発電に関する方針変更は、本来、科学的な分析に基づく筈の、長期的な見通しさえも大きく変えるようだ。科学は理解し難いものだが、確かな存在と信じて疑わない人々が、一時の恐怖に駆られて、正反対の論理を平気で展開させる。所詮、自らの利益が最優先となり、その補強に科学が使われるに過ぎないことなのだ。
にしても、これ程の大転換は俄には信じ難いものだろう。人間の生活を最優先とした結果、様々な論理が構築され、それを支える科学的な知見が絶対的なものとして掲げられる。だが、末端でこの手の話を聴く人間には、全く想像できないものだが、肝心の科学の世界では、そんな話は曲論として切り捨てられ、精々、あらゆる可能性の内の一つに過ぎないとされる。結局、それを引き合いに出す人間にとっての利益が、表に現れないようにする細工の一つとして、科学的なデータに基づく解釈が実しやかに用いられるだけで、その予想が外れたとしても、当人にとっては何の損失も生じない。温暖化の話は、あれ程に持ち上げられたにも拘らず、最近はとんと聞かれなくなったのも、発電を燃焼に頼る形では、そちらの辻褄が合わないからだろう。だとしたら、未来予想図としての温暖化は、何処に向かうことになるのか。更には、その原因として悪者と化した二酸化炭素の扱いは、どうすべきなのだろうか。一方で、気候変動に危機感を覚える人々の中には、気温の上昇より、降水量の変化に目を向ける人が居る。確かに、栄華を誇った文明の存在が、今や枯れ果てた地域となっていることは、水の存在ことが人間にとって重要となることを、示しているように思える。失われた国の記録は見出せないだけに、どんな変化があったのかを知る術は無い。想像の域を出ない話ではあるが、こんなことのそれぞれが、複雑に入り組んで自分たちの生活を支えたり、脅かしたりして来たのではないか。一つ事に執着する事で、一部の利益は求められるかも知れないが、全体としては、もっと広く見る必要がありそうだ。
横並びの情勢に、選択の決め手を見出せない人が多いのではないか。こうなると、ありもしない長所を探し出すよりも、大きく目立つ短所を見つけ、選択の枠外へと追いやる手法しか残らない。だが、目の前に並ぶ人々には、痘痕もえくぼなどといった風情は無く、欠陥だらけの人間を見る気分となり、諦めに似た心境となる。
自らの主張を繰り返す人々に、何故他とは異なる特長が無いのか。答えは簡単に見つかるが、それを期待しない、こちら側に居並ぶ人々に、問題があるのだろう。自分たちに有利になる話に飛びつくばかりで、他の話題には目もくれず、関心も持たない。自分のことしか考えないのは、あっちもこっちも同じ状況であり、こんな人間が蔓延る社会が、健全などと評する人が居たら、気が違ったのではないかと思える程だ。しかし、その実態を築き上げたのは、今の世の中を動かしていると、自負する人々であり、彼らの下らなさには、評する言葉が見つからない。それでも、仲良し倶楽部を第一とし、仲間を大切にする気持ちしか無い人々には、これが最重要の要素であり、最優先の課題として掲げられるものとなる。発電様式の問題然り、税金問題然り、年金までもが身近な話題として、取り上げられる。だが、それぞれに閉じた議論を展開するばかりで、全体を見渡せない、視野の狭い人間共に、何ができるのかと言えば、行き詰まりに向かって邁進することぐらいしか有り得ない。視野を少しずらすだけで、違った様子が見えてくる筈も、何事にも自信の無い人間共には、そんな余裕さえ窺えない。何故、これ程に劣悪な人間たちが、要職に就く機会を得たのか、という疑問に対しては、おそらく、仲間意識の高まりと、多数を構成する偏りによるものとしか、思い当たることは無いのでは、と思う。確かに、重要な選択かも知れないが、そこに複数の選択肢が無いことは、始めから用意された答えを押し付けられるだけのことだ。選ぶことの重要性に注目が集まる一方で、こんな下らない舞台が用意されるのでは、わざわざ入場券を買うまでもない、と思うのも無理も無いことでは。
特殊な環境におかれた地域に、独自の文化が育まれることは、屡々あると言う。問題は、周辺各地との関係から、独自性を維持できるかであり、長い歴史の中で、様々な変遷があるのもやむを得ない。だが、自分の違いばかりに目が向き、あいつらとは違うと言い続けることで、染まらないのは、良いことなのだろうか。
