皆で力を合わせて強くなる、という思いで立ち上がったのは、百五十年近く前のことか。それまでの「お上」という感覚が、民の力でという形へと移行する筈が、命令系統を一本に絞ることで、混乱を避けたことから、上意下達の仕組みは改まらず、命令を受ける相手が変わっただけで、他人任せの気分は変わらなかった。
本来の民の力が発揮されたのは、強大な圧力に屈し、敗れ去った後に持ち込まれた、海の向こうからの主義によるものであり、独立心より先に、民の意識の変革が取り入れられた為か、力を合わせて強くなる勢いは、一世紀前のものとは比べ物にならないほど、強まって行った。その結果、戦勝国に伍して戦えるほどの国力を持ち、先に進む国々と肩を並べるほどとなった。ところが、その後に持ち込まれた独立心は、あらぬ方へと暴走を始め、各人の独立性は身勝手な行動や考え方のみに映し出されることとなり、それらによって加速された膨張が、弾け飛ぶ結果となった。その原因を作り出した当事者たちは、全く反省する気配も無く、同じ地位に居座ったり、目先を変えて他の餌を食い漁ったりしたが、全体の力の衰えは否めぬものとなり、その回復には民の協力が不可欠に思えて来た。だが、その為に使われた手法が、撒き餌を必要とするものであり、一種の交換条件を示すものだっただけに、民衆はより良い餌を求めて、走り回ることとなってしまった。嫌なものは拒否すれば避けられ、美味しい話だけに飛びついていれば済む、という環境では、民の力が結集されることは無く、意識改革など望むべくも無い事態となる。風が吹き桶屋が儲かる話は、故実けばかりが目立つものの、結論ははっきりしていた。だが、今、盛んにばらまかれる話には、故実けだけで結論が有耶無耶になるものが多過ぎる。力を合わせねばならない時に、利害ばかりに目が集まるのは、情けないものとしか見えない。損して得とる話は、もう有り得ないのだろうか。
数の論理が全てを操っているのだろうか。どんな形にせよ、本質的なことを実行に移し、その成果を探るのは、施策の正しさを確かめる手立てとなる。しかし、その前に必要な大切なことは、論理的とはとても思えぬ手順であり、数の優位性のみが際立つ。優位に立つ人々が、それを実行する資格を持つのは、何故なのか。
ついこの間まで、渋い反応しか示さなかった人々が、自らが主体となった途端に、同じような事を実行に移す。権力を握ったものだけが権利を得るのだ、とはその解釈の一つかも知れないが、本当に正しいことを進める為に、何故数の論理が適用されるのかは、理解に苦しむことではないか。自分たちの力を示す為の一手段という見方もあろうが、停滞や閉塞を打ち破る手段として、前の人々が示して来たものと、どんな違いがあるのかと思う。斬新な提案と、自慢げに語る人々は、現実には、以前のものとの違いを明確に示せず、場合によっては、その必要さえ無いと断言する。権利を得た者のみができることという考えも、提案のもつ意味の重要性とは、無関係な展開ばかりが先行し、結果の良し悪しよりも、断行の意義ばかりに目を向ける。反対が起きたとしても、数の優位が揺らぐことは無く、押し切ることに無理は一つも無い。あんなに反対の姿勢を貫き、渋い表情ばかりが映し出されていたものが、目先を変えたものには、何の問題も無いかの如くの表情で、毅然とした態度を貫く。施政者に有り勝ちな行動様式かも知れないが、最近の傾向はそこに数の優位という支援が常にあることであり、それが無ければ何も始まらないということか。別の見方をすれば、官僚主導の、と言われたものが、そこにあるということなのかも知れない。
事故や事件が起こる度に、その原因や動機を知ろうとするのは、どんな心理が働くからなのか。凄惨な事件が二度と繰り返されぬように、と評する人が居るけれど、異常と思える事件ほど、その動機にも異常性が際立ち、他の誰が起こせるのか、と思えてくる。何かを学び取りたいのではなく、単に知りたいだけなのでは。
