パンチの独り言

(2012年12月24日〜12月30日)
(噂、誘導、抑揚、変化、膨張、手遅れ、希求)



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12月30日(日)−希求

 基礎固めの大切さは、昔から随分煩く言われて来た。にも拘らず、その手間を省きたいという欲求は留まること無く、最短距離を歩みたいとする人々に、様々な道具や工夫が施されて来た。それで何が起きたか。何も起きなかったのではないか。基礎を固めるのに安直で確実な方法は無く、地道な努力のみが効果を示す。
 一見、ごく簡単な結論のように見えるものの、留まらない欲求は、何とか隙を見つけようと躍起になり、日々の積み重ねを避ける秘技を見出そうとさせる。結局、大きな回り道を歩ませるだけの誘惑に、一時の欲望は、つい傾いてしまうけれども、後になって考えれば、大いなる無駄を反省するだけのことだろう。だが、同じく欲求と呼ばれるものが、実は、重要な役割を果たしていることに、気付かぬ人が多いのは何故か。基礎固めの必要性を感じるのは、より高い所へ上りたいという欲求があるからであり、上昇志向と呼ばれるものには、そういった気持ちの現れが不可欠となる。楽をしたいとする欲求と、上に昇りたいという欲求と、どちらを優先すべきかは、冷静に考えれば明かであるのに、何故、間違った選択を繰り返すのか。楽を優先することで、上を目指すことを忘れてしまえば、何も起きないことはこれ程明らかなのに、と思うのは、ある程度上に到達できた人々であり、そういうことを放棄した人々は、そんな思いを抱くことも無い。こんな人々が巷に溢れる今の社会は、おそらく、そんなことを感じることが当然とはならず、大切なものが何処かに忘れ去られているように見える。だが、昔は、人それぞれに違った目標を持ち、その中で、日々の努力を積み重ねて来た。画一化された社会だからこそ、こんなことが問題になっているとしたら、人と同じであることを願う欲求こそが、実は問題を作り出しているのかも知れない。

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12月29日(土)−手遅れ

 玉石混淆の情報流通、という話を書いたけれど、おそらく、一部からは、玉なんて何処にも無いぞ、という声が上がったのではないか。塵ばかりの情報を、実しやかに流す連中こそが、信用失墜の元凶であるとの指摘があるのは、まさにその通りなのだろうが、最大の問題は、受け手の側にあると指摘したつもりだ。
 それぞれの感性による違いなぞ、全く意味を成さないとばかり、大袈裟な取り上げ方をした結果、騙されたと訴える人々が出てくる。それが日常茶飯事となれば、誰もが騙されないぞと肩いからせて、斜に構えてくる。しかし、騙され易い人々は、また違う人を信用して、同じことを繰り返すのだから、不思議なものだ。結局、真偽を吟味する力も無く、興味を惹かれたものに飛びつく習性は、そう簡単に消えないものらしい。それを御す為に必要となる知識も、身につける術を持たず、何が必要となるかを考える暇も無く、日々の生活に追われていると信じ込んでいては、力を身につけることなど、永遠に達成できない夢としかならない。何が必要なのかは、明白なものとこちらには映るが、当人たちにはその意識さえ芽生えない。そんな感覚の鈍さが、全ての始まりと言われたとしても、本人は、どこ吹く風と、本質を突く指摘を無視する。もし、それが元凶であるならば、何とかに付ける薬は無いとばかり、諦めるしか無いのではないか。そんな世の中だからこそ、劣悪と評される情報源が、我が物顔で闊歩することとなる。誰が悪いのかは、そんな筋道を立てれば、自ずと明らかになる。もし、まだ心配だと思う人が居たら、まずは自分のことを眺めなおして、何が必要かを考えてみれば良い。まだ間に合う人も居るだろうから。

