パンチの独り言

(2013年2月11日〜2月17日)
(休息、賛同、仮面、世界一、妙味、自力、脅威)



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2月17日(日)−脅威

 不思議に思ったことを書く。簡単なことだと思うが、難しいと言う人が居る。そういえば、と思うのは、世の中が一辺倒になる風潮のことだ。何か起こると、パッと皆が同じ方を見て、同じことを言う。異論を挟む余地など全く無いように、大合唱ばかりが聞こえてくる。何故、こんな時代になってしまったのか。
 その為の道具になっているものについては、すぐに思いつく。マスメディアと呼ばれる、情報を流す機関のことだ。大量の情報から、一部を抜き出して、それしかないかの如くに、流し続ける。これまでに、何度も繰り返し書き続けて来たが、何故あれ程までに偏った情報を、これが全てかのように振る舞うのか。だが、本当の問題は、嘘や馬鹿を繰り返す方にあるのではなく、それを信じ込んでしまう側にある。この問題の深刻さは、そんな人々が、自らの問題に気付いていないことにあり、騒ぎの勢いは増すばかりで、止める人が出てこないだけでなく、異端者を審問にかけるが如くの空気がある。最適化なる言葉が一時流行ったけれど、最近聞かれなくなっている。一つの最良の答えに行き着くことが、何よりも優先されるとされたが、それが妄言であり、様々な選択こそが重要との考えが、定着して来た。所謂多様化の時代となった訳だ。しかし、現実は、正反対の状況にある。例えば、発電所の事故以来、多くの人がその危険性を訴え、無くすとの意見を出している。有識者と言っても、科学を理解しない人々の意見には、確固たる根拠は見えないものの、多数の中に見える科学者の意見は、恰も科学的な論理性に満ちているように扱われる。だが、科学の信頼性に疑問を呈し、だからこそ、原子力はいけないとする話に、論理は存在しない。制御できぬ技術は、この際捨て去るべきとの考えも、残りのものへの精査が感じられず、感情論の典型と見える。所詮人間のやることだから、こんなものに過ぎないとすれば、どちらの意見にも大した意味は無い。御することができるとの過信は禁物だが、視野の狭さは別の危険を招くように思う。

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2月16日(土)−自力

 夢を追い求めることに、諦めは無いなどと言われても、やはりそこには無理があると実感する。日々の努力を繰り返して、夢を実現できた人の話を聴くと、自分もという思いが過るが、暫くすると冷めてくる。努力さえすれば何でも手に入るという思いは、人生の歩みを進めるに従い、萎んでくるものだろう。
 そんな夢の無いことを言わないで、と言い返されるかも知れないが、努力は無駄と言いたい訳ではない。どんなに望んだとしても、手に入らないものがあると言いたいだけなのだ。こんなことを書き始めたのは、大震災や大事故がある度に、安全安心を声高に訴えることが、ごく当たり前の如くに扱われるからで、人災については努力を怠るべきではないとしても、天災に関してまで、何かしらの対処ができると信じることが、当然の権利のように受け取られていることにある。誰もが災害に遭遇したくないのは当たり前だが、空から何が降ってくるにせよ、それを全て予測し、避ける手立てを講じるべきという話は、諦めのつかない人間を見る思いがして、諦めより呆れの方が先に立つ気がしてくる。何度書いても、こういう人々には届かないだろうが、忘れた頃にしかやってこないものを、防ぐ手立てを講じるのは、人の心に頼る以外に、何かしらの投資を必要とする場合、無駄を覚悟というより、単なる無駄になるに違いない、ということだろう。一時の投資で済むと思う人々には、何ものも永遠に残るものなど無いという現実を受け止めて欲しい。建造物の耐久性が、これ程に話題にされているのに、こちらの話は別と思える、的外れの考えを、相手にする必要は無い。怖いから、心配だから、ということに、唯一の対処となるのは、心を強く持ち、起きた時の行動を想定しておくことだ。これなら、経費もかからず、個々の対応で済む。他人に頼るばかりの安全安心が、如何に下らないものか、知るべきなのだ。

