パンチの独り言

(2012年12月3日〜12月9日)
(誤報、選抜、無的、無才、意欲、反復、おにぎり)



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12月9日(日)−おにぎり

 週末の朝、小さな頃は平日の寝坊とは違い、起こされずとも勝手に早起きをしていた。学校通いとは違う、何か特別な楽しみがあったのか、全く思い出せないのだが、子供の心とは所詮、そんなものではないか。日頃との違いを強く感じ取り、自然に体が動いてしまう。その理由なんて、どうでも良いことなのだ。
 そんなことをふと思い出したのは、週末の朝に流れる自然の営みを伝える番組を見ていた時だ。雷鳥の親子の戯れを伝える光景や警戒心の強い岩魚の生態を映す画面を眺めながら、あの当時も、そんな番組が流れていたと、ふと思い出したのである。野鳥の生態や高山植物の様子を伝える番組は、それを見たことも聞いたことも無い子供にとっても、何か素晴らしいものを観察している気にさせたものである。当時は、何処かの山や野に行けば、そんな光景が簡単に見られるものと思っていたが、今はそんなことは考えない。たとえ、自然の営みだとしても、偶々訪れた人間に、それを見せてくれる甘さは微塵も無い。あの番組の製作者たちが、十分な調査と苦労を重ねた末の結晶が、そこに流れていたからである。演出とか、やらせとか、そんな言葉を安易に用いる人が居るが、これも、その一つに上げられるものだろう。だが、画像は事実起きていたことであり、それを編集によって、分かり易く纏めたものに過ぎない。人間の手を入れるとしても、それがある線を越えることは無かったと信じたい。人間の理解力とは、所詮小さなものに過ぎず、自らの経験に当てはめて、自然の営みを理解した気持ちにさせる為には、物語のような流れが必要だったのではないか。当時流行していた番組の一つに、野生動物の生態を伝えるものがあったが、これも今思い返せば、子供騙しにも似た解釈に溢れるものに思える。ただ、子供心には、そんなものでも良い影響を与えていた。朝の番組を眺めながら、普段食べもしない握り飯を、自分で握る楽しみも、そんな所から出て来たのかも知れない。

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12月8日(土)−反復

 同じようなことが繰り返されるとき、どのように対処するかを決めるのは、まさに傾向と対策の一つなのではないか。そう思いながら周囲を眺めてみると、対策が準備できているかがよく判るように思える。天変地異で命を守る手立てもその一つだろうが、人間が起こしたことに対するものにも、そんなことがある。
 恐怖が表に立つ時、人々は混乱に巻き込まれる。混乱の中で、どんな対応をするのかが、対策の重要点の筈だが、心理的に圧迫を受けている中で、予定通りの行動を行えるかは、その場にならなくては見えてこない。同じようなことという点には、その試しとして重要なことが含まれている筈だが、それが上手く運ばないのを見ても、人間の心理が一筋縄では行かないことが判る。ある失敗が紹介されたとしても、同じ失敗を繰り返す人が居なくなるわけでもなく、自分だけは違うという考えに囚われ、間違いを繰り返す。それでも、全く同じことが起きたわけでもなく、予想外に小さな影響しか及ぼさないとなると、人はまた傲慢な判断を下すようになる。危ない目に遭ったことが、ある時点までは強い影響を与えたのに、それを越えた途端に、何もかもがどうでも良くなると言われるのは、そこにも強い心理的な効果が潜んでいるからだろう。詐欺の被害に遭うなどといったことにも、同じような経過が見られ、懲りない人々がどちらの側にも存在することが、何故だか、よく見えるようになる。しかし、被害者たちには、そんな明らかな事実も見えず、何度でも首を突っ込んでしまう。となれば、一体全体、人間は学習をして、その経験を生かす動物と言えるのか、怪しくなってきはしないか。理解不能な行動も、本人にとっては、何かに突き動かされてするものであり、一部には、冷静な判断との気も残る。だが、実態は、欲に駆られた行動や、身勝手な判断によるものなのかも知れない。

