パンチの独り言

(2012年12月31日〜2013年1月6日)
(目算、地味、日常、厭世、回避、転換期、茫洋)



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1月6日(日)−茫洋

 此処を読みにくる人は少ない。ブログとは違うし、何処かの流れに沿っているわけでもない。何かで取り上げられれば、また様相は違ってくるのかも知れないが、そんなことは起こり得ないから、余り気にすることも無い。だが、その少ない人と、偶に検索で誘われた人々が、読んでみて、はて、と思うことが多いのではないか。
 始めの頃は、成る可く直接的な表現を心掛け、対象がすぐに掴めるようにして来た。しかし、主張を明確にすることは、確かに分かり易くはなるのだろうが、読み手に何かを考えてもらいたい、という思いは伝わらない。成る程、と思うだけで終わり、その先の展開が起こらないのは、何とも言えぬ、不満のようなものが残るからだ。確かに、現代社会では、分かり易さが第一と言われている。しかし、その為か、物事を自分なりに考えてみようとする人の数は、ぐっと少なくなっているのではないか。人の意見の請け売りに勤しむ人々、他人の意見を心待ちにする人々、そんな人々に自主性は無く、他人との違いを際立たせようとする気持ちは、表に現れてこない。間違いを殊更に恐れる傾向も、こういった時代には当然のものと扱われ、流行病の如く広がる。一体、何がしたいのか、と改めて問い質してはみたものの、芳しい答えが戻ってくることは無く、不安げな視線は、ウロウロと一点に留まることは無い。発電様式の話題にしても、経済の話にしても、税金の話に関しても、何を引き合いに出しても、反応はほぼ全て決まっている。誰かの意見がそのままに繰り返されるのだ。それぞれを吟味することも無く、論理の破綻を探す努力もせず、ただ、右から左へと渡してくる。こんな能力の無さは、本人の資質によるものとの解釈も可能だが、もし、そうだったのなら、この世界は既にお先真っ暗の状態にあると言える。まだ、何かある筈と思うからこそ、そのきっかけを、という思いが過るのだが、まあ、この数では当たることも少ないのだろうし、広がりは望むべくもない。

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1月5日(土)−転換期

 吹き荒れた嵐は何処に行ったのか。と思いたくなる程の変化に、票を投じた人々はどんな思いを抱くのだろうか。たった一つの争点のように掲げられたものが、いつの間にか、経済中心の考えに圧倒され、何処かに忘れ去られたようになる。当人たちは、依然として主張しているようだが、声の大きさは萎んでしまったらしい。
 それにしても、選んで欲しい人間が、何とかの一つ覚えの如く、呪文のように唱える姿に、危機感を覚えないのは、双方共に異様さが満ち溢れていたからだろうが、喉元過ぎればとの喩えの如く、何かに取り憑かれたような言動は、すっかり何処かへ消え去ったようだ。何故、こんな程度の考えで、大きな声を出すのかと思うけれど、おそらく、声の主たちは、今は単に声を顰めているだけで、主張は何の変化も受けていないというのだろう。だが、本質が正当ならば、こんなに急激な変化はあり得そうにも無い。結局の所、お互いの利益に対する考え方次第で、主張が正反対に転じることなど、こういう世の中では当然のことなのではないか。危険なものとの考えは、明らかな間違いとは言わないまでも、これほどまでに危険に満ちた時代には、その軽重を比較する必要が出てくる。そんなに当たり前と思えることさえ、眼前の恐怖から逃れたい一心の人々には見極められず、拒絶の一手しか思いつかないらしい。不安という言葉で表現される、一種狂気じみた行動に関しても、少し落ち着きを取り戻せば、随分と様子は変わってきそうに思えるが、今のところ、余り期待しない方が良いようだ。偏った考えに対する批判は、これから徐々に出てくると思われるが、何しろ狂った考えが主体となるだけに、扱いは難しい。権力の移行が、こんな所でどんな影響を及ぼすのか、すぐには見えて来ないとは言え、まずは見守るしか無いのだろう。

