パンチの独り言

(2012年12月17日〜12月23日)
(未来へ、回避、賢愚、指標、詫び、競売、諦観)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



12月23日(日)−諦観

 言い訳を並べられ、辟易とした経験を持つ人は多いのではないか。他人に押し付けられる言い訳は、その殆どが意味を成さず、責任を投げ出す為のものに映る。だが、同じような事を自分がするとなると、はて、どう考えたらいいのだろうか。お互い様、という言葉は適さずとも、同じような事を互いに押し付けているわけだ。
 時代とか環境とか、そんな言葉で括られるように、外部要因は様々に降ってくる。全部他人のせいに、といった極端な態度は別にしても、細々とした所に、要因を鏤めて、自らの責任を回避する。確かに、そういった原因も有り得るのだろうが、その中で調整を繰り返し、解決策を探し続けるのも、方法の一つの筈だが、最近は余り流行らないらしい。誰もが他人のせいにするとして、誰がそれらの責任を一手に引き受けるのか、さっぱり解らないが、下々の者たちにとって、こういった逃げ道が用意されているのは、有り難いことなのだろう。だが、要職に就く人々が、下賎な人と同じに動いては、どうにもならないのではないか。潔くとか、毅然とした態度でとか、そんな表現が度々使われるのも、それが当てはまるものが見当たらなくなったからかも知れない。ひょっとすると、それ自体がどんな意味なのかさえ、不鮮明になりつつあるのではないか。潔さの中には、諦めの表明も含まれるだろうが、こちらに関しても、間違いとしか思えぬものが、ある世代から下に蔓延しているように思う。夢を諦めるとして、思い描いて来たものが実現できぬものとして、別の道を模索する為の諦めが、昔は良く為されて来た。それがいつの頃からか、夢は放置したままにして、自分自身を諦めるとか、できぬことを受け入れるといった諦めが、時々聞こえてくるようになった。進むべき道を探す為の諦めと、この先へ進むことを放棄する諦め、似て非なるものに映るのだが、果たしてどんなものだろうか。そんな中で、諦めずに頑張る、という言葉も、いつの間にか死語となりつつあるようだ。

* * * * * * * *

12月22日(土)−競売

 必要に迫られて初めて「競り」に参加してみた。ある鉄道会社の優待券は、所謂金券ショップで取引されているが、相場は地域によってかなり異なるようだ。正規料金に比べて割安だからこそ、利用者が多く居るのだろうが、その相場を決める基準は定かではない。それが競りとなれば、駆け引きが加わり、難しくなる。
 ネット上の場は、幾つかあるようだ。初めての人間にとって、信用とは何か、決め手が判らず戸惑いを覚える。多くのサイトは、実績と呼ばれるものを表示し、取引相手間の評価を反映させる。暫く前に話題を集めた、実体のない「競り」の場とは異なり、入札毎の手数料も、落札に対する課金も無い場では、気楽さの反面、信用の問題が影を落とす。それでも、徐々に上がる値に対し、入札を繰り返していると、時間制限に仕掛けがあることに気付かされる。現実の競りの場では、競り人が全体を調整し、機会を捉えて落札の瞬間を決めるが、機械仕掛けの世界では、そんな呼吸の入れどころは設置できない。その代わりに、新たな入札がある毎に、自動的に時間延長を施し、問い直すという仕組みが考え出されたのだろう。だが、これでは泥沼の延長戦が続き、期限が意味を成さぬこととなりかねない。さて、どうしたものかと思いつつ、そろそろ引け時と思い始めたら、5分後には落札となっていた。狐につままれたような気分のまま、取引の為の頁にいくと、また不思議な具合、送金の手立てが見つからないのだ。こちらの準備不足は否定しないが、それにしても、手慣れた人々には簡単でも、初心者には易しくない仕組み、ネット社会の常と言えばそうだろうか。結局、直接送金の方法が出品者から示され、ことなきを得たけれど、品が届くまでの心配は、それを手にするまで消えなかった。仮想空間での現実の存在は、何とも儚いものに思えるが、やっと現実社会に舞い戻り、ほっと一息となった。幸運だったのは、落札そのものだけでなく、その額にある。その後の展開を眺めても、3割ほど安い値での落札は、まさに初心者の幸運といった所か。