覗き見趣味と批判しては、何の罪も無い人々を貶めることにしかならない。とも思えるが、果たしてそうだろうか。知りたいから覗く、という態度には、欲求が表に出ただけで、何の罪も無いとする人々は、元々の知る目的も無くしており、知る権利を主張するばかりで、殆ど無意味なことしかしていないことに、気付いていない。自らの欲望によるものとの指摘は、おそらく猛反発を呼ぶだろうが、その通りなのではないか。何かを追い求める為に知るのであれば、そこから先の議論が当然となるが、知ってしまえばそれまでで、そこで全てが終わるとなる。これでは、何の意味も無い、としか言えないと思う。事件での経緯から、こんな表層のみを追い求める心理は、事故の原因に関しても、同じような反応を示す。ある一点に目が向き始めると、そこしか見ない傾向は事件の分析と全く同じで、異なる見方を示す声は、急激に小さくなる。恰も、それが主原因とばかりに、声高に主張する人々の論拠は、その殆どが薄っぺらで脆弱なもので、熱が冷めた後に検証を施せば、その杜撰さがいとも簡単に露呈する。情報伝達に携わる人々に、大衆と同じ心理が強く影響することとなってからは、この傾向は急激に高まり、集団心理を食い止める手立ては失われた。このような環境では、個人の判断こそが重要とされるが、その能力の欠如は、昔も今も変わらない。検索という便利な道具も、集団心理の反映であるがために、慎重に扱わない限り、乗せられるだけとなる。但し、検索単語の選び方や結果を隅々まで見渡す努力などにより、その欠点を補うことは可能だろう。暴走や迷走を繰り返す人々を盲信せず、自身の判断を下す為には、努力だけでなく、理解の為の知識も必要となる。
趨勢なのだろうが、重要性の順位を付けること無く、要求のリストが並ぶことが多い。単に何が欲しいかを突きつけることは、ごく当然の欲求のように思えるが、何が必要かを検討すること無いままに、こんなことを続けていると、全体のバランスは大きく崩れることとなる。何故、こんな暴挙が横行することになったのか。
一つの理由は、顧客と業者の関係に見られるように、如何に要望に応えるかが重要と、世の中が全体的に受け取り始めたからだろう。良い製品は売れる筈、という話は、今や信じる人は居らず、高度な技術を、要望に応える為に利用する、という話が、当然のものとして受け取られている。最先端の技術も、要望とのずれが生じてしまえば、陳腐化するとまで言われており、何を欲するかが重視される背景となる。これは、ある製品の売買に限って言えば、一つの答えと見なされているものの、では、現在世の中に蔓延している要求に関しても、同じような考え方が適用できるかと見てみると、そうでもないことが判ってくる。製品への反映の為の要望は、最終的に高品質となって形になるけれど、対象が具体的でない要望は、変化をさせることは可能でも、その結果を吟味することが難しい。単に判り難いだけならば、それでも良いのかも知れないが、それが結果の評価を難しくするとなると、要求が満たされたかを判断する基準さえ設けられず、定まらぬ目標に向かって迷走することになりかねない。要求が先に来ず、まずは目標を設定することから始めていた時代には、時間は多少要したものの、動き始めればその先は順調に辿ることができた。今は何処が違うのかと言うと、おそらく、適切で迅速な対応を求めるあまり、場当たり的なものが増え、その度に違う方に向かうことが繰り返されているのではないか。急がば回れ、の例なのかも知れない。
いざりとか乞食という言葉は、使ってはいけないとされたのだろうか、最近目にすることは殆ど無くなった。その存在も、昔は道端で見かけたものだが、今はまず見かけることが無い。また、懐かしい昔として映画で取り上げられる時代には、傷痍軍人と呼ばれる白い服を着た人々が街に並んでいるのを見かけたものだ。
世界的なスポーツの祭典が開かれた時に、こういう人々は一掃されたと言われたが、その後も時々見かけることがあったように記憶している。いずれにしても、軍人は高齢化に従い消えて行き、乞食も見かけなくなった。その一方で、浮浪者と呼ばれる人々の数は、終戦直後を除けば、徐々に増え続けているように思える。ただ、その様相に関しては、昔とは違う状況が広がっているのではないか。まず、呼称に変化が起き、例の如くのカタカナ語が使われる。それと共に、海の向こうで溢れ返っていた状況が、そのままこちらにやって来たような様子が、映像として伝えられることが多くなった。街や施設で配られる食事の様子が、度々伝えられるようになったのは、それが日常化したからとの解釈もあろうが、どうなのだろうか。失業率の違いなど、海の向こうとこちらの環境の違いは大きいように思えるが、この部分に関しては、酷似しているように扱われる。