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1月4日(金)−回避

 言われたら気になることは多い。だが、気になり過ぎて、失敗をすることになったら、それは言った人間の責任ではなく、言われた人間のものとなる。あんなことを言われなかったら、と恨んでみたとしても、何も変わらないのは、そういう立場に追い込まれた時に、初めて判ることなのだから、中々に難しいのだろうが。
 失敗した時に、その原因を求めるのは、人間の性なのかもしれない。だが、その多くが、自らの中にある原因よりも、外にそれを追い求めようとするのは、兎に角、責任を免れたいという思いがあるからだろう。しかし、どんな忠告を受けたとしても、それを承知した上で、どんな行動をとるべきかは、本人に任されたことである。天井が落ちてきた隧道で、新たな措置がとられた上での復旧がなされた途端、それまでとは異なる傾向を持つ事故が度々起きたのは、確かに、気になるものへの注意が、他への散漫を招いたことに原因がありそうに思えるが、それによって責任が無くなるのでは、免許の意味が無くなりそうだ。気になるものを見つめながらの運転は、特段、こういう場合に見られる行動様式ではなく、日頃からそういったことを繰り返してきた結果ではないか。当人たちは、特殊な環境下での突発的事故と結論づけたいのかもしれないが、そんなものは、日頃から経験している種々雑多な場面からすれば、予想がつくだけに、大したものでは無いように思う。確かに、ああいったことが起きれば、同じような環境の場所を通過するだけで、ヒヤヒヤする思いを経験することだろう。気にするなとは言わないが、危ない運転が更に悪化するようなら、始めから試さぬのが肝心ではないか。まあ、そんなことができない事情もあるのだろうけど。

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1月3日(木)−厭世

 三日坊主という言葉を聞くことは、最近は少なくなったような気がする。だが、飽きっぽい性格は何処かへ消えたのではなく、好き嫌いがよりはっきりすることで、嫌いなものに触れずに済むようになったようだ。無理にやらねば、飽きることも無く、好きなことだけをやり続ければ良いとなる。何日も続くのが当然か。
 暫く昔には、好きも嫌いも無く、様々なことを強いられるのが常だった。嫌々やる中で、意味を見出して続けられるのは別として、多くのことは、意味も判らず、面白味も湧かず、そのまま徐々に離れて行くこととなる。これが三日も持たない話を作り上げるのだろうが、本当はもう少し長続きしていたのではないか。それでも、いつの間にやら放り出すことになるのには、変わりがない。では、今の時代は、どう変化して来たのだろう。嫌いなものを受け付けず、好きなものだけを、という思いだけを捉えれば、飽きることなど有り得ないのだが、事はそう簡単には運べない。嫌いなものを続けた昔とは反対に、好きなものにも目移りするわけで、飽きることは多々ある。一方、長く続ける忍耐が強まったと見るのは、的外れのように思える。どちらかと言えば、続ける気持ちの強さより、離れられない一種の強制力に、強いられている部分が大きいのではないか。周囲の声を気にする人々が、噂話を盗み聞きする気分と似て、自分が書いたブログへの反響や、ツイッターでの話の流れから、目を離せなくなる。誰が読むのか判らぬままに、本音に似た部分をさらすのは、危ない行為の一つに思えるが、その爽快さから離れられず、思ってもいないことまで書き放つこととなる。自ら招いた危機を、楽しむのは始めから無理であり、それに耐えられぬ状態に陥ることさえある。継続は力なりと言われたのは昔、こんな継続は足枷のようなものであり、精神の崩壊を招きかねない。寝る時間を惜しんで掲示板に入れ込むなど、まあ、さっさと止めておけば良いことだ。

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1月2日(水)−日常

 伝統が失われて行くことを、心配する人々が居る。その一方で、自らの欲望を満たすことが第一で、上から押し付けられたものを嫌う人々が居る。ただ、この手の人々が、周囲のことを見ないわけではなく、流行を追いかけたり、評判に振り回されたりする。周囲の声を気にしつつ、好きな生き方を貫きたいのか。
 毎日の食べ物でも、評判に振り回される傾向が出ている。それが如実に現れているのが、広告の効果だろう。人気投票のようなもので上位に来るのは、日頃から目にするものが多く、多数が多数を呼び込む傾向が現れている。これが、広告主によるものである場合も多いが、最近は、評判と呼ばれるものの力が強まっている。そんな中では、古臭いと見られる伝統は、何処かに追いやられてしまい、目に触れる場に上がってくることは少ない。一度落ち始めると、這い上がる機会が少なくなるのは、現代社会の傾向だろう。少数派に属するものが、多数派に移ることは難しく、如何にして、そのきっかけを掴むかが、肝心となる。外的な要因としては、誰かが取り上げれば良いのだろうが、そんなものが必要になるのは、伝統としては、何か違っているような気がしてくる。三が日には、殆どの店が閉まり、外食が難しかった時代には、お節料理なるものが家庭内に居座り、活躍していた。お客様という表現が、度々聞かれるようになった頃から、こんな時期にも、客の立場でありさえすれば、何でもかなえられるようになった。正月という伝統は、様々な形で変化を受けている。お節にも、そんな風が吹き込み、自家製は少なくなるばかりで、一流料亭や百貨店で作られたものが並ぶことも、バブル後には激減し、結局、日頃から通う外食店へ足が向く。こんな所でも、伝統は蹴り飛ばされ、日常が居座ることとなる。

