パンチの独り言

(2012年12月10日〜12月16日)
(端緒、宿命、非論理、勝手、脱出、真犯人、夢中)



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12月16日(日)−夢中

 夢を描かせ、その実現に向けた支援を整備する。意欲を伸ばす為の方策として、専らもて囃されて来たものだが、最近はその勢いも衰えているようだ。夢を実現したとしても、現実を目の当たりにした途端に、落胆に沈んだり、意欲を無くした結果、それを続けることが難しくなる。不思議なのは、そんな窮地への支援が見えないことだ。
 上り調子の時の後押しは有り難く映るが、下り坂に入った時に後ろから押されては、かならぬものだろう。だが、夢を追い続け、それを実現した後で、落胆を表に出した時に、多くの人は自分で描いたものなのだから、と突き放してしまう。意欲がある時には、その勢いを増すように応援してくれたものが、失った時には、夢を描いた本人の責任を上げる。一見、当然の扱いのように思われているが、その実、窮地に追い込まれた人間にとっては、ある意味の裏切りのように映る仕打ちだろう。明るい笑顔を見せていれば、安心した雰囲気に溢れるが、暗さに沈んだ途端に、潮が引くように人々の目が逸らされる。そんな時に、夢に破れた人々は、どうしたらいいのかと戸惑いを見せるが、手を伸べる人の姿は無い。悩みが頂点に達し、常軌を逸した行動が見られて、初めて支援の手が差し伸べられるが、それは精神や心の病いを癒す為のものでしか無く、夢の実現とそこでの悩みに対するものではない。上り坂に比べ、下り坂は手間がかかる、と言わんばかりの対応に、首を傾げたくなるが、確かに、本人の意欲が減退する中で、どんな支援が功を奏するのか、答えは見出し難いものだろう。多くは、徒労に終わり、無駄な回り道に思えるからだが、失敗を繰り返すことで、糸口を見出すのは、夢の実現の最中でも、同じことだったのではないか。唯一の違いは意欲の有無であり、当人たちの心の勢いにある。それが失われたからこそ必要となる支援は、どういう訳か、隅っこに追いやられたままにされている。停滞や閉塞が取沙汰される時代だからこそ、そんなことに目を向け直す必要がある。

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12月15日(土)−真犯人

 人間の質の低下は、反対する声が上がらないほど、著しくなっている。そちらに関しては、同意が得られるものの、では、原因は何処にあるのか、という問題については、答えが示されることは無い。その代わりに、問題点を列挙し、そんな人間になってはいけないと連呼する。そんな識者が巷に溢れているようだ。
 問題を抱えた人間たちは、そんなことを指摘されても、素知らぬふりをしている。だからこそ、問題が深刻なのだ、という意見もあるようだが、どうだろうか。ここで指摘したいのは、批判の対象となっている人々ではなく、批判の声を上げている人について、である。彼らの多くは、既に役職を退き、社会の中では、所謂隠居の状態にある。重い責任を負わされた地位から、その役割を担わぬ立場になり、厳しい言葉を吐けるようになった、と言われる一方で、責任を伴わぬ発言に、戸惑いを隠せぬ反応も多くある。こうあるべきという理想像を含め、様々に課題を示す発言に、核心を突く姿勢は見られるものの、共に解決の道を模索するのではなく、ただ、厳しい意見を浴びせるのみである。本来ならば、後進の育成に精を出す時期は、遥か彼方に過ぎ去り、彼らの多くは、多忙を理由として、その任を果たさずに過ごして来た。背中を見て育て、という言葉が、その真意を伝えられること無く、ただの放置を繰り返した結果、役立たずが後ろを追いかける図が、出来上がったと言えるのではないか。それを今更のように、苦言を呈し、あるべき姿を書き並べる。こんな無責任なことは無い、と思う。だが、そんな人々を、有意義な意見を出してくれるとして、重用する社会は、何を見誤っているのか。下らないことのように思う人も居るだろうが、実は、かなり昔から、こんな人々が暗躍して、自らの立場を有利にするように、下で動く人間たちを操って来たのではないか。それに気付かず、まるで正しい道を照らしてくれるように、敬って来た結果が、質の低下となった。としたら、原因は何処にあるのか、明確ではないか。そんな言葉を押し頂くのも、止めにしたら良い。

