パンチの独り言

(2013年1月21日〜1月27日)
(延長、例外、荒れる、誇示、十色、妄信、察知)



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1月27日(日)−察知

 一面真っ白な世界を見て、一瞬目を疑う。雪国でもないのに、こんな朝を迎えるなんて、と思うけれど、子供の頃と違って、はしゃぐ気持ちにはならない。雪道の運転は大丈夫か、滑って転んだりしないか、そんな心配が先に立つからだ。それにしても、予報では何も言っていなかったのに、とも思うけれど。
 予報が信用できないとは、当たり前のことと思う一方、出かける前に予報を眺め、傘を持つか決めようとする。何とも勝手な心情だが、これこそが人間の特性なのかも知れない。危機に対する考え方も、よく似たもので、余計なことを心配する一方で、肝心な時には大丈夫と思い込む。危機に接して初めて、何が危険だったかを知るのも、人間の特性のようだ。これはまさに確率の問題で、同じ危機に接したとしても、皆が同じ目に遭うかは確実ではなく、人それぞれに全く違ったことが起きる。となれば、大丈夫でなかった人が居る一方で、何ともなかった人が居る。こんな状況では、危ないとの警告も、無駄に終わることが多く、空振りなどと言われ、煩いだけの存在となる。こんなことが繰り返され、様々な警告句が編み出されたけれど、その効果の程は確かではない。本当に効果が上がっているのであれば、それを使い続ければ良い筈だが、実態はそうなっていないからだ。要するに、大衆が危機を感じ取れるかどうかが肝心であり、その能力が無い人々には、どんな言葉も効力を持たないこととなる。でも、被害者に優しい社会では、その人々の感性に関わらず、誰もが全て理解できるようにすべき、となるらしい。何とも理不尽な状況だが、その務めを果たすべく努力する人が居る。だが、一度は通じても、次は既に通じないこともある。何しろ、危ない目に何度も遭う人が居るのだから、懲りない人は幾らでも居るのではないか。何とも難しいものだ。

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1月26日(土)−妄信

 紛争地域と呼ばれる場所へは、成る可く行かないようにとの注意が、掲げられている。その危険度に従い、使われる表現が変えられ、警告の強さが伝えられる。物見遊山に訪れるのであれば、たとえ有名な所といえども、この時期は避けるべきとのことだろう。だが、そこでの役割を果たす為となれば、状況は変わる。
 危険な場所へ出かける際の、覚悟を表す為の儀式が、昔はあったようだ。水杯を交わす、という儀式は、別れを覚悟した気持ちを表現する際に行われるが、今はそんな気分になる人は少ないのかも知れない。命令だから、役割だから、といったことを前面に押し出すのは、そんな気分とは違う、心の動きを表しているのかも知れない。だが、こういった事情は、昔と今で何も変わらず、別れの気分になるかどうかが、肝心になっているようだ。安全との保証があるからとか、言われるほどに危険ではないとか、そんな表現を付け加えることで、危険度がまるで下がっているような気持ちが芽生え、そんな覚悟の必要は無いとする。こんな話が最近増えているのは、事件や事故、天変地異が頻繁に起きているからだろうか。実は、その数が急激に増えていることは無い。紛争地域は増えもせず、減りもせず、宗教の違いが背景の争いも、特別なものを除けば、常に起きているのだ。震災と表現されるものも、大きなものが話題に上るとは言え、その数はそれほどに変化していない。大きな違いは、その被害を受けた時の気持ちと、それまでの思いにありそうだ。何かが起きても、大したことにはならない、と信じるのは、何を根拠とするのか、よく判らないようだが、安全神話などと言われるものが、大きな存在となっている。神話はずっと昔のものだった筈が、これだけはどっかりと居座っている。信じる対象が欲しい人々には、どんなものでも良いのかも知れないが、根拠無く信じると、裏切られた時の衝撃は大きい。

