パンチの独り言

(2013年1月28日〜2月3日)
(先後、勘定、乗除、曖昧、妄言、見方、恵方)



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2月3日(日)−恵方

 寒い中では外に出かける気も起こらない。そんな中で、人々の購買欲をそそるような話があるとしたら、何かと尋ねてみる。昔なら、月半ばのお菓子の遣り取りが唯一の話題であり、他には何も無い、というしかない状況だった。それが、ある頃から一部の地域に芽生え、商売気に満ちた流れに乗ったものが現れた。
 昔から、その地方では行われて来た風習と言われても、余所者にとっては、意味不明な行事でしかない。互いの地域の行き来がそれほど盛んでなかった頃、それぞれの風習を守る手立てを講じなくても、伝統を守ることは難しくなかった。だが、人の行き来だけでなく、媒体の発達によって、情報交換が盛んになり始め、そこに商売が成立するとなると、飛びつく人々が出始め、一気に拡散することとなる。元々、季節の変わり目をそれぞれの地域なりに祝う風習があり、豆をまく以外の行事は、独自のものがあったようだが、皆と同じを好む、最近の傾向はこんな所にまで、訳の判らぬ風習をばらまくようになった。確かに、節目で何かを念ずることに、意味を付け加えることは、昔から、様々な形で行われて来た。信じる者は救われる、と揶揄されたとしても、皆がやっていると思うことで、安心を手に入れることができる。安全や安心に、異常なほどに拘る人々にとって、神にすがる気持ちも、何の悪意も感じないのだろう。しかし、そこに儲け話が潜んでいるとなると、別の思惑が先に立ち、広がりの後押しとなる。一昔前には、限られた地域でのみ行われていたものが、今では、当たり前のように季節の風物詩として、各地で行われている。更に、もう少し歴史を遡れば、一部地域と言われていたものも、更に狭い地域のみのこととして、ほんの一握りの人にしか知られていなかったのではないか。ここからは想像でしかないが、節目に行われる風習の中に、新参者として入れられた時、その業界の人々が絡んだのではないか、と思えてくる。始めから、商売気に動かされたものかも知れぬ。

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2月2日(土)−見方

 体罰の話題で持ち切りの様子だが、肝心なものが見えていないように感じる。自殺した若者や運動選手の話題では、体罰の是非ばかりに注目が集まり、それが起きたとされる背景や心情に話が及ぶことはない。いつも通りに皮相的な見方ばかりで、罪の重さや罰の厳しさの話に終始するのは、野次馬根性だからか。
 暴力を否定する考えは、一方的な力関係を成立させず、人権を守る為に重要なものだろう。だが、一部の人々は、暴力にも必要なものがある、という考えを示す。無用なものは排除すべきだが、不可欠なものがあればそれを維持すべき、という意見は、こんな騒ぎが起きている最中には、とても表に出せるものにはならない。その一方で、気になる点となるのは、何を暴力と定義するかではないか。力の行使は様々な形で行われるものの、その全てが暴力となる訳ではないことは、殆どの人が知る所だろう。その中で、話題とされたものには、何が含まれるのか、詳しく眺める必要がある。だが、それとは全く別の考えもあるようだ。苛めの問題が取沙汰されたのは、かなり昔のことだが、それ以降に輸入された言葉の一つに、ハラスメントがあったことを記憶する人も多いだろう。それまでに使われた「イジメ」との違いに、衝撃を受けた人も居たとされるが、「イジメ」がする側の意識を中心に据えていたのに対し、「ハラスメント」はされる側の意識が重視された。受ける側がその感覚を持てば、行使した側にどんな意識があろうとも、認定されるとする定義には、驚きを隠せない人々が多く出て、恐れさえ抱いた人も居た。加害の意識が無くても、被害の意識があれば、行為が成立するとされれば、無意識の行為にも何らかの抑制をかける必要が出てくる。文字で表せば可能でも、心理的には困難と思える。こんな状況はその後の社会的な混乱を導いた第一の要因となった。体罰の話題にも、同じ矛盾が散見され、意思の疎通を問題とする意見も出る。特に、弱い者を守るべきという風潮が、一方的な流れを加速し、弱者が強者へと豹変することが、社会の常識となりつつある。根幹にあるものを見出そうとせず、皮相のみを追う見識は、歪みを強めるだけであることに気付くべきではないか。