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2月15日(金)−妙味

 大学生の勉強時間が発表されていた。予想通りと言うべきか、毎日30分強の平均時間に、どうしたものかと思った人も居るのではないか。入学までの長時間の勉強への反動からか、遊びに夢中になり、勉学に勤しむ姿は見えなくなる。けれど、自分の経験を思い起こすと、異常とは思えぬ気がしてくる。
 では、何が違っているのか。大きな違いの一つは、講義時間中の態度にあるようだ。私語の激しさに、呆れるばかりだった時代と異なり、最近は、他事に精を出す学生が目立つと言われる。友達とのお喋りは、スマホを通した活字の交換となり、一見静謐な雰囲気が保たれているように見える。だが、室内で進む学問の紹介には、一切興味が向かず、「つまらない」という意見交換まで為される始末、これでは、勉学などというものの存在は、打ち砕かれてしまうのではないか。何も聞かず、何も聞こえず、何も見ず、何も見えず、の繰り返しは、そこでの知的活動を遮断し、進学の意義は、完全に失われている。だが、当人たちから返ってくる答えは、進学の意義は卒業にあり、就職にあるとするものだろう。その為に、普段、目も向けなかったものに取り組む必要が、試験前に襲ってくる。徹夜を覚悟で取り組む姿勢に、熱意を感じる人が居るのは、理解に苦しむ状況だが、生き延びる為の手立てとして、こんなことの繰り返しが行われていることに、憤りを感じる人も居るだろう。日頃の積み重ねより、一時の苦労を評価する心境に、掛ける言葉も見つからない、と思う人も居るだろうが、一つだけ、伝えるものがあるとすれば、日頃の積み重ねによって築かれた知識は、いつまでも残り続けるだろうが、一時の努力によるものは、あっという間に忘れ去られる、ということだ。そう考えると、語学などの一部の予習を除けば、講義時間中の集中だけで、殆どのことが済むように思えてくる。そんな馬鹿な、と思いますか。

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2月14日(木)−世界一

 35を25にすることは難しい、と会見の内容が紹介され、おやと思った人がどれ位いるのだろう。二期目に入った政権は、新陣容が明らかになりつつあるが、それぞれに議会の承認が必要となる。その中で職務に適すかどうかを判断する為の材料として、証言が行われるのだが、その際の発言として紹介された。
 数字を見るだけでは、何を示すのか判らないかも知れない。この数字は、海の向こうの国の法人税率を表し、現行の35%から25%への引き下げの可能性を論じたものである。困難との見方を示したと報じられたが、おやと思ったのは、その数値のことだ。ここ数年、こちらの国では法人税率の異常な高さが議論の的となっており、世界で一番高いとの主張が、優先的に取り上げられて来た。その中で、この数字に接した途端に、疑いが膨らみ始めた訳だ。少し調べてみると、こちらの役所のHPには、基本税率として、昨年、30から25.5に変えられたとある。課税対象が異なる可能性もあり、この数値だけで論ずるのは危険なのかも知れないが、庶民からすれば、表に現れる数値だけが頼りであり、その比較が最も確実な方法ではないか。こんな話が本当に通用するのだとしたら、画面や紙面を賑わしている議論の中身は、一体全体何なのだろうか。こんな指摘を受けると、話をはぐらかしたり、話題を変えてしまう人が多く、結局は、議論をする気は毛頭無く、単に自分の主張を繰り返すのみ、という本心が露呈する。数字そのものには細工はできず、それが独り歩きすると、都合の悪いことも多々ある。だから、数字を示すより、世界で一番とか、最高とか、そんな言葉に転換して紹介する訳だ。詐欺師がよくやる手法とそっくりだ、と思うのは、こちらの勝手かも知れないが、それにしても、悪質なものに見えてくる。先ほどの頁によれば、バブル期に43.3にまで上がったものが、現行では25.5にまで下がって来たとある。もっともっとの要求は、誰にでもできることだ。

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2月13日(水)−仮面

 舌足らずとは、言葉が足らずに真意が伝わらない状態を表すが、それに似た状況を作りながら、意図的と強調する人々が目立っている。極端な物言いは、それを受ける人間に、極端な感覚を引き起こす。つっけんどんな応答に、相手は苛立ちを隠せぬが、まるで逆撫でするように、意識的な発言と言い返す。
 こんな遣り取りを周囲で眺めていて、嫌な思いをした経験は無いだろうか。言葉足らずではなく、意識的な発言であり、それを正確に理解できないのは、受け手に責任があると、暴言を繰り返す人間は主張するが、賛同の声は多くならない。人による感覚の違いは、渦中の人々にも理解でき、それを入れたとしても、逆撫でされた人たちには、受け入れ難い言動に映る訳だ。たとえ、別の意図を示されたとしても、極端な解釈が入り混じる主張には、違和感が弱まること無く、更なる不信感が募ってくる。これらが仮想世界で飛び交っている中では、一方的な言動が頻出し、煽りが加わる中で、極論のみに注目が集まることとなる。誹謗中傷が強まれば、現実社会にまでその影響が及ぶ可能性も出てくるが、それを食い止める手立てはまだ見つかっていないようだ。この手の人々の考えの主体は、好悪によるものであり、論理の欠片も見られない。これでは、恨みによる極端な行動も、抑えることは難しいだろう。そんな事態に懸念を抱く人々の中には、こんな議論の遣り取りを、現実社会に引き戻そうと企てる人も出るが、仮想世界で醸成された考えが、ある意味公のものと扱われて来た状況では、歩み寄りには程遠い状態にしか近づけない。不信感に満ちた中で、互いの意見を尊重することは、ほぼ不可能となり、成果は上がらないのではないか。特に、彼らがまた仮想世界に戻るのを見ると、諦めるしか無いように思えてくる。