失業者対策に関して、定職に就かせる施策が最優先されるのは当然として、その仕組みの中でもなお、職に就こうとしない人々に、施しを与える必要については、様々な考え方があるのだろう。だが、その惨状を伝えることで、社会問題として取り上げたという姿勢だけでは、問題解決は一向に進まない。例えば、震災後の復興に人不足が深刻となっていると伝える一方で、ホームレス問題を取り上げるのは、全体を見ること無く、ただ個々の問題を指摘するだけの姿勢が現れており、視野の狭さがこんな所にも現れているように思える。問題を指摘するだけでは、何の解決も見えないのは明らかなのに、何故こんなことを続けるのか、結局は、被害者と括られる人を作りたいからだけなのか。
社会に出る前に、何故働かねばならないのかを問われると、多くの人は収入を得る為、と答えるらしい。確かに、それも要素の一つなのだろうが、それだけかと問われると、既に社会に出ている人々は、否、と答えるのではないだろうか。それだけでは言い過ぎとしても、では、他に何があるのか、知りたい人が居るに違いない。
その答えについて論じる前に、まずは、収入と答えた人々の考えを見てみたいものだ。最近の傾向は、人生を楽しむことが最優先であり、仕事は必要となる現金を手に入れる為のもの、という考え方と紹介されたが、本当なのだろうか。確かに、趣味こそが楽しみであり、仕事には楽しみより苦しみしか感じられない、という若者が多いとされる。だが、享楽こそが楽しみであり、遊び耽ることこそが生き甲斐とは、少し違うように感じられる。一方で、仕事にも目標があり、それを達成する喜びが楽しみに繋がることもある。経験する前には、何も見えていないから、目標もその達成も、実感が湧かないものかも知れないが、仕事の上ではなく、日常生活の中や、遊びの中にさえ、目標が掲げられることが多い。ただ漫然と遊び続ける人々や、日常に変化を感じられない人々には、この感覚は理解し難いのだろうが、多くの人には、それを感じることができると思う。この感覚さえ持っていれば、働くことの意味は、何らかの形で湧き出してくるものと思われる。そこから先は、人それぞれに異なるだろうから、一つ一つを論じることに、意味は見出せない。各人が、それぞれに自らの答えを見出し、それを目標として、仕事を始めることとなる。その様子を眺めれば、自分たちがどんなことを考えれば良いのか、少しは見えてくるのではないか。見えたから楽しめるかどうかは、これまた人それぞれなのだろうが。
分かり易い話の続きをしたい。難しい話題を分かり易く説明してくれると評判の人の話を聴くと、確かにその場での理解は進むような気がしてくる。だが、その話を他の人に伝えようと試みると、上手く行かないことが多いのは何故か。良く言われるのは、その場では分かった気がしても、部屋を出た途端に、はてとなるというのだ。
分かり易い話には落とし穴があると言われるのは、こんな所なのではないだろうか。その場で分かり易く説明され、納得した筈なのに、自分で説明しようとすると上手く行かない。その理由はごく簡単なもので、本当に理解していないからなのだ。それはおかしい、と指摘されそうだが、分かった気にさせるのが上手い人の話は、譬え話にしても、肝心な部分の話にしても、上手く抽出されたが故に、分かり易くなっていただけのことで、実際には、本当の理解に近づけるわけではないのだ。一方、分かり難い話は敬遠されがちなのだが、その中には、理解を進める為に役立つものが多いことに、余り気付かれていないようだ。ここでも注意しなければならないのは、ただ分かり難く話すだけの人と、肝心な要素を上手く並べているものの、聴き手が何も考えなくても分かるわけではない、という人とを区別することだろう。人それぞれに、考え方は違うだろうし、論理の組み立て方も違っているだろう。その中で、他人からの話を上手く伝えることが難しいのは、当然のことではないだろうか。自分の中で咀嚼し、消化した話を、組み立てなおすことで、人に伝える話を作り上げられるわけで、単に上辺だけを掬ったものでは、上手く行かないのは当然のことだ。そう考えると、分かり易さだけで話を選ぶ危険性は、かなり大きいと言わざるを得ない。特に、全体がそんな方ばかりを見ている時代には、注意を要するということだろう。