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2月1日(金)−妄言

 日々の話題を追っていると、弱者ばかりが目立ち、誰が彼らを追い詰めているのか、と思いたくなる。一時は批判の的になった人が、ある日突然、救済の対象となる。悪人が突如として善人になるのは、豹変という意味で有り得ないことではないが、本人の態度とは別に、こんなことが起きるのは不思議としか思えない。
 要するに、話題を絞り込む人々が活躍しているからであり、二極化と同じように、白黒をはっきりとさせる手法が、専ら使われている為で、一方の極からもう一方へと、大した訳も無く移行させるから、その動きは激しくなる。その声を追いかけ、支援する側に回る人が増えたことは、民意と呼ばれる世論が、その変動性を極めて高い状態に保っていることを表している。赦すことの重要性を説く声が、度々聞こえてくるが、大規模な糾弾の後にこれを行うことで、自らの罪を軽くしようとするだけで、結局は、相手のことに配慮する訳ではない。自己中心がどっかりと居座る形での状況は、自らの行為を反省し、何らかの措置をとる方向には動かない。強い者と弱い者が、歴然と存在する社会では、こんな状況が生まれることは少ないが、互いの差が余り無い社会では、その入れ替わりに大した力が必要なく、ほんの一言で動きを変えることができる。それを指揮する立場に座る人間にとって、動きを制御する楽しさは、ある意味格別なのではないか。極端な物言いを使いこなし、方向性を決めることは、自分の能力を意識することへと繋がる。だが、被害者を作り出すだけの動きが、何の利益も産まないことは、既に明らかになったことである。日々の話題の多くが、陽炎のようにすぐに消えることを考えれば、そんなものに目を向けることは、単なる無駄に過ぎないというべきだろう。

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1月31日(木)−曖昧

 不安を口にする人に向かって、どうなれば解消されるのかを尋ねる。それは苛めだよ、と指摘する声が聞こえるが、何処が苛めなのだろう。思考能力に乏しい人々は、入り口の所で立ち止まったままで、先に進む意欲さえ見せない。不安は鍵となる言葉だろうが、それを口にしたとして、何かが変わるのだろうか。
 不安の解消には、先にあるものが過重とならないことを示すべき、と思う人が多いようだが、それで雲散霧消するような人々は、始めから不安などというものを感じていないのではないか。皆が口にするから自分も、という程度の人に手間暇かけるのは、無駄としか思えない。実体のない不安に関して、引き合いに出すことはさほど難しくない。しかし、実体の無いものを消し去ることは、見えない相手と戦うようで、簡単なことではない。余り深く考えないままに、思いつきを並べるだけでは、泣き言にはなっても、対策を講じるまでには至らない。そんな人々に、優しく接することが大切とばかり、懇切丁寧な説明を施し、如何に負担を軽くするかが肝心と考える人たちは、一時の解決を見て、満足するだけのことだ。次に訪れる、本当に厚い壁に対して、解決の手段を持たない人々は、気を楽にしてもらっただけで、次に何が起きるのかさえ見ようとしない。問題を捉える能力さえ劣る人々には、解決法を思いつく前に、何が問題かを見出すことが必要で、それができないまま、時間だけが過ぎて行く。曖昧な不安の対象に、少しでも姿を明確にしようとする努力は、自らの不安を考える上で、重要な手続きだと思う。ただ、それを見つけろと指示したとて、ぼんやりした姿は見えてこない。そこで解消されるには、と尋ねる訳だが、それを苛めと捉える。何ともはや、という気がしてくる。

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1月30日(水)−乗除

 お金の問題には数々の不思議がある。無ければ生活できないとするが、どれだけあればできるのかと問われても、答えが出せない。生活の多くは、破綻を来さぬように、収支の均衡をとるからで、それなりが全てかも知れない。にも拘らず、人々は金銭の話に耳をそばだて、その多少に一喜一憂を繰り返す。
 収入が減っても、支出を減らせば良い。こんな簡単な図式に、何故人々は戸惑うのか。一つには、個人の感覚では少額の吟味は可能でも、多額の判断は難しくなる、という能力の問題がある。一人一人の少額の積み重ねが、全体としてとんでもない額になることは多く、国を単位として考える場合、かけ算の係数に対する感覚が重要となる。これを如実に表すのが、税金や社会保障の問題だろう。更に、少し小さな集団になるけれど、依然として大きな係数がかかるのが、地域の問題となる。安全安心ばかりに目が集まり、経費に目が向かなかった業界は、その代表格となるが、為替や情勢不安の問題から、エネルギー価格の上昇が伝えられると、必ずと言っていいほど、料金の改定が提示されて来た。ここでの問題との関連で興味深いのは、逆に価格の下落があった時の対応で、企業としての収益はそれによりかなりの伸びを示しても、料金値下げをしないことが何度もあった。その訳は、全体の儲けを各家庭に配分しても、数円にしかならないから、というもので、毎度お馴染みの説明となった。単なる割り算と言えばその通りだが、これこそが多数を相手にした計算の結果であり、その感覚を持たねば理解できぬものだろう。逆に少数を対象としたものでは、変動は大きくなるものの、そこから出てくる総計は依然として小さいままとなる。こんな状況が、今回の料金値上げに当てはまるとしたら、どう感じられるだろうか。当然の論理で、値上げを避ける手立てとして、役員報酬を引き合いに出すが、どんな計算式が頭に浮かぶのか。意欲を見せろ、誠意を示せ、そんなことばかり言い続け、何の役にも立たない精神論を展開するのが、この国の民意だとしたら、小学生でも判る計算ができない無能ぶりを示すだけではないか。ただ、これは、責任転嫁を放置せよという意味ではないので、誤解の無いように。

