パンチの独り言

(2013年2月4日〜2月10日)
(英才、両罰、符合、経験済、宝探し、呼称、流通)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



2月10日(日)−流通

 損して得とれとか、金は天下の回りものとか、ものだけでなく、金も流通してこそ意味があると言われた時代もあった。いつの間にか、将来への不安と称して、出すことは極力控え、入る話に飛びつく時代となり、皆が溜め込んだ金を、将来の為と抱え込む。いつ使うとも知れぬものが、身近に積み上がっているのだ。
 成長期には、一時的に使っても、その後に入るあてがついた。しかし、閉塞感が強まり、衰退期に入ったと思うと、将来への期待は抱けず、日々の暮らしを切り詰めるしか無い。こんな状況では、皆の財布の紐はきつく縛られたままで、世の中に出てくる機会は奪われる。流通すべきものが出回らず、経済の活性は失われたままで、下り坂は途切れる気配が出ない。デフレ解消の策として、流通量を高める為に出されたものも、いつの間にか何処かに消し飛んでしまい、雲散霧消してしまう。為替の不均衡も、各国の流通量の不均衡が原因となり、かなり厳しい状況を招いていた。一時的かも知れないが、徐々に解消されていると言われ、収益にも影響を及ぼし始めたものの、肝心の庶民たちには、その恩恵が感じられず、依然として、将来への不安が消え去ることは無く、如何に節約するかという話題ばかりに注目が集まる。インフレという言葉も、恐怖を招く為に使われることが多く、それが流通を高める効果は、中々に理解されない。確かに、身入りが増えない中で、出費ばかりが増えては、家計の破綻が訪れるのも当然で、それを避けたくなる心情も理解できる。元々購買意欲が低下する中で、値段が上がれば、その勢いは増すばかりと思える。将来への不安は誰しも抱くものだが、日々の暮らしに将来の要素を入れることは、現実には無理筋への展開を進めているのではないか。まずは、日々の暮らしを豊かにし、それを円滑に実施する気持ちを高め、短期的な収支の均衡を実現することにこそ、意味があると思う。無駄金や、分相応でない消費を、推奨するつもりは無いが、節約ばかりで何を目指しているのか判らない生活には、豊かさも何も有り得ないのではないか。

* * * * * * * *

2月9日(土)−呼称

 権威に弱い国民性を表すものは数多あるが、その現れの一つに外国旅行に携帯しなければならないものがある。それが無いと出国も入国もできず、無国籍とされる訳で、身分保障も何もされない状態となる。書類の手続きへの異論から、届けを怠った場合も、証明の無いこととなり、身分保障は無くなるようだ。
 始めに話を戻すと、権威とは、国外で通用する自分の名前の表記についてであり、漢字やかなでは、読んで貰えないからと、当時はこんな呼び名は無かっただろうが、世界標準となる綴りを使い、表現する必要が出た。その際に、異言語での変換には、発音の違いから、一定の法則は無く、各自の法則を当てはめることとなる。鎖国が終わった後に、外に飛び出す人々は、各自独自の変換を使っていたのだろうが、ある時期を境にして、権威を笠に着る役所は、保障の為と称して、法則を強制するようになった。その基本を作ったと言われるのが、ヘボンという名の人だが、これを綴るとしたら、どんな風になると思うか、元々知っている人以外に、正解に至る人は稀ではないか。単純には、Hebonとしたい所だが、そこまで尋ねられたら、Hebornだとか、Haebornとか、色々と編み出すだろうが、そう単純ではないのが人名である。正解は、Hepburnだそうで、想像の遥か外にある綴りに驚かされる。さて、彼の編み出した変換法は、耳で聞こえた音を綴りに変換するものらしく、多くの人が思いつくものと殆ど一致するものの、多くの例外が見られており、自分のものが該当すると、途端に首を傾げる人が出る。例えば、「ン」の表記は、その後に来る発音に左右され、唇を合わせない音では、nとなるのに対し、唇を合わせる音では、mとする。この違いを、流石に耳の良い人は違うと、先日も誰かが取り上げていたが、どんなものか。mの発音が後に来ると、mmとなり、撥音の規則と重なる。だから、bとかpとかの音の人が、抵抗無くmを使うのに比べると、mmとなるのは避けたいようだ。県名にも出てくるものだけに、この混乱は大きく影響する。別の例については、以前取り上げたが、外相が自分の名前の表記にKohnoが使えるようにしたことがある。身勝手と思うのは、この例以外には認めなかったことであり、「おう」や「おお」の区別を付けたい人々の願いを、無視したことだ。一昔前のこの話は、いつの間にか緩められたらしく、選択の自由が少し出て来たと聞く。権威失墜の為か、それとも、何か別の理由からか。