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1月25日(金)−十色

 歴史の検証は、残された記録を調べ上げることで、達成されると言われる。だが、勝ち負けの結果としての歴史の場合、勝った方が敗者の記録を改竄したり、消し去ることで偏ったものになる。それを承知で解析を進め、隠されたものを掘り出すことで、違った観点を手に入れれば、歴史に名を残せるかも知れない。
 しかし、残すことに思惑があるのは、勝負の結果とは別のことであり、互いに、自分に都合の良いように情報を操作する。これは歴史の検証にあたる人々にも当てはまり、自らの見込みに沿った証拠の発掘と解釈を重ねることで、事実だけでなく、その裏にある心理的な変化をも見出そうとする。誰が何をしたかは、記録として残っても、何を意図したかとなると、日記か何かが残っていない限り、想像の域を出ない。日記も、多くのものは随時記録ではなく、後に纏められたものである。その為、情勢を反映したものとなり、その場での心理をそのままに表現したものは少ない。特に、不都合なものや不利に働くものに関しては、残さぬように心掛けるものだろう。遠い昔のものとなれば、記録が残っておらず、新たな解釈も、その多くは想像や思いつきに似たものとなる。考えは人それぞれのものであり、確固たる証拠が残っていなければ、その範囲は広がるから、勝手気侭なものが増える。互いに考えを戦わせることで、結論を導く動きも、その違いが大きくなると、効果を示すことが難しい。一方、記録が沢山残っている、最近の出来事に関しては、意図的に隠されたり、操作された情報も多く、結果的に確定できないこととなる。たとえ、証人が生きていたとしても、時間が経過した末の証言には、様々な思惑が鏤められる。そんなものを引き合いに出し、これが事実と提示されたとしても、全てが明らかになったとは思えてはこない。それぞれの見方を示し、それを並べた上で、各自が眺め回すことで、それぞれの見解が生まれてくるのではないか。これが唯一無二の事実とする動きには、独自の考えの押しつけが目立ち、嫌な気分となる。こんな風潮は、自分なりの見解を持たぬ人が増えたからなのか。

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1月24日(木)−誇示

 将来への不安を口にする一方、夢を語る人々。矛盾に満ちた言動の背景には、現状認識の誤りがあると言われる。どちらか一方が間違っているのではなく、両方共に間違いを犯すのは、事実誤認や分析の間違いがあるからで、間違いを繰り返した挙げ句の誤認識に、勝手な解釈が加わることで起きることのようだ。
 そんな人々を目の当たりにして、知識の乏しさや認識の甘さに呆れる人々は、正しい知識と確かな認識を授けようと、躍起になるようだ。強制的で押し付けられる教育に対して、忌み嫌う傾向が強まった時代に育った世代では、詰め込みを排除する傾向が強かっただけに、突然知るべきことを押し付けられるのには、抵抗を覚えるに違いない。その為、単なる知識としてではなく、人間としての品格や誇りを介して、自らの能力の高さを再認識させるような形で、その背景となった歴史を学ばせようとする動きが高まっている。維新以降の歴史を正しく学ばせてこなかった、という観点から、そこでの歴史の流れを詳しく伝え、敗戦以降に定着された誤認識を拭い去ろうとするもので、国の暴走と断罪されて来たものを、別の目的の存在を知らしめることで、正当化するものだが、それ自体の正誤の問題より、押し付けられた責任転嫁により、洗脳されて来たとする見解が、特に強調されているように映る。自らの誇りを傷つけられたという解釈も、見方の一つとできるにしても、それを回復させようとするあまり、極端なものへと変わってしまえば、別の穴に陥るだろう。井の中の蛙は別物としても、自分たちこそが優れた人間であり、被害を受けた国々も、別の形で謝意を表するべきとまで言ってしまうと、傲慢の極みにしか見えなくなる。この手の議論を展開する人々や彼らの著した書籍に見られる歴史解釈には、事実を正確に分析しようとする態度が現れているものの、その後に来る誇りの問題などには、その功績にあった人々が赤面するほどの、極端さが現れている。崇高な目的を持つ人間に、傲慢さは似合わないのではないか。

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1月23日(水)−荒れる

 大学の荒廃ぶりを批判する声は多いが、その内容は的外れが目立ち、社会全体が抱える問題が、こんな所に現れているように思える。時代に合わせた対応を求める声や、社会の要求を満たすことの重要性を指摘するものだが、若者を教え育む点において、根本を見失っていることばかりが、目立っているのではないか。
 指示を守れず、仕事ができない教員が増えた、という指摘に対して、昔からそんな先生は居た、との反論が必ず出る。しかし、何度も繰り返される事件において、共通となる部分に対して、そんな反論が無意味であることに、何故気付かないのだろう。確かに、研究の最先端にしか目が向かず、他の些細なことへは、興味も意欲も湧かない人が居たことは、事実に違いない。だが、その人々が、こんな任に当てられるかどうかは、管理者により決められていた。そんな時代には、馬鹿げた平等は話題にもならず、適材適所の考えが当然とされた。とは言え、無能と見えた人にとっても、この程度の役割は当然可能だったかも知れず、仮定の話として、議論の対象とならない、とすべきだろう。組織の余裕も無くなり、常識的な感覚も失われた中で、能力のない輩を放置することこそ、荒廃の主因となっているのではないか。教える内容は殆ど無く、研究を発表する気もない。そんな連中に高い金を払っていることに、社会の歪みを感じる若者は、少なくない。だが、そんな姿を見て、呆れた人々が、追従するようになるのを眺めると、教育の本質が失われたことと、それによる悪影響が社会に与えることの重大性に、気付かされるのではないか。ほんの一握りに過ぎない人々を、殊更に取り上げる姿勢も、荒れた社会の現れであり、問題はそちらにある。誰もが挙って行くことの弊害が、こんな形で現れている。