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12月28日(金)−膨張

 様々な事柄に、様々な意見が飛び交う。あの震災と事故以来、そんなことが繰り返され、当然のことと受け取られて来た。だが、その中身を吟味し、議論そのものを評価する動きは、さほど盛んではない。玉石混淆などと評されても、何が玉であり、何が石なのか、さっぱり解らず、中には、石を後生大事に抱える人も。
 起きた事実が歪められ、すり替えられるのを、何度も見せつけられると、何故と思う気持ちは強くなるばかりである。そんな心持ちで、こんな遣り取りを眺める人は、本当に沢山居るのだと思うけれど、その人々は、無言の多数と評されることが多い。それに対し、明らかな間違いや思惑に満ちた意見を、有り難く受け取り、それを繰り返し流す人々は、声の大きさからすれば、かなりのものとなるけれど、実はその数はほんの一握りでしかない。情報がしっかりと管理されていた時代には、こんなことは起きる筈も無く、誰もが信じる価値のあるものに接するだけだった。ところが、ある時期からこの様相に大きな変化が起き始めた。情報は管理不能に陥り、それぞれの価値が吟味されること無く、垂れ流しが繰り返されて来た。その状況を更に悪化させたのは、増殖を繰り返させる仕組みの導入であり、情報の真偽を確認すること無く、その量が爆発的に増えることとなった。特に、ここでも無言の多数という形の、良識は小さくなるばかりとなり、嘘や間違いばかりが、興味を惹く対象として、人々の注目を集め、その量は膨れ続けて来た。そんな時代には、吟味をする力こそが、生きる術として注目されるべきであるにも関わらず、そんな時間も暇も無くした愚民たちが、仮想社会を闊歩することとなる。そろそろ気付くべき時が来ているが、まだその気配は見えない。どうなることか。

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12月27日(木)−変化

 為替の変動に一喜一憂する姿に、この国の置かれた立場が理解できるとの話は、随分長い間流されて来たものだが、この話が始まった頃に比べて、今は環境がかなり異なっているのではないか、と指摘されている。輸出に頼る体質は変わっていないが、生産の拠点は時代の変遷とともに移り変わり、為替の影響も姿を変えたようだ。
 一部の業界では、依然として輸出が主流であり、為替変動が収益に影を落とすと言われる。しかし、その一方で、現地生産が中心となり、雇用も含めて、売り場となる国への関与が強まり、企業が属する国との繋がりは弱くなるばかり、といった業界も目立ち始めた。海の向こうの変遷との大きな違いは、あちらが移転のきっかけとしたものが、人件費の削減を目的とし、消費の場を自国のままに維持したのに対し、現在のこちらの企業の多くが、生産拠点を販売地に近い所に置く戦略を用いていることで、雇用の喪失という現象においても、違った様相を呈していることにある。ただ、そうは言っても、経済の停滞といった状況については、結果として、海の向こうが経験したものと殆ど変わらないように見え、厳しいことには変わりがない。国際化という言葉に関しても、現実には、多様な解釈があるようで、試行錯誤は続いている。何が答えとなるかが判らない中で、失敗を繰り返すのはやむを得ないこと、と寛容に構える気配は無く、批判の声が大きくなるばかりだが、暫くは、様子を眺めることが必要かと思う。何しろ、張りぼてに終わるか、鍍金がはがれるか、確実な未来像が現れるか、誰にも判らぬことだろうから。

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12月26日(水)−抑揚

 倶楽部と聞いて、どんな読み方をするのか、世代の違いが現れると言われる。初めて、若者たちの話を聞いた時の驚きは、ずっと昔のこととなり、思い出せなくなりつつある。外来語であった時代に、成る可く原語に近い形で、との意識が伴われていたのと違い、自己主張の現れなどと表現された発音には、首を傾げたくなる。
 外から来た言葉が市民権を得て、自分たちの言葉になったのだ、とする話も、確かにその通りなのかも知れないが、どうも解せない部分が残る。時間をかけての変化なら、そんな筋書きも可能となるのだろうが、最近の傾向は、こんな解釈が通用しないものに見える。どのみち、その言葉を母語とする人々のようには話せないのだから、自分たちのやり方で押し切ろう、とも思えるやり方に、違和感を覚える人の多くは、正確に話せずとも、努力を積み重ねることで、通じるようになる喜びを経験して来た。それとは正反対の状況に、頑に自分たちのやり方を通そうとする、意志の強さを評価することも必要だろうが、それにしても、原語の本来の意義を、無視するような動きには同意できない。国際化などと叫ばれた時代を経て、ごく自然に交わることが可能となる中で、夢の道具の一つと考えられた、翻訳機器が既に手に入ったとする広告に、驚きを隠せぬまま、使ってみたいと思った人が多いのだろう。そうなれば、自分が無理矢理話そうとする必要も無く、自分を押し通せる環境が整えられる。従来のものが、原語の発音を強いられるのに対し、LINEと称された仕組みは、例の如くの不思議なアクセントをもつ、田舎言葉のような響きがある。それをカッコいいとする感性は、理解の範囲を超えているが、これが流行の先端とする向きには、頭にアクセントではなく、二音目に置くのだそうな。田舎者と揶揄された話し言葉に、世の中は何の違和感も抱かないとのこと。時代遅れとは、こんな感覚だろうか。