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12月7日(金)−意欲

 少し前から全入時代と言われてきたが、実態は、依然として競争の中にあると思える。だが、認可の問題に注目が集まったり、経営状態の悪化が取り上げられるなど、存在自体が不確実なものとなり、入ってしまえばそれで良しとする、という考え方も危ういものとなりつつある。でも、この話、肝心なものが欠落している。
 教育の場の提供という立場からは、こんな議論が様々に行われているが、そこにやってくる人間に関する話は、余り聞こえてこない。それより、認可を出す役所からは、入れたものは必ず出すようにといった無理難題が突きつけられ、入学後の経過を公表することを、義務化しようとする動きさえある。選別を施すわけだから、その段階で十分な吟味を行い、資質のあるものだけを入れている、との解釈は、十分な競争の環境では、通用するように見える。しかし、誰もが進めるものと変貌した頃から、環境の変化は著しく、資質云々の話は口の端に上ることが無くなった。一度入れたものは、最後まで責任を持て、という考え方が間違っているとは言わないが、社会に飛び出した時に通用する資質を形成する為の段階としては、誰もが可能であるとの保証は、とてもできないものとなる。そんな目で眺め回してみると、定員割れを起こすような不人気の組織は言うまでもなく、それなりの状況を保っているように見える所でも、かなり深刻な問題を抱えているように見える。中堅と呼ばれる所でさえ、学生の不平不満が噴出する一方で、水準の低下は著しくなりつつある。相対的なものとは言え、学力水準の審査は行われており、それ自体が大きく下がったようには見えない。だが、意欲とか、積極性の面では、減退が激しくなっている。この面については、学力との相関は乏しく、戦争にも似た状況を勝ち抜いた頂点に位置する所でさえ、目立ち始めて久しいと言われる。目に見える努力はしても、地道なものには目もくれない。そんな気質が社会全体に満ちて来て、こんな事態を招いたとしたら、避ける手立ては見出せそうにも無い。だが、よく考えてみれば、少数の選ばれし者たちの場だったものが、誰もが、となったことに問題があるのだから、こんな結果は当然なのかも知れない。それに気付かぬ役人たちには、何を言っても通じないだろうが。

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12月6日(木)−無才

 毎月、読んだ本を記録のために残している。そこに、一言だけの感想を付け加え、評価を下すけれど、時々思いつきで、独り言で内容に触れることがある。感じたことより、感心したことが多いのだが、最近はどうも、眉を顰めることの方が多い。売上不振が趨勢と言われるが、現実には、質の低下が顕著に見える。
 そんな中で、別のメディアに関する評論が本となり、ある新聞の書評で取り上げられていた。例の大震災後の事故の報道に関する検証との内容説明だが、読んでみると上段に構えた割に隙が目立つ筋立てとなっていた。今回、特にこういった形で取り上げるのは、情報伝達に関わる業界で、この事故の報道に関しては強い反省の念があるように見え、それが本来果たすべき役割を自らの手に取り戻す為に、重要な一歩となると思えたからだ。ただ、書評で取り上げた新聞にしろ、本で糾弾されているテレビにしろ、伝達内容の劣化は否めず、単なる噂話を垂れ流したり、思惑に満ちた内容を流布するのに手を貸したりと、その体たらくは目を覆うばかりである。そんな評判もあり、戦時中の垂れ流しと同じとの揶揄まで飛び出す始末に、やはり、反省を強く促す必要を、著者は感じたのかも知れない。ある時期の全てのテレビ報道に目を通し、内容の齟齬を指摘することが、第一との考えからか、矛盾や不適切な点などに、話題は集中しているけれど、全体の時系列に関して、杜撰な扱いがあることに気付かされる。検証とは名ばかりか、と思えるのは、ある程度、事故の詳細が明らかになった後での、問題点の指摘である筈が、現実には、自らの主張を補強する資料を示すだけで、矛盾する内容は気付かぬままにする。たとえ、事故の内容に関する専門家でなくとも、詳細が分かっている中では、更なる踏み込みが可能と思えるのに、数値を並べるだけで終わるなど、検証とは呼べぬ結果でしかない。厳しい指摘が他の書評で明らかにされているが、最大の欠陥は、検証期間のすり替えにあると思う。事故直後と限ったはずのものを、ある事象に関してのみ、ひと月ほど後の話題を取り上げるのは、後出しジャンケンで、二度出しするような反則にしか見えない。こんな人々が、評論を続ける限り、業界は正しい反省に向かうことはない。

伊藤守 著
ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか
平凡社新書


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12月5日(水)−無的

 重大な選択を、と声を張り上げるものの、何処が選択なのか、さっぱり見えてこない。横並びの典型とばかり、同じような主張が並び、その中での些細な違いを互いに標的として、攻撃に精を出す。表面的には議論を進めているように見えるが、その実、大した思慮も無く、思いつきを並べただけなのではないか。
 人気取り、という言葉が流行になったように、この選択の場では、人の気を惹く話題を如何に提供できるかが重要と言われる。そこで、相手の望むものをずらりと並べるわけだが、それこそ、何の思慮も無く、何の見通しも立たないものなのではないか。外来語を使ったと思えば、元々の裏切りの代表とされた言葉に戻り、それ自体が迷走を表すことに気付かぬ大馬鹿者たちは、選びようの無い選択肢を示しつつ、自らの特長を滔々と述べている気分となる。特長とは、単に目立つものではなく、他に無く、長所として主張できるものの筈だが、長短の区別さえつかないくらい、似通った話題を並べ立てられては、返って来たとしても、選びようが無いとの返答が突きつけられるだけだろう。その上、信頼を無くした人々には、縋る気持ちばかりが目立ち始め、終盤には例の如くの土下座が頻発するのではないかと思えてくる。政の劣悪化が最も顕著に現れている面は責任転嫁にあり、国を操る力を持つと言われる人々の退場を、この所の猫の目政権のどちらもが主張し続けている。だが、政の核心は、向かうべき道を決めることにある筈で、それさえ決められない人々に、その資格がある筈も無い。肝心な所を指摘すること無く、重大な選択などと大合唱するメディアにも、責任感だけでなく、反省が見られないのも、今の社会の典型だろう。こんなことの繰り返しを眺めて来た庶民にとって、今回の様相は、乱立という茶番劇と欺瞞に満ちた協力体制に、更なる混乱が垣間見え、どれを選んでも同じ、という気分になるのではないか。

