島国根性と呼ばれ、視野の狭さに批判が集まったこともある。しかし、狭い国土に多くの人が住み、すし詰めの車内を我慢しつつ仕事場に出向く、向こう三軒両隣と言われた近所付き合いも、当然のこととされたのは遥か昔。今や、隣は何をする人ぞとなり、他人への気遣いは邪魔なものとさえ言われるようになった。
現状を見るのではなく、これまでの経緯を眺めてみると、その変化が今の窮状を招いたことに気付かされる。他人との関わりを無くすことで、自分中心の生活を確立したと思う一方、昔の助け合いの精神は、何処から現れて来たのかを考えると、今にそれを求めることの難しさを実感する。更に、大きな影を落としているのは、他人の目を気にする行動が、失われてしまったことにある。監視されていると疑心暗鬼の目を向けていた時代も、本人にとっては酷い状態にあったのだろうが、他人の目を気にせず、身勝手な行動を当然の権利として進めることは、社会の秩序を乱す原因となり得る。社会の均衡は、構成員それぞれの役割が果たされてこそ、保たれるものだろうが、現状はそれからは程遠い状態にあるようだ。当然の権利とは、保証されたものに思えるけれど、それに見合う資格を吟味せずに、授けられるものではない。無資格の人間や、嘘を重ねた上で権利を手に入れた人間が、のさばる状況では、均衡が保てる筈も無いのだ。その上、権利を手に入れる為の義務さえも、果たさぬ人々が増える状況では、社会そのものが成立しなくなる。社会秩序を保つ為に、様々な方策を講じる動きも、お互い様の精神が失われた時代には、一方的な施しの連続にしかならない。困っているから他人に目が向かないとの言い訳も、昔の話の、困ったときこそという考えからすれば、始めから間違った考え方となる。こんなに優しさが重視されるのも、そんな歪な社会だからなのか。
強烈な放射線が熱線と共に降り注ぎ、地上にあったものを焼き尽くした跡に、人々は死の世界を垣間見た気がしたと言う。全ての生き物が死に絶え、二度と生き返ることなど無いと思われたのも束の間、翌春には草木が芽を出した。輝く緑を目の当たりにし、人々は何を感じたのか、生きる喜びだったのだろうか。
降下物の影響が残る中で、何故こんなことが起きたのか、答えを知る人は居ない。だが、起きた事実は現実であり、原因や理由などは判らなくとも、それが起きたという事実は残る。不安に苛まれる人々が、心配の種を蒔き続けたのに対し、渦中の人々や動植物は、自らの命を長らえることを続け、子孫を産み出し続けて来た。蓄積された記録からは、歴然とした差異は見出せないと言われるが、表面に現れない現象は、追い続けることはできない。それを可能性の一つとして、未だに種を追い求める人が居るけれど、どんな意味があるのかと思えてしまう。可能性を論じるとき、確率の問題は特に注目されるが、これは肯定にも否定にも当てはまる。断定的な見方が否定された時から、全てを確率で論ずることが重要とされたが、これは否定も肯定もできないという、何とも中途半端な結論を導き、それとの関わりに覚悟を決めることを意味していた。だが、末端の人々は、特に、利害を重視し、確実な情報を求める。そんな中で、あれもこれもは通用しない。どうしたものかと思えるけれど、どうにもならぬとの答えにしか至らない。確実なことなど、この世には有り得ない、との達観が、達観だと思われること自体に、大いなる誤解があるとすれば、どうすべきなのか。科学とは、庶民にとって難しく遠い存在との理解も、勝手に作り出した幻想であり、非科学的な見方しかできない人間は、この世に存在しない。だとすれば、少し無理をしてでも、感情を抑え、静かに目の前に起きていることを眺めることは、無理難題ではないのでは、と思えてくる。
異常と思える騒ぎの中で、間違った情報ばかりに注目が集まり、冷静さを保っていた人々までもが、それに巻き込まれていた。冷静な集団からは、正しい情報の発信を求められたにも関わらず、専門家と呼ばれる人々の腰は引け、表舞台に立つこと無く、無責任との批判も起きた。だが、本当に、そこに責任はあったのだろうか。