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12月14日(金)−脱出

 詐欺師の常套句は「確実」だろう。不確実な時代の中で、何か確かなものを提供すれば、それに飛びつく人の数は爆発的に増す。たとえ、それが尋常な範囲を超えたものであっても、「確実」という言葉を付けさえすれば、何処にも通用するものとなるのは驚きだ。見せかけばかりに目を奪われるからだろう。
 吟味の力を鍛えねばならない、と教育現場は真剣に考え始めたらしい。不信感を露にする一方で、鵜呑みを繰り返す、所謂騙され易い人々には、目の前に出されたものを、自分なりに分析する力も気持ちさえも無いようだ。その代わりに、誰かの評論を心待ちにし、世間の評判という実体の無いものへと、依存性を高めて行く。ビッグデータなるものへの期待も、分析を待つ心の現れであり、自らの分析と判断の権利を放棄した結果ではないか。このままでは、国という存在さえ危うくなるとの考えは、それを阻止すべく新たな方策を講じ始めている。と言っても、中身は何とも情けないものに見えるから、困ったものと映る。例えば、ノートの取り方を教えたり、学校の施設の使い方を教えたり、当然と思えるものだったり、人それぞれと思えるものまでも、定型を教え込む姿勢が見られる。教わることに終始する人々が大多数を占めるだけに、こんな基本から始めねばならないのだろうが、それにしても、そこから何処まで行けるのだろうかと、心配する声が聞こえてくる。自力で何とかするのが当然だった時代とは違い、他力に縋るのが当然となる中では、たとえ一時的とは言え、こんな道筋を辿るしか手立ては無いように見える。その段階を経て、目の前のものを吟味し、正誤を峻別し、自らの考えを構築するだけの地力をつける。長い道程に違いないが、現状を眺めると、これだけの後退が露呈したからには、それを取り戻す為の手間は、大きいものに違いない。その中で、ついてこられない人間たちには、堕ちて行ってもらうしか無いのだ。

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12月13日(木)−勝手

 人気取りの戦いは、競争と言うより、狂騒と言いたくなるほど、盛り上がっている。と言いたい所なのかも知れないが、マスメディアの力の入れようの割に、肝心の票を握る人々には、強い意欲は見られず、いつも通りの空振りに終わりそうな気配だ。この責任は双方にあり、互いに自分のことしか考えないからなのだろう。
 それにしても、群集心理を操るのは容易いこと、と豪語した人々が居た時代とは異なり、今や、そっぽを向く人々の関心を誘うことの難しさばかりに、話題が集中する。それは、何千万も居る人々それぞれに、魅力的な提案を示すことの難しさを表しており、個人主義の台頭が、こんな形で現れた結果なのだが、国全体のことを考える場でさえ、一人の利益を思わねばならないとは、無理難題の極みと言える。他方の責任を思えば、全体の利益に目を向けず、自分の利益だけを追求することに、この国で暮らす意味は無く、何処かへ行ってしまえば良いという意見は、当然のものとなる。利益という得に関しては、理解を進めることの難しさが露呈する一方で、損の方は、いとも容易く理解されるようで、何とも恐ろしい。先週取り上げた書籍の欠陥が、こんな所にも現れていると実感するのは、「可能性」という言葉の使い方とそれに対する心理の問題に触れた時である。彼の著者は、結果が見えた後でこの言葉の不誠実さを糾弾したが、事が起こりつつある中で、確認ができていなければ、「可能性」と述べることに何ら誤りは無く、不誠実と断定すること自体に、論理の破綻がある。危険性を表すものだから、可能性があると述べることに間違いは無いからだ。同じ言葉が、正反対の反応を招くと見えるのは、同じような施設が活断層の上にあるかどうかが、最重要課題とされた調査の中にあり、ここでも「可能性」があると論じられた。だが、ここでの反応は、それなら廃炉だという断定であり、どんな心理が働くのかと、不思議に思えてならない。こっちとあっちで、使い勝手が違うということか。

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12月12日(水)−非論理

 二大政党という考えは、海の向こうでもて囃されていたことから、真似ることが好きな国が導入を図ったとの解釈がある。だが、その際に、二極が何故必要なのか、という議論は全く無かった。海の向こうでは、富裕層と高学歴から好まれるものと貧困層と低学歴から好まれるものに分かれ、競い合っていたようだ。
 そんな事情に目を向けること無く、ただ分かり易さだけに目を奪われ、それを第一とする動きが起こった。その結果は、その後の展開を見返せば、誰にも判るものとなった。余りにも明確な失敗だっただけに、皆そのことに触れようともせず、何事も無かったかのような行動に徹する。如何に馬鹿げた試みだったかを、検討する必要も無い話だが、何故そんなものに惹かれたのか、反省の兆しは見えてこない。分かり易さ、という点から、ハイイイエの世界へと導くのは、当然の手法だが、その際に、魅力を強調する為として、餌のバラマキを多用したのが、原因であることは確かだが、それを依然として繰り返す姿には、反省も熟慮も無い。だが、何故、こんな手法にしがみつくのかは、示されてこない。見方を変えればすぐに判るように、魅力に引き摺られる欲望の塊の持ち主たちが、白黒はっきりした利害に態度を明らかにすることが、この失敗の原因なのだ。品格などといった言葉が多用されるのも、この欠陥を指摘したいからなのだろうが、どうも当人たちにその真意が伝わっているとは思えない。論理と感情の話に代表されるように、感情が先に立つ人情に、付け入る人々が居る時代に、論理を通す努力が必要となっている。それも、今巷で通用している中途半端で身勝手な論理ではなく、十分に練られ、誰もが共感できる論理を構築する力が、必要となっているのだ。その為に捨てねばならぬものは多々あるが、その過程を経てこそ、何が大切であり、何を選ぶかを見極める力が身に付くのではないか。

