民意の空しさに、もう気付いた人も居るようだが、相変わらずの操作ぶりに、まだ望みを捨てていない人も居るようだ。民主主義への誤解が、これ程露骨に現れた時代は今までに無く、一度染み付いた考えを消し去ることの難しさが、痛感されている。だが、その中心に居る人々は、自らの愚行に気付いていないようだ。
悪化すれば他人の責任、好転すれば自らの功績、そんな情報の扱い方に、異論が噴出したとしても、中心に居さえすれば、恥をさらすことも無い。だが、事実は事実として残り、後世に厳しい分析が為されれば、一時の恥より厳しい、冷たい視線を残りの人生に浴びることとなる。一時的な感情の高揚を、これ程に求める時代も珍しいが、その大元は人間性の劣化にあるとしては、余りに言い過ぎとなるのだろうか。感情の起伏の激しさは、一般の人々にも及び、病気としての扱いを渇望する傾向に、異常を感じることも少なくなった。感情の制御ができぬ人々が、主導的な立場に登場するに至っては、流石に行く末を案じたくもなるものだ。こんな中では、情報操作は容易なものであり、思い通りに誘導することは、赤子の手を捻るより簡単とまで言われる。だが、こんな状況は今に始まったことではなく、昔からあったことに気付かぬ人が多いのではないか。この季節に良く聞かれるものに受験戦争があるが、競争激化の時代から殆どその気配さえ見えぬ現代まで、長く使われて来た。如何に大変で、激烈であるかを示す為に、その渦中にある若者たちの大変さを、表現するものだが、情報操作は、その場で何度も施され、受験生という「弱者」を保護しようとする動きが、主体となっていた。今、巷で行われているものとそっくりな図式だが、当人たちは悲劇のヒーローの気分となり、まんざらでもない態度となる。だが、その時が最悪の状態といった表現が常であり、歴史的な分析は皆無だからこそ、間違いや誤解が横行することとなり、民意の誘導が完成する。これじゃあ、今と変わんない、と思うのは当然で、その対象が大衆であったことも、そのままなのだ。まあ、そんなもんと思っておけば良いのかも知れない。
この季節、毎年のように話題となるのが、明るい未来を手に入れる為の競争だろう。自分たちの数より少ない席を、手に入れる為の戦いに、若者たちが出向くという図式は、既に過去のものとなりつつあり、出来映えの差に応じて、質の良悪が決まるだけとなる。その意味では、圧迫感は随分減ったように思う。
だが、当人たちの気分には、大きな変化は見られない。いつも、この関門を抜ける為の努力が問題となり、その成果が現れるとされるからだ。無駄を承知で知識を詰め込み、その成果が数字として現れるのに、一喜一憂する。試しの間には、少しは余裕を持てるものの、本番には、一段と強い圧迫感を抱くと言われる。ただ、競争に勝ち残れなくとも、何処かに行き場を持てるという気持ちは、ちょっとした余裕となるように見える。無駄に擦り減らすよりも、余裕を持って生きることの大切さが、ある時代から特に強調されて来たが、その効果が、全く違った方に向き、結果的に人材育成を停滞させることに繋がったのは、意外なものだったのかも知れない。無理強いからは何も生まれないとした人々にとって、その圧力を除くことは、自由への誘いとなり、能力の向上に結びつくと思われたが、現実は、正反対の結果となった。余裕は怠慢となり、無理強いという圧力のない世界は、能力を高めることを忘れた人々で満たされることとなった。ただ、そんな様子を眺め回してみると、一部の人々の能力は余り影響を受けず、殆どの影響が、数を増し続けて来た進学者に降っているように見えてくる。機会を与えることの重要性は、いつの時代にも変わらぬものだが、その気の無い人間にまで、それを及ぼすことには意味が無いのではないか。この季節、そんなことに思いが及ぶ。
標準というのは、規格を決める為に必要となるものだが、懐かしい所で言えば、録画の仕組みでの論争がある。同じ国に生まれた二つの仕組みのうち、どちらが標準となるかで、企業の勝ち負けが決まると言われ、その後の展開がまさにその通りとなった。この経験から、標準に対して過度な反応を来すようになったのか。