聞く耳を持つ人々を前にして、正しい情報と解釈を展開することは、苦も無いことだろう。だが、こちらの話を聞かず、自らの主張だけを繰り返す、愚かな人々が相手となると、事は容易には進まない。事実無根の偽情報が流されたり、噂に基づく極論を盾に取り、根拠無き批判が繰り返される中で、自らの考えに自信を持っていたとしても、それを押し通すことは難しいのではないか。無責任との批判の主も、では、正しい意見の持ち主の話を擁護しながら、愚民との戦いに挑む気があるか、と問われれば、明確な答えは返ってこない。中立性を維持する為に、擁護は間違った選択であり、立場からすれば、困難となるからだろうが、目の前に居るのが狂気に満ちた敵ばかりという状態で、そんな立場に何の意味があるのだろう。沈静化に必要として、冷静な意見を求める中で、その肩を持つことが中立性の喪失に繋がるとは、何とも言えぬ皮肉に思える。その一方で、勢いに任せたのか、はたまた、自らの誤りに過剰な反応を示したのか、一部の専門家たちは、誤解を招きかねない程に衝撃的な予想を提出した。愚かな大衆は、既に忘れかけているから、大した問題ではなかったとの解釈もあろうが、予測できないとされ、批判され続けて来たのに、ここに来て大規模な災害を予想する動きには、冷静さから程遠い心理が見え、自らを貶める行為にさえ思える。そんな中で、遠くの地震国で、専門家の判断の誤りが有罪とされた話は、責任の問題にどんな影を落とすのだろう。
この所、ある話題に関連づけて、議論や考え方について、話を進めて来た。直接的な表現は省いたが、事故に対して、今巷に流れている話の多くが、根も葉もない流言であり、時には自らの主張を通す為の捏造まで含む。そんな事実無根の話を、実しやかに流すことに、強い抵抗を示す必要性を、書き連ねたつもりだ。
これは、脅威を感じさせる事故や事件に限られたことではなく、日々身の回りで起きていることに関しても、当てはまることであり、ある時期から特に目立ち始めたことに思える。自己中心的な人間が要職に就くことで、組織の運営は大きく乱れ始め、付け焼き刃的な対応は、状況を悪化させるのみとなる。組織の為という献身的な行動が失われたからと、この悪化を分析する人が居るが、自分勝手な悪行が目立つからと言って、他人の為だけに動くことが正義だとする考え方には、強い違和感を抱かざるを得ない。一個人が、多数の他人の為に動くことは、一定の理念や目標へと結びつけ難く、迷走が続くこととなる。混乱の後に、献身を重視した動きが、効果をもたらさなかったのは、まさにこんな誤解があるからだろう。自己中心は、自分の利益が他の損失へと繋がることを、全て無視した結果となるが、自と他の双方共の利を追求すれば、組織の利益へと繋がる。要するに、自身への利益を最優先にする中で、他の損失を最小限に抑える努力をすることが、組織への貢献と繋がるわけだ。この順序や重み付けを忘れ、一方的な偏りを招くやり方が、組織を混乱に陥らせる。こんな破壊行為とも思しきことを繰り返した人間の多くは、誰かの下で働く中でその感覚を身につけられず、勝手な行動が上司に評価されたと思い込んだことで、自らが上に立った時に、誤った選択を繰り返した。彼らの罪は非常に重いが、その無能ぶりを補う手立ては無い。あっさりと退場を促すことが、唯一の手立てなのだ。順調に事が運んでいた時代に、そのうち判る筈という思い込みから、指導を怠った人々の罪は、実は最も重く、それが悪意を良心と思い込む人間を育てたのだろう。
専門家を揶揄する言葉が並び、罵る姿を目の当たりにして、口を噤んでしまった人が多い。誰しも、人格を否定する言葉や謂れなき誤解に基づく酷評に対して、反論の糸口を掴むことは難しい。まさに、四面楚歌の状態で何ができるのか、きっかけさえ掴めない。その上、説明責任を果たさずと、罵声を浴びせられては。
事故後の分析や解析において、一部の専門家たちは不確定な事柄を引き合いに出し、大衆を欺く行為に力を注いだ。彼らが糾弾され、厳しい評価を受けるべきであることは、火を見るより明らかだが、そういう人々に光が当たる一方で、真面目で冷静な分析を繰り返した専門家たちに、ある力に屈したとの判断を下し、侮蔑の称号を与えたのは、大衆の愚かさを如実に表す行動様式だったのではないか。嘘吐きと正直者を、ごた混ぜにしながら批判し続ける姿勢には、自らの正しさを評価する気が無く、ただ単に攻撃対象を見出そうと、目を皿にする姿にしか見えない。全体として見れば、狂気の集団となるが、そろそろ別の見方が出て来てもよさそうに思う。悪者を特定し、そこに集中砲火を浴びせるのは、今の狂った社会の風潮だが、その波に専門家までもが乗っかっているのを見ると、呆れてものが言えなくなる。将来、目も向けられない異常行動だろうが、当人は保身に走った結果として、この選択を果たしたのだろう。だが、ほんの偶にしか起きないことが、事実起きたからと言って、その確率が高まる筈の無いことは、統計に通じれば明らかであり、そこで根幹となる論理を大きく変更することに、意味が無いことも明らかなのだ。にも拘らず、これ程までに恐怖を煽り、危険性を増幅させる分析や言動が頻出するのは、冷静であるべき人までもが、流行病に罹ったことを表しているのではないか。これは、残念ながら、自力治癒以外に、手だてが無いようだ。