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2月12日(火)−賛同

 孤立に対する恐怖心からか、味方を求める気持ちが高まる。味方は全てにおいて、自分の側に居る人であり、その意見には盲目的に賛同する。こんな書き方をしたら、此処を読みにくる人の多くは、首を傾げるに違いない。だが、最近のネット上での遣り取りには、こんな極端な傾向が多く見られるのではないか。
 友達の輪を広げる為の道具として、流行の先端を走っているのは、ツイッターだろうか。不特定多数の参加を促せ、見ず知らずの人間と話題を共有できる。それまでの多くの制限を施したものと違い、相手を選ばずに交流する機会が与えられ、拡大という趣旨を実現できるものとして、参加者の数は急上昇して来た。確かに、自信の無い人々にとって、自分と同じ意見を持つ人間が見つかるのは、大きな自信に繋がるのだろう。しかし、それがまともな意見かどうかは、同意が得られたからと言って、保証されるものではない。更に、連鎖反応に似た仕組みにより、同じ発言が頻繁に目に入ってくるからと言って、それが確かな情報となる訳でもない。ただ単に、仲間ができ、味方と見なせた喜びが得られるだけで、確かな自信も、社会的地位も上がる訳ではない。にも拘らず、あれ程多くの人々が、興奮を抑えきれなくなる程に、熱狂するのには、何か理由があるに違いない。一つは孤立への怖れから来る味方への渇望だろうが、もう一つには、言葉の理解におけるパターン化があるように思う。同意を得ようとする心理から、賛否での選り分けのみが頭にあり、同じか違うかといった選別しかできない人が増えている。意見を批判的に分析し、その意味を汲み取ろうとする努力は、無駄なものか、無意味と見なされる。これは、敵味方の区別ばかりに注目し、発言の真意を汲み取れないことに、一番の問題があるように思う。確かに、あの仕組みは輪を広げる役に立ったのかも知れないが、一方で、制限を加える仕組みが導入されたことを見れば、参加者の多くが、味方の輪を望んでいることが判る。そうすれば、気分を害する反対意見は、簡単に排除できるのだから。

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2月11日(月)−休息

 休みが連なると、皆何処かに出かけたくなるらしい。行楽地が混むだけでなく、そこまでの道筋も混雑となる。連なる車の列に嫌気がさし、こんな渋滞は二度と御免だと思うが、次の休みが来ると、また出かけることとなる。景気が悪くなったとは言え、行動範囲を狭めてでも、挙って出かける人々は、何がしたいのか。
 息抜きが必要として、休みが設定されている筈が、全く逆の結果となる。車で出かけなくても、混んだ電車に揺られて行けば、やはり疲れることには変わりがない。それでも、普段の通勤地獄に比べれば、気分が違うと納得するのだろう。だが、出かけた先の混雑は、さてどうだろうか。遊園地に出かければ、乗り物待ちに時間がかかり、乗ってしまえばあっという間の興奮はすぐに冷める。そんな冷や水をかけられても、人間は何処かへ出かけたくなるものなのだろう。だが、世の中は、人が溢れる所ばかりではない。こんな時期にも閑散とした所は一杯ある。というより、多分、そちらの方が多いのではないか。これ程までに情報が流される時代には、皆それに影響され、少ない場所に集まるようになる。それが嫌だったら、人が集まらない所へ行けば良い。そこは多分、魅力的な出し物も無く、興奮する乗り物も無いだろう。でも、日頃の疲れを癒す為の時間は、たっぷりと流れているのではないか。自然と接したり、野生生物を眺めたり、そんなことに魅力を感じない人は無理だが、偶の休みに、いつもと違うことをと思った人は、お試しあれ。そんなに遠くに出かけなくても、近くにもそんな場所は一杯ある。そんな所に集まる人は、列の長さに一喜一憂したり、人の多さに溜息を漏らすことも無い。そして、心の休息をたっぷりと味わうことができるのでは。

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