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12月25日(火)−誘導

 議論を進める為に、重要となるのは資料だろう。数値が並ぶものに圧倒されたり、整理されていない図表に辟易としたり、そんなことを繰り返しながら、要点を抽出し、そこから結論を導く。手慣れた人から見れば当然のことが、不慣れな連中にとっては、まるで邪魔が入ったかの如く、苛立ちの原因となるようだ。
 それにしても、議論を正しい方向に導く為には、中立的立場で作られたものが必須であり、思惑や目論見が隠された形で、定められた方向に導くものが、飛び交うのは何故かと思う。一方で、その採用において、偏りを見抜けず、各所に鏤められた作為に、気付かぬ人が多いのも、大きな問題となっている。特に、自分に有利に運ぶようにとする人が、表においても、裏においても、活躍するようになってから、こんな傾向が目立つようになった。議論を導く役割は、迷走したり、混迷が極まる事態を避ける為にも重要であり、ある程度の活躍は必要と見なせる。しかし、度を過ごした形での関わりは、過ちを招くだけとなるから、適切な形での制御も必要となる。鵜呑みにしたり、視野を狭める行動は、彼らにとって、最も扱い易い対象となり、議論の場は単なる儀礼的なものになる。最近も、そんなものの一例とも思える議論が盛り上がっているが、これもまた、勝手な論理に満ち溢れた、無理筋の議論と思える。発電様式の選択は、あの事故以来、最大の関心事となっているが、その多くは、軽薄な根拠と偏見に満ちた分析に基づき、感情的な面ばかりに注目が集まっている。経費に関しても、ある様式の隠された予算の大きさに目を集めさせ、他の様式の試算において、同様のことが行われたことに、全く気付かぬ眼力には、呆れるばかりとなるし、廃炉に向けた経費と名付けられた、非常に特殊と扱われたものも、他との比較をさせぬ為の手立てに見え、誤摩化しは依然として続けられており、同じ穴の狢を見る思いのみとなる。所詮、その程度の連中の大義名分に、どれほどの重みがあるのか疑わしいが、この盛り上がりには、洞察力を失った人々の活躍が一番の力となっているようだ。

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12月24日(月)−噂

 景気が悪いのか、それとも好いのか、見る所で大きく違うのかも知れない。昔から、ブラジルとの繋がりの言葉で呼ばれたと言われる街を歩くと、歩行者天国を行く人の数に驚かされる。寒空にも関わらず、元気な人々は明るい顔で、年の瀬迫る街を楽しんでいるようだ。有名商店が並ぶ中で、景気の悪さは見えてこない。
 だが、紙面や画面から伝えられる話の多くは、正反対の状況を伝える。将来への不安が膨らみ続ける中で、日々の生活にまで不安が広がると伝えられるが、事実かどうかは定かでない。そこで紹介される人々に関して、それが当てはまらないとは言わないが、目を転じて、自分の周りを眺めてみると、何処かが大きく違っているように思える。将来は定かでないだけに、様々な憶測を飛ばすこともできるが、今この時の話題に関しては、自らの経験に基づく話には、実感が伴うだけに違和感が強まるのだろう。編集方針に従い、偏った内容を強調する為の材料を、殊更に取り上げる姿勢は、最近、特に厳しく糾弾されているが、依然として、それを崩さぬ頑さが染み付いているように思える。明るい未来を目指し、日々の生活に努めることは、さほど難しくないように見えるけれど、これ程の逆風が吹く中では、さて、どうしたものかと思えてくる。雑音に惑わされず、自分を信じて送れば、明るくなる筈の生活も、これでもかといった調子で、てんこ盛りの悲劇的な筋書きを押し付けられては、抗いきれないのも止むなし、といった人が出てくるのも当然か。しかし、そんな時代だからこそ、余計な話に耳を貸さず、自信を持って生きることが必要なのではないか。

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