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1月22日(火)−例外

 35年ほど前に導入された新入試制度は、当初から評判は芳しくなかった。曰く、一部の能力ばかりが目立ち、本当の実力は測れない、とか、更なる負担を強いるもので、無駄が増えるばかり、とか、そんな意見が乱れ飛んだが、それから紆余曲折があったとは言え、これ程長続きすると見た人は居なかったのではないか。
 それにしても、進学率が5割を超え、50万人より多い人が受ける試験には、様々な課題が山積している。当初から問題視されていた実力評価については、他の手法を用いようが、同じ批判にさらされることを思えば、取り上げる価値は無くなっている。選択肢の自由度に関する問題も、本試験の状況から見れば、同程度のものばかりとなり、不適切と言えば、どちらもとなる。毎回、事件を取り上げる人々は、鵜の目鷹の目で問題をあぶり出すが、数えられるほどのものでは、50万の人間の中の特殊例としかならないことに気付く気配は全く無い。科目選択の新制度が混乱を来した年でも、問題はあったのだろうが、多くの現場ではそつなくこなしていた。主催者は問題が起こる度に、対策を講じて様々な指示を出すが、それでも事故が減らない理由は、全く別の所にある。複雑な手順が要求される聴く能力に関するものは、特に批判の的となるが、手順の複雑さではなく、評価の有用性こそが議論の対象とならねばならない。そんなことさえ判らぬ現場の人間たちに、様々な事故の原因があると思うのは、的外れな考えだろうか。会場となる場所の多くは、受験者が合格の暁に入る学校であり、業務に当たるのはそこで教育する立場にある人々である。対策を講じるべきとの指摘がある度に、その他大多数で起きなかった理由は取り上げられず、一部の無能な人々の愚行を殊更に取り上げる姿勢に呆れてしまう。受験者も監督者も、理解できて当然のことを行えないのであれば、社会的に見て無能と言わざるを得ず、どちらの立場においても不適格と言うしかない。批判されるべきは、能力の無い人間を使い続ける組織であり、無能であるにも関わらず、その席に座る人間なのだ。

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1月21日(月)−延長

 定年を延ばすとの報に、一喜一憂の様子が付け加えられる。直前に迫っていた人々にとって、再就職が困難な社会情勢に、悩みは深まるばかりだったが、これで一安心となったようだ。それに対し、まだ先が長い人々にとっては、他人事に思えるばかりか、重荷がのしかかる感覚を覚えたようだ。どちらも自分のことしか頭に無いか。
 それにしても、制度が破綻に近づきつつあるように報じられる中で、付け焼き刃とも思える対策に、不信感を抱く向きも多い。破綻を避ける為というより、先延ばししただけとの指摘も、的を射たものと受け取られるのは、こんな背景だけでなく、これまでの無駄に終わった対策と、今度も同じに違いないとの思いがあるからだろう。他国の情勢を気にするばかりの国民にとって、海の向こうとは全く異なる仕組みの検討は、苦手というより、近寄り難いものなのかも知れない。自由を第一とする考え方では、強制的な退場は有り得ないものであり、年齢差別の一つとされる。誰がいつ退くかは、本人が決めるべきものであり、客観的な判定をも排除するのは、自由があればこそなのだろう。だが、この自由は責任をも伴うものであり、続けるだけの能力が必要とされるのは当然だが、一方で、辞めた後の生活の設計にも、自分なりの責任が伴う。社会保障はある程度確保されているとは言え、それまで同様の質を確保しようとすれば、まず必要となるものが頭に浮かぶ。家族の中での自由も組み込まれているだけに、依存体質は忌み嫌われる対象とされる。独立が第一との扱いが、優先されて来たのも、そんな背景によるものだろう。だが、経済停滞の影は、自由による独立にも大きな影響を及ぼし、家族の絆がこれまでとは異なる形で、重視される時代となりつつある。自由を失うことで、独立が危うくなると、何が起きるのかと心配になるが、所詮海の向こうでの出来事。こちら側では、そんなこととは無関係に、自由を保つ為の新制度に、歓迎の声が上がるという様相なのだろうか。

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