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1月29日(火)−勘定

 世知辛い世の中である。確かに、日々の生活が窮屈になり、将来への展望も濃い霧の中のように思える。賢く生きることの重要性が強調され、多くは知恵を感じさせるものだが、一部には悪知恵を使った悪賢さばかりの目立つものがある。安売りと買い過ぎ、正反対の現象が同居するのも、金銭感覚が優先されるからだろう。
 金は天下の回りものを、全く違った意味で使う人が居るけれど、何よりも金銭を優先させる考え方が、社会に蔓延るようになったのは、いつ頃からか。生活が厳しくなったから、と思う人が居るが、現実には、膨張を続けていた時代に、金が全てとの考えが台頭したのだ。その考えの外に居た人間にとって、理解に苦しむ思考様式だが、内に居た人間や彼らを羨望の眼差しで見つめた人々には、その後の窮乏も相俟って、金さえあればとの考えがこびりつく。そんな背景があるのかと思えるほど、愚かな行動をする人に注目が集まる。だが、愚かさは彼らだけには留まらない。早く辞めれば手取りが増えるとの説明を、誰もが挙って使うが、何故受け取る側の話に終始するのかと思う。子供たちが被害者のように扱うのは仕方ないにしても、自治体が苦慮するとの指摘は、一面しか捉えられない視野の狭さを露呈させる。差額に注目するのは、金に目が無い人々の性だろうが、給与に含まれぬ経費への目が向かぬことに、相も変わらぬ無能ぶりが感じられる。保険制度を考えれば、支払い側の負担は更に増し、差額は現実には更に増すこととなる。そんなことに目もくれず、手取りの差額を殊更に取り上げるのも、庶民からすれば、たった数十万のことで、職業意識を捨て去る無責任さとすることで、異常な集団と強調したいからではないか。勝手な解釈を加え、無知の人々を誤った方に導くのは、この所の常道となりつつあるが、白痴を増やすことが彼らの役割なら、存在意義は皆無となる。

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1月28日(月)−先後

 鶏か卵か、例の如くの議論には、終わりが見えない。どちらを先にすべきか、明確な答えが無い中でも、策を講じなければならない時、どちらを好ましく思うか、ということで決めてしまう。結果はやってみなければ判らぬものだが、それにしても、いい加減な決め方に思える。責任の話なぞ、出てくる筈も無いのだ。
 生き物を例にとった話だが、普通に考えれば、卵が先に来るとの考えには、無理がある。性質を変えたものが生まれる、という意味から、卵の可能性を示したわけだが、無い所に卵が現れる筈も無く、その性質をもつ成体が偶々現れたに過ぎない、とすべきなのだろう。だが、考えれば考えるほど、色々な可能性を思いつき、自己矛盾に沈み始める。さて、件の景気回復は、何が卵で、何が鶏になるのか。ものの値段が下がり続ける今、閉塞感と相俟って、気分は鉄の塊のように、重く沈んでいる。打開策として提示されたのは、物価を上げる方策だが、反対の声を抑える論理は、その後の収入の増加のようだ。落ち着いて考えれば、その通りの流れが期待できるものの、その日暮らしを続ける人々には、一時の苦しみの方が強く映る。長い目で見れば、当然の方策の一つだろうが、既に苦境に立つ人々には、心穏やかにいられないのではないか。もし、増収を約束するのなら、それを先にして欲しいと願うのが、人情だろう。それができないからの苦肉の策が、少しでも好転のきっかけになれば、との思いを込めて出されたとしても、結果を求める大衆には理解されない。老後の保障に必要として、増税を導入しようとしても、受け入れられないのは、これとよく似た状況を示している。将来への不安を口にする一方で、今の苦しみからも逃れたい。こんなに身勝手な考えは無い、と幾ら糾弾したとしても、この程度の考えでは、その矛盾にさえ気付けない。だからといって、物価を上げれば幸せになれるか、の保証も全く無いのだ。では、収入を増やす方策は何か。こちらにも奇策があるように聞こえているが、さてどうなるものか。それにしても、ものの値段に対する考えに、大きな間違いがあることに、いつ気付くのだろう。

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