そんな風潮に乗せて、世界標準なるものが多く提示されているが、その多くは、ある言語を主体とし、ある先進国を中心としたものであり、標準化の戦いが既に終わっているかのように振る舞う。何が優れているかを論じず、恰も中心に据えられたように装うやり方には、様々な欠陥が見え隠れするが、当事者には無意味なものとされ、突っ走っている雰囲気さえ見える。先を走っているのは判るものの、それが中心であり、最も優秀なものであるかは、別の話ではないか。こんな形で後追いを続けるのは、どうもこの国の特徴らしく、標準の言葉に過剰反応を示すのも、他国には見られないもののようだ。その一方で、先に苦い経験をした海の向こうの彼の国の、海外生産国内消費の体制が、経済停滞を招いた歴史に、何も学ばない姿勢には、どんな心理や知識が働いているのか、理解に苦しむことが多い。デフレと話題にされることに、海外生産が必要とされるが、これは別の見方をすれば、収益性の追及の結果と言える。だが、それが自国の生産性の低下を招き、大きな歪みを生じることに、気付かぬふりを続けたのには、何か別の理由があったとしか思えない。特に、先にその経験をした国のその後を眺めれば、大体の様子は窺えた筈なのに、ある見方に固執して、現在の厳しい事態を招いたとすれば、学習能力の欠如こそが、最大の問題と思える。そんな人々が、一面的な捉え方で、標準の話を紹介するのを見ると、美味しい話には、と思えてくるのは当然だろう。厚化粧の末に、経済停滞に陥った政策を主導した連中が、再び権力に座ることとなったことは、同じ誤りの繰り返しを予感させる。どうなるのだろう。
新築の家の屋根に、黒い板状のものが載っている。昔なら、太陽熱温水器と呼ばれたものが多く、今でも少し古い家の屋根に載せられているが、今時は、専ら発電に関わる太陽電池と呼ばれるものとなっている。各家で違った色形のものが載せられているのは、製造会社が異なる為で、それぞれに性能を競っているようだ。
自然への期待が高まったのは、実はあの事故ではなく、その前にあった環境への問題からだろう。いずれにしても、自然の恵みを活かす形での発電だが、その前後の状況の変化に注目が集まり、悪影響を残す形のものへの、忌み嫌う感情が高まることとなる。そんな中で、特殊な解釈から、悪者の発生の無い方式に、傾いて来た勢いは、あの事故で一気に萎むこととなった。欠陥が露呈すれば、その勢いのままに問題点が噴出するのは、異常とも思える状況だが、渦中の人々は他に目を向けることは無い。この体制は、実はその方式への依存を高める過程でも、専ら使われたものと何ら変わらないように映るが、当事者たちは、視点の大転換と見なしているようだ。経済効果より経費を重視し、あらゆる金銭的な負担を列挙したかのような振る舞いにも、偏見が露骨に現れていることに、気付かぬふりを押し通すのか、はたまた、そんな所まで考えが及ばないのか。どちらにしても、無知を露呈しているに過ぎないと思える話が、深慮に基づく分析のように扱われるのには、感心することは無く、反吐が出るとでも言いたい気分となる。連合国の経済状況の悪化が、輸出に頼る国々の電池の製造に、暗い影を落とした原因には、経費という問題が考えられるし、一時の優位を逃した理由の一つに、補助金の縮小があったとする分析にも、経費の関わりが直感できるのに、何故、それらを棚上げにして、欠点の無い優等生のような扱いを始めるのか、思惑以外に何があるというのか。風車のことも、導入にかかる経費と効率のことばかりに目を向けさせ、維持と経年疲労に何が予想されるのかを、全く口に出さずに、比較する姿勢を示すのには、いつも通りの目論見が見える。誰も中立でないのは、こんな世の中では当然であり、一つを取り上げれば、そちらに与することになるだけのことだ。
想定外という言葉が、厳しい批判の矢面にさらされたのは、いつのことだったか。重要な役割を負う人々が発したものに対して、総攻撃のような罵詈雑言が浴びせられていたが、浴びせた人々は、同じような事が自分に降り掛かるとは、思っていなかったのだろうか。但し、大衆にとっては、八つ当たりの相手はまだ居るらしい。