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12月4日(火)−選抜

 質の保証が問題となる中で、渦中の人々の努力が報われることは少ない。保証を条件とされても、その対象が単なる物品ではなく、様々な点が異なる人間であり、その成長を確約することが難しいからだろう。更に、肝心の対象となる人々は、こんな環境で積極性を見せること無く、他力本願の姿勢を貫くのみなのだ。
 何度も指摘したように、安定社会では傾向と対策が整備され、確かな道筋を歩むことが、成果を産み出すと信じられている。だが、型にはめられた人材は、一定の業務を行うのに有用だとしても、少しの変化を乗り越えることさえできない。型通りの業務は、基礎を為す存在だから、それを遂行する人材の育成は、社会を支える上で欠くことのできないものだが、一方で、様々な変化に対応する為の準備を怠るわけにはいかない。その為には、決まりきった順序を守るだけでなく、時に、変更を余儀なくされた際にも、何らかの対応策を講じられる人材も、ある程度の数を確保する必要が出てくる。だが、始めに書いたような傾向と対策のみに特化した人材では、その能力の欠如が明らかであり、異なる環境を経験させることで、別の能力を育成する必要が出てくる。本来、高等教育は、その為の場を提供して来たのだが、最近のように、選ばれても居ない人間が、数多く存在するような場に変貌すると、そんな社会の要請に応えることが難しくなっている。競争による圧迫に耐えきれず、失敗を極端に恐れる若者たちに、通常とは異なる環境を経験させることは、余りにも危険が伴うとして、回避する傾向が高まるのも、こんな社会事情ではやむを得ないことなのかも知れない。この問題を解決する為の方策が、これ程までに待望されている時代も珍しいが、環境だけに責任を負わせるのもどうかと思う。選ばれし者たちが居た時代には、限られた数にしか機会が与えられず、自然と積極性が芽生えたと言う。そろそろ、そんな素質を持つ人々だけを、相手にしなければならないのではないか。

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12月3日(月)−誤報

 ソーシャルネットワーキングサービス、SNSと称される仕組みのことだが、御多分に漏れず、国内で築かれたものを遥かに上回る勢いで、外からやって来た仕組みが拡散することとなった。特に携帯電話の発達との絡みが大きく、ネットへの接続を容易にしたことが、その拡大に多大な貢献を果たしたのではないか。
 既に、様々な場面で取り上げられているように、この仕組みの有用性に注目が集まったのは、あの大震災の後だろう。停電に代表されるように、ライフラインが断たれた時、人々は不安に駆られるだけでなく、情報不足に悩まされることとなる。電話自体は、いつも通りに使用不能に陥ったのに対し、SNSはある程度の情報交換が生き残り、その有り難さを感じた人も多いと聞く。その場では、情報を手に入れられる喜びに浸ったようだが、後日、その中身を検証してみると、玉石混淆というより、塵ばかりのガセ情報の氾濫に、改めて驚かされるが、無制限の流通には、こんな欠陥が目立つのは当然のことだろう。それでも、素早い情報交換を手に入れられた喜びは、呟きの数に如実に現れ、その後も機会がある度に、爆発的な発言が集中し、その威力に驚かされる。だが、素早い反応には、冷静な判断や熟慮が反映されることは無く、気楽と言えば聞こえが良いかも知れないが、現実には、軽卒で無配慮な発言が目立つこととなる。怒りに任せた発言では、その傾向が当然強まるが、感動を表す発言についても、思慮の無さが現れるから興味深い。新しい癌治療の施設を紹介する番組の後、感動の発言が続いたが、感激の一方で、内容の吟味を怠る傾向が目立ったのは、集団心理の現れだろうか。番組の中身も、多くの事実誤認を含むもので、おそらく、例の如くの編集方針の優先の現れだろう。これでは、SNSの問題点を指摘するだけでなく、マスメディアの劣化を指摘せねばいけない状況にあると思う。

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