国と国に挟まれた地域は、自らの独立を保つ為に、様々な工夫を凝らす必要がある。そんな歴史の中で、身に付けて来た方法は、あちらとそちらの力を測り、機に乗じて利を得ることのようだ。風見鶏と呼ぶのは辛辣に過ぎるだろうが、機敏な動きには利を嗅ぎ取る力が必要となる。だが、国内唯一の戦場となり、その後も前線に留まらされた事情からか、最近の動き方には、偏りが強く感じられる。弱者保護という考え方が、大勢を占めるようになったことからも、この傾向は強まるばかりで、自分たち以外を批判し続け、自らをその輪の外に置く感覚には、異様なものさえ感じられる。自分は違うぞ、と思い続けることが悪いとは言えないかも知れないが、同じ国に暮らす人間として、他の地域との違いばかりに目を向けるのは、おかしなことだと思う。被害者を守るべきとの考えが、戦争被害においても、様々に適用されて来た歴史から、ある特殊性に光を当て、そこに話題を集中させる。しかし、それぞれに様々な形で厳しい時代を生きて来たことからは、一部のみを取り上げる姿勢には、異常さの感覚を禁じ得ない。弱い者が声を上げられる社会は、正常さを保っているとの意見もあるが、一方的な要求が突きつけられるだけの状態は、やはり異常なのではないか。冷静な分析を排除する程に、異常な雰囲気が強まるようでは、被害の仮面を被った加害になるだけで、更なる被害者を出すだけに思える。
検索という便利な道具のおかげで、楽ができるようになった。本来なら、重く分厚い事典を開き、そこに見出される言葉について、更に調べるという作業が続き、もっと詳しく知りたいと思えば、図書館に出かけ、カードを繰る作業から本を探し出すこととなった。それが思いつきの言葉を入れ、釦を押すだけで済む。
一昔前だったら、夢のように思える便利さだが、それを使いこなす人々の能力が、高まったのかと問われると、答えに窮するのではないか。多くの知識が身に付くと、歓迎の声が上がる一方で、玉石混淆の海に溺れるだけだと、批判の声が止むことは無い。的確な知識に辿り着くことは可能だが、その過程で取捨選択を繰り返さねばならず、徒労に終わることも少なくない。検索能力は、その作業をする過程が問題であり、その為に必要となる情報量こそが、肝心との考えがある。だが、個人による能力の違いは、実は入力する単語やそれらの組み合わせにこそ問題があり、的確な問い掛けが肝心となる。そんな状況が打ち破られようとしているという話には、更なる大量な情報の蓄積にそれらの解析が加わることで、誤った選択肢をも修正するような検索手法が確立されつつあるとある。経験を基に単語を選別することを、検索手法自体が学習を繰り返すことで、人間に変わって身に付けるという原理のようだが、ある線を越えた途端に状況が一変するとのことだ。情報量が肝心とされるのは、これが理由であり、その蓄積に力を入れた一部の企業が、一人勝ちを続けていると言われるのも、その為らしい。大量の情報を基に、分析を繰り返し、学習を重ねて、強大な力を獲得する。一見妥当な流れに見えるが、ある時点を越えると、そこからの学習は自ら判断した結果を情報として使うこととなり、多様性は激減するのではないだろうか。もし、それが重要な決定にまで適用されたら、まさに、機械が神のような存在になるという、誰かの短編みたいな話になる。あの短編では、最後にその機械は神として、目に見えないものになると結んでいたが。
親の因果が子に、とばかりに、制限を加えられ、断念を余儀なくされた。現実には、敵対勢力との差を際立たせる為の戦術に過ぎないのだろうが、世襲の害ばかりが強調され、個人の能力に目を向けないことには、激しい憤りを感じる。出自が一方的に扱われることに、個人の反論の余地は無く、劣化の勢いは止まらない。
評価を苦手とする国民性にとって、何らかの規則を当てはめることは、言い訳の必要性を無くし、自動的な扱いによって、楽な気分を味わえる。だが、楽が苦に繋がるとしたら、どうだろうか。選択肢を少なくし、不足する人材を、数合わせのみで埋めることとなれば、そこから新たな展開が起きるなどとは、とても期待できない。これ程明らかなことでさえ、見て見ぬふりを続けることに、異論を唱えることは必要ないのか。こんなことを書くと、世襲を当然とする勢力に与する意見と受け取る向きもあろうが、それこそ、事実誤認と言うべきことだろう。誰が跡を継ぐのかは、人の能力を見極めて決めるべきことであり、当然の帰結などというものは、始めから存在しない。評価の回避が、混迷に繋がることは、明らかになりつつあるが、それと同じように、間違った判断が、悪影響を及ぼす例がある。始めに取り上げた因果とは別の使い方に、因果関係という言葉があり、原因と結果を結びつけることを指す。事象の分析において、これを的確に行うことは、次の段階へと繋がる大切な手続きだが、こちらについても、杜撰なものが社会全体に蔓延り、論理性の欠片も無い曲論が罷り通っている。復帰を目論む人間に、危機感を隠せぬ人が居る一方、盲目的依存に取り憑かれた人々は、あの惨劇を忘れたかのように、期待を抱く。だが、経済動向に関する、彼の最近の分析を見ても、冷静さを欠いた我田引水に、再びあの任に就かせることは、危険極まりない暴挙に見えてくる。自らの発言に酔う人間には、他人の言葉が届くことは無いのだから。