ついこの間まで、楽観論を述べていたのに、と批判されるのは専門家と呼ばれる人々だが、では、批判する人たちは、どんなことを考えていたのか。一部の絶対反対派は別として、一般庶民にとっては、話題にすることも無く、論じることさえ無かったのだから、楽観論を批判する資格があるものか、疑問に思える。
実態を鑑みてどう判断するかを論じるのも重要な立場だが、様々な要素を組み入れて、総合的に判断することを投げ出しては、判断には程遠いこととなるのではないか。事故が起きたときの甚大な被害は、重要な要素であると断定するのは、現状を目の当たりにすれば、当然のことと言えるという主張も、ある側面のみに目を奪われ、総合的な判断を忘れた結果と、後々になれば分析されると思う。狂躁の最中に、冷たい分析を浴びせれば、そこから巻き起こる狂気の大合唱は、更に熱を帯びてくる。一部の人が主張するように、この事故による汚染により、死亡した人の数は零とされ、直接の被害は「まだ」表面化していない、とされる。それがどんな経緯を辿るのかは、新型爆弾と呼ばれたものに見舞われた人々の、その後を追跡した分析から、ある程度の予測ができる筈だが、被害を強調したい人々には、冷たい数字は何も語らないらしい。確かに、深刻な汚染を受けた地域は、そのままでは居住不能となるのだろうが、それとて閾値と呼ばれる水準には達していない所が多い。見えないものへの恐怖を殊更に煽り、その結果として、様々な不都合が生じたとしても、恐怖に勝るものは無いと強調する。下らない議論と断じてしまえば、そのまま忘却の彼方へと向かいそうに思うが、狂気の扱いは意外に難しい。冷静な分析は、凝り固まった考えを解きほぐすには至らず、身勝手な意見と批判される。数字は、不安心理を煽る為には使えても、それを解消するには役立たぬ。乱暴な意見には、冷静な論理は横暴と映るらしい。全くに、劣悪なるものばかりだが、社会は、その類いの人々を抱えたまま、時間による解決を待つだけなのだろうか。
放射線の話は、理解できないから不安だ、という声が度々届けられる。如何にもと思える話のようだが、他の話題に目を移してみると、固定観念に囚われた考え方に、振り回されていることに徐々に気付く。無理解からの不安がそれほど大きいのなら、現代社会を生き抜くことは無理であり、諦めの境地にしかならない。
事故直後には、様々な形での解説を根気強く続けた居たが、我慢の限界を超えたかのように、その姿勢は消え去り、事実と思えることだけを伝える。だが、理解の限界を超えた事実は、恐怖の対象としかならず、その伝達は煽動としか映らない。基本的な事柄の理解を基礎に、事実の意味を解くことは、恐怖に戦く人々に任され、情報は無意味なものとなる。放射線の強さの単位も、様々な形で伝えられ、混乱を招くが、その意味と使い方を伝える兆しは見えない。既に、十分に知らせたのだから、その必要は無いとする向きが多いが、彼らの理解の程度を眺めると、その解釈の誤謬に呆れてしまう。事例を挙げることは字数の問題から無理だが、一つ二つだけ試みてみる。例えば、除染の際に問題となる放射線量の値では、線量計で測られたものがよく使われるが、その一方で、土などを採取した際に得られる線量が示される。前者は時間当りの値のみなのに対し、後者は一定重量当りという単位が加わる。多くの人は同じように眺めるが、そこに存在する土が同じ重量無ければ、その値のもつ意味は大きく変わることに気付かない。これは溝に溜った埃などに適用されると、過大評価に繋がることに、配慮すべきなのだ。次に、汚泥の汚染で何度も出て来た不思議話。汚泥は排水から出るから、元々水が全重量の殆どを占める。それを乾燥させた上で、単位重量当りの値を出せば、簡単に一桁二桁の違いが出てくる。そこに目を向けず、結果のみを追い求めることに、矛盾を感じない人に思慮は感じられない。更に言えば、ここに放射性物質の扱いに関した重要な事実があることに、誰も目を向けないことに、何らかの目論見があるのではと疑いたくなる。本来、放射性物質の扱いには、濃縮より希釈が基本との考えがあったのに、今や気付かぬふりを決め込んでいるらしい。