* * * * * * * *

2月8日(金)−宝探し

 人材発掘が肝心と、青田買いに走り回る企業もあれば、転職者を追い求める外資もある。それぞれに、不足が深刻となっているのだろうが、人口爆発の世代が退くに連れて、問題が急拡大したと言われる。だが、産業基盤を脆弱にした世代に、どれほどの依存をして来たのか。そうならば、置換は難しくなさそうだ。
 上からの命令に従い、そのままに動き回る。それが完璧にできていたなら、こんな衰退は起きなかっただろうが、現実には、調整と称した改変により、経営方針は根幹から揺らぎ始め、傾くこととなって来た。元凶とされた世代からは、歪みが徐々に強まった為との反論があるが、それとて、対応を怠ったことによるものとの見方もある。彼らの退陣により、数的な不足が表面化するものの、さて、質的な問題はどうなのか、未だにはっきりとはしない。ただ、企業の立場には、この機会に勢いを取り戻そうとする意図が見え、何とか打開を図りたいとする気配が見える。とは言え、現実はそれほど甘くはなく、目の前に現れる候補者は、画一化された能力ばかりで、独自性が見えてこない。以前には、独自性を優先し、潜在能力に期待するのが、発掘の常であり、裏切られることも多かったが、最近は、それも難しくなりつつある。最低限の能力さえ見せない人材を、どう登用するのかは深刻な問題であり、掘り起こそうにも鉱脈の気配さえ無いのでは、どうにもならない。ただ、あの世代との比較からすれば、大した違いも無かったと、後々言い伝えられることになるかも知れない。下る勢いを止める期待は、淡いものと終わるかも知れないが、やはり、ひょっとしたらという思いを無くしては、やる気さえも失われかねないのだから。

* * * * * * * *

2月7日(木)−経験済

 次の世代に注文を並べていても、何かを強制することは無い。こんな風潮では、停滞を感じたり、衰退を心配したとしても、それを食い止めることは難しい。こんな事態に陥ったのは、一方的な責任によるものと思う人も居るが、どうだろうか。一時的な現象ならば、その可能性もあるだろうが、これ程長続きするとなると。
 様々な助言を与え、改善を図らせるという手法は、教え育む雰囲気の中で、最も有効だとされる。ところが、それが一度暗礁に乗り上げると、何処をどうしたものか、解決策が見出せなくなる。こんな状況がかなりの期間続いた為、落ち込んだ穴から抜け出せなくなっている。注文は更に増え、助言は様々に与えられるが、それを受ける人々には、何かをせねばならないという空気は感じられない。努力は常に続けており、その結果は確かに出ていると主張する若者に、呆れてものが言えぬとの態度が示されても、馬耳東風の感さえ漂う。同じ世代の半数以上が進む教育機関も、そのような世相の中で低下が叫ばれており、危機感だけが強調される。経験不足に注目する向きは、本来の教育とは異なるものを、将来の為と称して与えている。これを妙案と見る向きがある一方、本来身に付けておくべきものが足らない中での、余分な課題の必要性に疑問を抱く人も居る。経験不足が露顕する中で、こんな方策を講じることに、異論を挟むことは無意味かも知れないが、経験は何処ですべきかの議論を抜きにして、こんな展開を図っても、的外れとしか思えない。本来、走り始める中で経験を積むことの大切さこそが重視されるべきなのに、どういう訳か別の所へ持ち込むのは、肝心の人材の経験値が全く上がらないという実情があるようだ。目の前で鍛えても応じない人々は、財産どころか負債としか見えないのだろう。努力しても上達しなければ諦めるという考えは、既に忘れ去られ、努力したから大丈夫という、意味不明な確信が彼らの常識となったようだ。こうなれば、経験も無駄、となることに、気付くべきかも知れない。

* * * * * * * *

2月6日(水)−符合

 若い人々の言語能力が話題となることがある。意思の疎通が図れないほど、低下した原因を見出そうとする動きは、かなり長い期間に渡って続いているが、真相が明らかになることは今の所無いようだ。一方、障害と名付けられるほどに、意思が伝えられない人が出るに至って、社会全体の問題と見る向きが増えている。
 言葉を使いこなせ無いと言われつつ、彼ら独自の運用が目立ち始めたのは、世代の断絶が決定的となり、仲間だけに通用する言葉に興味が集まった頃からだろうか。符合のように、互いにだけ通じる言葉を使いこなし、仲間意識を高めるのは、断絶より、苛めの現れとしての孤立への、恐怖が原点となっていたのだろう。それらの言葉は種々雑多であり、語源からの変遷に関しても、一定の法則は適用されない。だからこそ、暗号として使えるのだろうが、溝のこちら側には、理解不能にしか映らない。最近見かけたものにも、「ES」なるものがあったが、何の略かさえ思い当たらない。ただ、前後の話の流れからすると、依然として続く氷河期に関するものらしく、就職活動との繋がりが想像される。紆余曲折の末、やっと辿り着いた答えは、Entry Sheetなるもので、立派な和製英語である。応募用紙を示すようだが、市販履歴書との違いは、企業独自の質問を設定しているからのようだ。ESでは、自由筆記の部分が含まれ、表現力も併せて見極めようとの意図があるとされる。ここでも、言語能力の問題が影を落とし、意味不明な主張の羅列に、選別の目が厳しく対応する。困難な状況と噂されることも、現実には、こんな所に現れる実力が大きく影響し、門前払いの連続が起きる。他人に思いを伝える筈の文章が、自己満足の洪水では、逆効果しか示せない。人に伝える原点は何処にあるのか、こういう人々には思い当たらないのだろうか。身近な家族への伝達がそれで、それを蔑ろにした結果が、今自分を苦しめるとしたら、誰を恨めというのだろうか。