* * * * * * * *

12月21日(金)−詫び

 結果が出たか出ないかの時に、敗北の原因を明らかにせよ、という声が飛び交う。まるで、始めから勝負は決していたとでも言わんばかりだが、その通りだから当然だ、と言われそうだ。だが、勝負が決して初めて、悪い部分をあぶり出せという考えは、何処か違っていないか。悪い所は、もう判っていたのだろうから。
 徐々に悪化し、情勢が悪くなって行った、と振り返る向きが多いようだが、情勢自体がそうだとしても、それを食い止める手立ては無かったのか、と思う。その努力は尽くしたとでも、返答が戻ってきそうだが、次々繰り出される思いつきが、功を奏したとは思えないし、現実に、食い止めるどころか、却って悪印象を強めるだけとなった。負けた時に、それを受け入れる姿勢に、よく、潔いとの評が下されるが、そんな潔さは、負けてしまった中で何の役にも立たない。潔さを発揮する機会は、実は、ずっと前に与えられていた筈なのに、それを逃した挙げ句、あがき続けることで醜態をさらしたと言われれば、評判は地に堕ちるだけだろう。では、その機会とはどんなものであったのか。自分たちの約束が、果たせないことが明らかになった際に、それを素直に認め、別の手立てを講じるきっかけにする。たったそれだけのことに、誰も頭を下げること無く、また、自らの誤りを認めること無く、まだ何か道がある筈と、歩み続けたのが、こんな大敗を喫することとなったのだ。約束という表現を避け、意味不明な外来語を用いることで、恰もより確実な約束を提示したつもりになったのは、本人たちの勝手だろうが、果たせたか否かが、どちらの呼び名を用いようとも肝心なこととなる。それが確実になった時、あっさりと誤りを認めることに、何が障害となったのか、理解に苦しむ。更に、その誤りを認め難い雰囲気を、作り出す社会には、その責任を果たそうともしない構成員が、居座っているのだから、困ったものだ。互いに良くしようとする意欲さえあれば、寛容さも態度の一つとなりうるのに。

* * * * * * * *

12月20日(木)−指標

 統計指標を頼りに、動向を分析する、ファンダメンタルという分析手法が、一部では持て囃されている。その中では、多種多様な指標を、数学的に解析し、方向を定めることが行われ、確実な手法と認められて来た。ところが、急激な変化に対応できず、特に、暴落という事象への反応の鈍さが、問題視されている。
 儲けを出すという意味では、現行の仕組みでは値が上がろうが下がろうが、本質的には変わらないと思われる。だが、基本となるのはやはり値が上がるものであり、負の数字が適用できないものである以上、底値は零が限度となるのに対し、天井知らずの上値は大きな魅力を放っている。急激な値下がりへの対応の遅れは、唯一の弱点のように扱われたが、現実には、後付けの理由は別にして、最中の理由が見つからない上昇についても、指標が何も語らないことは明らかだろう。値動きの指標だけでなく、景況指標や業績などの統計指標も、こういった分析には重要な要素となるが、そこに何らの変化も見られないのに、大きな値動きを示す現象については、所謂心理の影響が強く出たものと説明される。こんなことが起きる度に、強く思わされるのは、心理の影響力の大きさと、その脆弱性の対比、という問題だろう。将来への期待に関して、確実な指標は存在しない。これまでの経緯を分析することで、将来を外挿しようとする試みは、何度も行われて来たのだが、同じ経過を辿ったとしても、違う結果に行き着く話は多々あり、確実なものは無いとされる。そんな中では、雰囲気と言い表される心理は、強く影響を及ぼすこととなり、何の確証もない信頼さえ、時に飛び出すこととなる。これが後に、過信と断定されるのを見ると、当時の絶対的な信頼に、何の根拠も存在しなかったことに、首を傾げたくなるものだ。だが、皆が踊り狂っている中で、戒めの言葉が力を示すことは少なく、時に、狂気にも似た攻撃の的になることを考えると、やはり、嵐が過ぎ去るのを待つしか無いのかも知れない。今の状態は、まさに心理が優勢と思えるが、踊る阿呆には、そんなことは関係ないのだろう。

* * * * * * * *

12月19日(水)−賢愚

 安物買いに走る人々が取り上げられる。如何に安く生活を送るかが肝心とばかり、賢い生活術を紹介していたが、「悪」という字を添えたくなるほどのものや、無駄と思えるものまで、様々な工夫が施されていた。そこまでして、どんな意味があるのかと、こちらが思ったとしても、あちらには生き甲斐に近いものだったのだろう。
 deflationと括られる現象が、この国を覆っている時代には、安物買いは当然の権利であり、品質の問題を抜きにして、価格の高低が基準の全てとなっている。こんな雰囲気では、馬鹿げた行動ばかりに目が集まり、賢い生き方には余り注目が集まらないらしい。賢い生き方として、当時、呆れたものの中には、金券ショップで商品券を購入し、それで最も安い品を購入し、釣り銭を受け取るというものがあり、日銭を稼ぐといった行為を毎日のように繰り返す主婦が、取り上げられていた。地道な努力と呼べるものかは定かでないが、思いつきの素晴らしさとはとても思えぬものに、呆然とした人が多かったのではないか。新聞のチラシを眺め回し、最安値の店を自転車で回るという行動も、そんな企画で良く取り上げられていたが、時間の無駄を無視できる立場に、首を傾げたものだった。収入が減り続け、将来への不安も膨らみ続ける中で、この傾向は強まるばかりに見えるが、情勢はかなり違っているのではないか。デフレが蔓延する社会では、安いのが当たり前となり、それを楽しむ雰囲気さえ起こっている。だが、それが巡り巡って、自らの収入や将来に悪影響を及ぼすとなると、気楽な買い物に耽ることがいいのかと思えてくる。安物買いの銭失いとは、別のことを戒める言葉だが、今の状態は、違う意味での格言と見てもいいのかもしれない。

