲気が漂う程に、苛つきが目立つ行動には、どんな背景があるのかと思う。抑圧下にあることが、その主因とする考えもあろうが、同じ環境を経験していない人間には、上手く理解できないようだ。しつこい位に書いているが、被害者を特別視する風潮は、こういう人々に特権を与え、全ての発言が尊重されるような空気さえ漂う。問題を起こした組織が、様々に手立てを講じても、不足を指摘する厳しい意見ばかりが取り上げられる。害を及ぼされたのだから、相手の立場を考える必要などない、といった考え方が世の中に浸透しているだけに、一方的な要求は高まるばかりとなり、抑圧からの離脱を目指す勢いは止まらない。相互理解が存在しない社会では、こんなことが当たり前のように行われるが、社会の基本はそんなものなのだろうか。構成員がそれぞれに身勝手な考え方を貫き、相手を気遣う態度を捨ててしまえば、何か事が起きたとしても、助け合いの気持ちが芽生えない。自分さえ良ければ、という考えが主流となれば、切り捨てられる人が出るのもやむを得ない。弱者保護と正反対の考え方が、弱者から出てくるとすると、困りはしないのかと思うが、自己中心にはそんな矛盾を感じる余裕は無いのだろう。こんな行動を、首長たちがするのを眺めると、溜息は更に大きくなる。
法律を制定する唯一の機関が、この所休業状態にある。借金を頼まねば、使う金も侭ならぬ事態にあるにも拘らず、その為に必要な手続きさえ行えない状態は、普通の家庭ならば、差押えの執行を恐れる日々に当たるだろうが、余りに大きな組織では、それが表に出ること無く、末端での混乱のみが起きるのだろう。
だから悠長に構えても構わない、ということは決して無い筈だが、重い腰を上げる気配さえ見えてこない。これを、長たる人間の資質の問題と見る向きもあるが、果たしてそうなのかと思える気配もある。綱引きの様子が伝えられる中で、相も変わらず、批判しか口にできない人々は、開かれた暁には、不適切な人選をまず取り上げ、そこから片付けようと目論んでいるようだ。そこに挙げられる理由も下らないが、法の制定を優先せず、それを司るべき人間の適格性を問いたいとする態度は、これまでにも野に留まる人間たちが、貫き続けて来たものだが、物事の順序さえ見極められぬ、無能ぶりを露呈するものに見える。人選の直後から、粗探しに奔走した結果、彼らの視点で欠陥と断定されたものが、続々と提示されたが、庶民感覚からは、それ以前にあるバッヂを付ける資格さえ無いもの、と思えるものまである。今までは仲間として認めて来たものが、今度は駄目とは何事かと思うが、彼らの論理に不可能は無いのだろう。こんな状況で、必要不可欠とされる手立てを講じることは、開いたからといってできることなのか、俄には信じられない。開けばいつも通りの批判の反復となり、肝心の議題は一度も論じられないまま、勝利の美酒をあおる、といった図式が明白な中で、猛火に飛び込むことが必要か、などと思ってしまう。その一方で、資質を問うのに、何の意見も聞かずに決めることにも、強い違和感を覚える。最近は、議論無しの決定が流行のようだが、最高機関も乗り遅れないようにしているのか。