* * * * * * * *

2月5日(火)−両罰

 体罰を批判する声がどんどん大きくなる。当たり前のことに注目するのは何故か、首を傾げる人も多いのだろうが、これが時代の流れなのかも知れない。被害者救済を第一とする考え方が悪いとは思わぬが、極端な物言いや行動が別の被害を招くことに気付かぬ人々に、強い嫌悪感を持つのは、時代錯誤となるのか。
 体罰を絶対悪と扱うことに反対を唱えるのは、この環境下では難しいように見える。だが、敢えて論じておかないと、今巷に溢れる極端な見方が常識となり、人間関係の構築が更に難しくなることは、明白なのではないか。同じ行為が人それぞれに違った印象で受け止められ、功罪が複雑に入り混じることに、人との関係の難しさを感じるが、今問題にされていることは、そんなものを全て無視し、画一的な扱いを当然とするものだろう。それでも、極端な行為を禁ずるだけで、指導とか教えを妨げるものではないとする意見が加わり、最良の手段を示すものと、自信を持って主張する人も多い。このままでは堂々巡りの議論に終始するが、決定打は被害者救済にあるとして、根本は押し切られそうな気配だ。受けた経験のある人から見れば、無い方が良いに決まっているが、程度の問題に関しては、議論の対象とし難い感覚が残る。横暴な人間から逃れる手立ては、様々にあり、諦めもその一つと見なせる。成る可く近寄らず、身を引くことを覚えるのも、こんなことをきっかけとする。教育現場で見られたものの多くは、まさにこのような状況にあり、周囲の働きかけの中でも、最近意識的に取り上げられぬ親の役割は、実は最重要なものとなる。その意味で、最近の風潮には、強い違和感を抱かざるを得ない。更に驚くべきは、頂点に立とうとする人間を育てる中で、問題となった体罰だろう。他人との戦いに勝つ為の手段は、それぞれに違うだろうが、根底には負けないという強い意志がある。その為、格闘技での訓練には、素人目には明らかに体を痛めつける姿が見られる。強くなる為に必要なことを捨てて、弱くなったとしたら、その責任は誰にあるのか。ここには全く違った様相がある。

* * * * * * * *

2月4日(月)−英才

 知能指数は殆ど問題にされなくなったけれど、別の形の順位付けは、ちゃんと存在する。相対値を示すことで、自分の位置を確認したいということなのだろうが、確認して何とするのかは、余り確かではない。確かに、節目節目で順位を付けられ、門戸の開閉が行われるから、気になるのは判らなくもない。
 ただ、集団の中の位置という相対値と、知能指数などの相対値は、基本的に全く異なる計算式で導かれる。どちらも気になるものだろうが、前者は同じ集団が対象となるだけに、努力などの何かしらの影響を及ぼす要因でもない限り、その数値が変化することはない。だが、後者は、対象が全体となるだけに、成長に従って変化することが当たり前となる。天才と呼ばれた人々が、成長するに連れ、ただの人へと変貌するのも、年に似合わぬ才能が、年相応へと変化しただけのこと、という訳で、成長するに従って、先へ先へと行くことが、当然とはならないことを示している。当たり前のことと思う一方で、他人との差を際立たせたいと思うと、何とか先行させたいとなる。親心と言われるものの一つかも知れないが、最近は、こんな話が巷に溢れている。子供たちに高度な教育を、という願いからか、専門的な教育を施す機会や、それを望む親たちが紹介されるが、先走った行動に、どれほどの効果があるのだろうか。子供らしくとか、年相応に、という表現が聞こえる一方で、将来の為に、今から、という声が聞こえる。何とも不思議な状況と思えるが、当人たちは親心を示しているつもりのようだ。安定した社会では、将来を見通すことも難しくない。それを先取りすれば、優位に立てるということなのだろうが、如何せん、それに応えるべき人間は、その準備ができていないことが多い。まあ、それでも、最善を尽くしたと満足するのが、周囲の人間なのかも知れないが。

(since 2002/4/3)