* * * * * * * *

12月18日(火)−回避

 責任という言葉が飛び交っている。肝心の頃には、そんな言葉が使われることも無く、その感覚も失われていると思われていた。だが、一つの区切りを越え、改めて、その感覚が問われることとなったようだ。それにしても、矢鱈に用いられるのを、冷たい目で眺めるのは、何とも言えぬ気分にさせられている気がする。
 とるべき時期には、そんな言葉に近寄る気配もないのに、そのずっと前の結果がはっきりしないうちには、頻繁に使われるのは何故か。結局、その言葉のもつ本当の意味に目を向けず、使い勝手の良さだけで、持ち出しているだけなのだろう。この傾向は、件の町に巣食う人々に限らず、社会全体に蔓延しているようだが、その中で、自らの責任だけでなく、共同責任を引き合いに出すまでになると、警戒心が頭をもたげてくる。その勢いに巻き込まれ、押し付けられる相手となる人にとって、この経過は嫌な予感の一つに違いないが、まだ遠い存在となれば、少し距離をとることもできる。だが、一度巻き込まれた共同性は、いつまでも残るから油断はならない。一方で、この共同性には強い関わりが示せず、責任のみを押し付けられた形になることが多い。勝手に作り上げた連繋に、こんな形で関わらされる人間にとって、悲劇にしかならないが、その時点での反応が実は重要なのではないか。毅然とした態度で、巻き込まれるのを避ける手立てが使えるのは、その瞬間しか無く、もし、その機会を逃したとなれば、徹底的に関わる側に回るしかない。どちらもせずに、放置することが最終的に悲劇に繋がるとすれば、その責任は彼らにもあることとなる。何事にも、油断がならないというわけだ。

* * * * * * * *

12月17日(月)−未来へ

 一色の様子を伝える画面からは、将来を見通す勢いは伝わってこない。今だけを見つめ、今だけを楽しもうとする気持ちが、こんな結果に表れるのかと思うと、そんな人々に支えられる国が、どんな将来を手に入れられるのか、明るく輝く絵は描けそうにも無い。唯一、そんな様子を伝えたのは、参加率ということか。
 一色に染まることで、安心できると思う人々は、場当たり的な反応を繰り返し、十年近く異常な状態を維持して来た。どちらを向くのも勝手とばかり、人気投票にも似た情勢が続き、染まることを喜ぶ心情は、極端な結果として現れて来た。毎度お馴染みとなりかかっているようだが、今度も同じだったようだ。盛り上がっているのは報道側だけで、肝心の参加者の気を惹くことは、最後までできなかったようで、それは数字としてはっきり現れた。勝利に酔う人々も、敗北に沈む人々も、また、どちらにも与せず、蚊帳の外に追いやられた人々も、全てが数の問題にばかり目を奪われ、無視されたことには目を向けない。確かに、数字が高くなったとしても、極端な結果は変わらなかっただろう。それほど、全体や将来を見渡す力が失われ、今この時だけを追い求める気持ちが高まる。そうであれば、明日はどうなろうと知ったことではない。結果が出たとしても、それは今日一日だけのことで、明日には責任を持たない。そんな心情が社会全体に溢れ、それが世界共通の考えとなりつつある時代に、色に染まることは事件でもなんでもなく、当然の結果として扱われる。しかし、その結果を導き出した人々に、そこから生じる出来事全てへの責任は微塵も感じられず、再び裏切られたとしても、裏切る連中の責任とすればいい。閉塞感や不安感などと勝手な言葉を使い、こんな無責任が罷り通るのだから、お気楽な時代なのではないか。目指すべき目標も持てず、将来への展望も描けぬ人々に、選択を任せることの困難は、世界共通の課題となりつつある。そんな中で、例外でありたいと思うのは、ほんの一握りに過ぎない。

(since 2002/4/3)