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12月11日(火)−宿命

 理解という行為の中で、騙されることが起きるのは、ある意味仕方の無いことだろう。判りやすい説明の多くは、誤った理解を招くものであり、その場では飲み込めても、後から疑問が湧くものが多い。説明の中身が正しくとも、それを受け取る側が論理の飛躍に気付かず、すんなりと受け入れてしまうからなのだろう。
 理解の過程で、論理を重視するものと、感覚を重視するものに、区別する人が居るけれど、人間の頭が行うことという点では、何の違いも無い筈ではないか。ところが、論理が重視されたものは検証が容易であるのに対し、感覚の方は何故理解できたのかを確かめる術が見つからないことが多い。その為、批判の的には後者がなることが多いように思えるけれど、実際にはそうでもないようだ。論理を使った説明では、断定的な段階まで進めることができず、様々な可能性を示すことで、文字通り理詰めの説明を施し、最も確実性の高いものを残す手法をとる。一方、感覚に頼るものは、その多くが断定的な表現を用い、ほぼ確実なものとして印象に残る。この違いが、批判の場では全く違った反応を呼び、本来ならば、理詰めである筈のものの方が、弱点をさらすこととなる。何とも理不尽な反応だが、これこそが人間の心理の不思議な部分であり、確実なものを勝手な感情で排除するものとなる。理詰めであれば、時と場合によらずに、同じ判断が可能となるが、感覚に頼るものは、その時の心理状態により、正反対の判断に辿り着くことになりかねない。それほど危ういものに関わらず、人々がそれに頼るのは何故か、ここに大いなる疑問が残る。感情が先に立つものであれば、冷静な判断が入り込む余地は無く、あらゆる可能性を検証する機会は奪われる。それが通用する時代ほど、危険性が高いものであったことは、歴史から明らかに思えるが、それを振り返って自分の生き方を考える人は殆ど居ない。これこそが、人間の性なのかも知れないが。

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12月10日(月)−端緒

 知らないことに出合った時、昔は、読むべき本を探したのではないか。便利な社会は、今と同じ画面上で、窓枠に言葉を書き込むだけで、用が足りると言われる。それが理由とは思わないが、最近の傾向に、知らないことは判らないという不思議な心情の台頭がある。知ろうとする意欲が、便利さの反面で減退し続けているのだ。
 情報はこれを使えば簡単に集められる、とか、これだけで事が足りるとか、そんな表現が頻繁に使われた時、昔気質の人々は、名状し難い違和感を抱いた。標的の中心のみを突く説明に、納得することはさほど難しくはない。元々、知らないからこそ調べるのであって、答えに行き着いたとする満足感さえあれば、それで十分といった所なのだろう。そんな感覚は、的確な解答を待ち望み、それを真似ることで、自らの地位の向上を図る。だが、基礎の上に成り立つ高度な知識において、的確な答えは氷山の一角に過ぎず、その下に巨大な基礎を隠している。それを身につけること無く、付け焼き刃的な知識をひけらかす行為は、少し前なら愚の骨頂のように蔑まれた。それが発言の主が判らぬような仕組みが構築され、独り歩きが公然と行われるようになると、主の責任は問われず、根も葉も無いものまで含んだ噂は、猛然と広がる勢いを見せ始めた。既に、人々の心に巣食う意欲の減退は、手の施しようの無い程に強まっているだけに、その改善を図る手立ては奏功しないだろう。となれば、情報の発信源にしか、頼る場は無さそうに思う。だが、肝心な所も責任放棄を繰り返し、裏取りの無い情報を垂れ流す。同じ源からの同じ話を同様に流すのなら、複数の伝達者の必要は無く、却って、確実な情報の保証を与えることとなりかねないのだから、注意が必要となる。発電所の事故の情報が、限定され、操作されていたと指摘しても、依然として同じような事が繰り返される。隧道の悲惨な事故の原因にしても、支持の問題に話題が集中するが、連鎖反応のように連続した原因に触れる記事は見当たらない。誰も気付かぬとは思えぬ話だが、どうなのか。

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