噂には真偽が入り混じり、うっかり信じて馬鹿を見ることがある半面、価値のある情報を手に入れることができ、助かることもある。だが、所詮、噂は噂であり、それを頼りに動き回れば、選択を誤ることの方が多くなる。そこで、裏付けとか、裏を取るとか言われる手順が必要となり、自ら確認するのが肝心となる。
それにしても根も葉も無いものを含め、噂となる話題は下らないものが多い。にも拘らず、庶民の口に上るのは何故か、下らないからこそ、身近な話題と受け取られるからなのだ。ただ、噂の主にとっては、迷惑千万のことも多く、それが誤認によるものとなれば、風評なる言葉に置き換えられ、被害者然とした存在に注目が集まる。特に、風評が力を得て、それに注目が集まる時代には、被害を受ける前に手立てを、といった考えが台頭している。一度、噂になってしまうと、それを払拭することは難しく、情報が独り歩きを続ける社会情勢では、その芽を摘むことが肝心というわけだ。噂になっていないのだから、知ることもできなかったことが、地元に住む人の口から、話を聞いてみると、なるほどそういう事情かと、分かる話もある。海産物は、震災の影響で様々に被害を受けているが、その前にも、生産地の違いで異なる特徴を示すものがあり、目的に応じて、選択をすることがある。件の海産物に関しても、震災の被害があった地域からのものは、鍋に使うと縮んでしまい、がっかりするのに対し、最近全国に流通するようになった、ある地域からのものは、大きさがあまり変わらず、食べ出があるという印象を持った。この季節、その存在は大きい筈だが、この所その姿を見かけない、と思っていた。その理由を聞いた時、まさに呆れてしまったのだが、ある連続殺人事件の死体の一つが遺棄された港が、その生産地の近くだったからだとのこと。自主規制なる不思議な言葉で括られる、防止措置をとる為の出荷規制とは、何とも不思議な成り行きだが、理解に苦しむ話ではないか。自然の恵みを受けることには、あらゆる要素が含まれており、中には好ましく受け取られないものもある。それこそが自然であり、人の手で作り出された環境とは違うのは当たり前だろう。この話題もその一つと受け入れられないのだとしたら、口にできるものは無くなるのではないか。
狂気が社会に満ち溢れている時代、というのは、一部の取り上げ方に過ぎないのかも知れない。だが、その取り上げ方に偏りがあることには、注意を払った方が良いように思う。賛同できる内容ならばまともと解釈し、異論を唱える人間には狂気を感じる。いつの間にか、自らの狂気を感じなくなっているようだ。
狂った人間は、それを意識しないからこそ、狂気となるとの話が通用しそうだが、ほんの一握りの人間に適用した時代と違い、今の社会ではそんな人間が多数を占めるようになり、不思議なことに、仲間を見つける為の手段ばかりが注目を浴びる。連鎖の恐ろしさは、その成れの果てを見てみれば、すぐに判ることなのだが、渦中の人々はそんなことにはお構いなく、お祭り騒ぎに興じている。狂っているという感覚は、正気を保っている人々には、嫌なものを見る気分が起こる。その為か、関わるよりも遠ざける傾向が強く、お祭り騒ぎも遠くで眺めるだけに終わる。邪魔が入らぬ中で、盛り上がりを見せる祭りに関しては、大きな支援までが注ぎ込まれ、狂気は打ち消される気配を見せない。これまでの所、正気に戻るきっかけは見えず、このまま狂気に満ちた社会が続くかのように見える。果たして、どんな展開がこれから起きるのか。それを決する催しが近く開かれると言われるが、一方的な情勢ばかりに注目を集め、全体的な視野を妨げる動きが専らとなる。全体が常軌を逸してしまえば、そこにある狂気は正気へと変わる。そんなことを言う人も居るようだが、それは本当なのだろうか。自分の判断を吟味すること無く、ただ漫然と流れに任すだけでは、間違った流れを塞き止めることはできない。まさに、何をすれば良いのかが問われているのだろう。