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2013年1月1日(火)−地味

 いつも通りに年が明け、変わりなく時間が流れて行く。時の流れにとって、人間が勝手に作った規則など、従う必要の無いものであり、無関係に進むことが当然となる。だが、愚かな人間共は、自らの力を過信し、全てが意のままに動かせるなどと思うのだろう。そういえば、ついこの間も、新しい暦と言っていた。
 興味深いのは、それがこの世の終末と勝手な解釈をする人々が出てくることで、更に面白いのは、そんな勝手な人々の戯れ言に惑わされる人までもが、出る始末にある。人間の愚かさは、こんな所にはっきりと現れるものと、昔の人は言っていたが、今や、そんな警句が出されることも無く、ただ、垂れ流しが続けられる。自らの用心が第一と、何度も書いて来たものの、一部の識者に言わせれば、愚民たちにそれを期待するのは無理となる。だから、賢者がこの世を正しい道に向かわせる為に、様々な努力を積み重ねる必要があるのだそうな。だが、誰の言葉に耳を貸すかは、あの人々たちにその選択が委ねられている。不安や不満に耳を貸すばかりの人にとっては、誰が賢者なのか、区別がつく筈も無いのではないか。さて、新たな時代に臨み、人は何を考えるべきか、それとも、そんなこととは無関係に、快楽を追い求め、不安を解消してくれる切り札の登場を待ち望むのか。いずれにしても、自分の生活は自分で守るしか無く、自分の権利もそれと同じである。他人任せにせざるを得ないものを除けば、自分が常に幾ばくかの関わりを持つものばかりとなる。だからこそ、精々、自分のこととして、様々なものに接し、分相応な生活が楽しめるように、日々の努力を重ねて行けばいいのではないか。

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2012年12月31日(月)−目算

 今年も色々とあったが、多分最後の変化が一番大きなものとして取り上げられるだろう。だが、何の変化も無いとの指摘もあり、期待だけが膨らんだ結果、その反動が拡大する可能性も大きい。好転しないままより、期待が膨らみ、一時の上昇が起きた為に、逆にその後の落ち込みが大きくなり、却って悪化となるのだ。
 いずれにしても、自分たちにとっては、何の影響も無いと思っている人も多く、参加者の数はお祭り騒ぎが続いた時代とは異なり、低調に終わった。にも拘らず、重要な選択との前宣伝をした人々は、予想通りの結果に、後祭りならぬ、祭りの後の騒ぎを盛り上げ続けている。最近の傾向が、こんな所にも現れていると思えるのは、勢いの話ばかりに注目し、それぞれの主張の中身には言及しないことで、結局は何が肝心だったのかが、全く見えてこないことではないか。その後の経過を振り返っても、問題点は明らかにされず、期待感の高まりばかりに目が集まる。将来の話には、常に可能性の問題が関わる筈なのに、いつの間にか、確実な話のように扱うのは、今の世の常なのだろうか。迷走とはコロコロ変わることを表す言葉だが、一定の調子で修正を重ね、方向さえ定まっていれば良いとの解釈が、こんな所で出てくるのではないだろうか。毅然とした態度を貫くのも、最初の失敗の頃の画像を流せば、同じ事が起きていたことがすぐに判る。だが、当人とその取り巻きたちには、そんな悪夢の記憶なぞ、何処にも残っていないのだろう。この手の記憶喪失も、最近の傾向として取沙汰されるものであり、そろそろ聞き飽きて来た感じさえする。まあ、そうは言っても、こちらも物忘れが酷くなりつつあるから、詳しくは思い出せない気がする。期待という意味では、大したものが無いように思うが、それでもお手並み拝見ということで、次の年を待つことにしよう。

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