予想が外れたと謝る専門家に、全ての責任を押し付けるのは、総攻撃と同じ心理と思えるが、想定外となったのは、その予想を信じた人々だから、始めの話からすれば、同じような批判を受けるべきと思える。だが、弱者は常に保護されるべき、という大原則があるだけに、常に悪者を見出し、そちらに責任を負わせれば、涼しい顔を続けられるようだ。早朝にまだ雪ではなく、雨が降っていた際、予報の伝達に携わる人は、計算機の結果によれば、今後雪へと変わると説明したが、降雪を予測することと、積雪を見積もることとは、随分と違ったものとなるようで、今回は十分な予報でなかったとされる。だが、雪国の人々から、毎度呆れられるように、不慣れな人々は混乱の極みに陥る。その多くは、準備不足によるものだが、それが予報に頼るとなると、まるであの震災の様相とそっくりに思えてくる。批判する側になれば、何処までも厳格な要求をするのに、逆の立場に座ると、自らの責任や想定には、何らの重みも無いこととする。身勝手極まりない態度だが、それが許されるのがこの社会の特徴なのだろう。こんな居座り方を続ければ、急速に責任を放棄する風潮が強まり、それを負わされる立場から逃げる人ばかりとなる。一人一人が、各自なりの想定をし、判断を下すことは、当然のことの筈が、いつの間にか、他人任せが当然とされる。予報する立場が、その任を全うするのは当たり前だが、それを受け取る人々に、何の責任も無いとするのは、狂気にも似たものに思える。
自分の考えを持つことは大切だ。この考え方に異論を唱える人はいないと思うが、では、その考えに固執してしまい、他人の意見を受け入れないことについてはどうか。考えを持つことを推奨する一方で、他人の考えを取り入れることも勧める。当人にとっては、難しい状況を強いられているように思えるが、どうだろうか。
他人の意見を聞くばかりで、自分の意見を表明しない人が増えたからか、独自の意見の重要性を強調する声が大きくなった。それに独自性の重要性が加わり、他とは相容れない形の意見を尊重する風潮が、一時高まったように思う。流石に、非常識なものや、論理性の欠片も無いものが目立ち始めると、独自だけでは通用しないとばかり、厳しい批判が浴びせられ、手の平を返したように無視することが多くなり、ある意味、普通に戻りつつあるように見える。だが、常識や論理が備わっているとは言え、それがまともな意見であり、成果が上がるものとなるかどうかは、確実とはならない。そんなことから、他人の意見に耳を傾け、それを取り入れる態度が大切とされるが、当事者にとっては、難度の高いものとなっているようだ。自分の意見を構築する為に、様々に考えを巡らせた結果、やっと辿り着いた結論に対して、厳しい批判が浴びせられれば、反発を感じるのは当然のことだろう。問題は、そういった批判を、何の目的と受け取るかであり、人格否定にも似たものと受け取れば、反発も止むなしとなるが、自らの考えを更に高めるものと受け取れば、少しは聞く気が起きるのではないかと思う。これは、単に受け手の問題ではなく、批判を浴びせる人の問題ともなり得る。徹底的に糾弾し、反論の余地も残さぬものであった場合、多くの人の心には反発しか残らないだろう。そこで、少しでも余地を残せば、感覚が違ってくるのではないだろうか。そうは言っても、現実には受け手がそれに気付かねば、何ともならないわけで、いずれにしても、受け手が全てを握っているというべきなのかも知れない。
暗雲が立ち籠めていたのが、一気に晴れ渡って来たかのような、景気の転換は現実に起きているのだろうか。伝えられる話は、明るい時代の幕開けのようなものだが、これまでに何度も煮え湯を飲まされて来た人々は、俄には信じ難いといった態度を示す。見通しの甘さは、何度も指摘されたことで、今度もか、という思いからか。
親の世代より厳しい時代を生き抜かねば、と思っている人が多いと言われるが、現実には、その親たちは、更に上の世代が膨らませ続けた風船の破裂で、天国から地獄への転落を味わったと言われる。そんなのより更に悪化するとしたら、どんなことかと思えてくるが、いつの時代にも当てはまるように、その時代しか知らぬ若者たちの不安や不満は、昔との比較は思いもよらず、薄っぺらな根拠から出て来たものが大部分のようだ。今回の調査もその類いのものとしか思えないが、例の如くの煽り集団には、便利な数字と持て囃されそうだ。その日暮らしを馬鹿にする人々は、将来を見つめるという夢を抱くのだろうが、その日が暮らせなければ、未来は有り得ないのではないか。更に、肝心の将来に不安ばかりを抱くに至っては、何の為の夢なのやら、さっぱり解らなくなる。日々の繰り返しが、将来の為になると教わってこなかった人々にとって、積み重ねよりも大事なものは、環境やらの外的なものばかりで、それらさえ整っていれば、いつかは突然の好転が訪れるに違いないと信じているのかも知れない。積み重ねを忌み嫌い、いつかは夢が叶うと信じることこそ、大切だと思う心理は、理解し難いものでしかないが、誰も教えてくれないとの叫びが出るに至っては、さて、どうしたものかと思うしか無いのか。