パンチの独り言

(2013年2月18日〜2月24日)
(果報、確実、自責、夢中、幻夢、汚れ、声音)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



2月24日(日)−声音

 劇的に演じる、為には、的確な演出が必要となる。自画自賛をするにせよ、劇中の主人公のように振る舞うにせよ、そんな効果を産む手立てが加えられれば、相手への訴えかけも上々の結果に結びつくかも知れない。だが、くさい芝居と言われるようでは、無意味どころか逆効果となり、無駄な抵抗にしかならない。
 日々の生活の中でも、こんな光景に出合うことは度々あるが、身近な存在でないものまで、そんな演出で飾られるようになると、呆れてしまう。劇では、視覚に訴える演出とともに、聴覚に訴えるものが重要とされる。大袈裟な身振り手振りを交えた芝居でも、発声が平板では盛り上がらない。感情の起伏を表すような、声の表情が必要とされ、芝居がかった声色は見る者を感動に導く。確かに、日常でこんな光景に出合うと、驚き、呆れてしまうものだが、舞台や画面で演じられれば、違った受け取り方ができるのだ。声の抑揚は、こんな効果を産むものだが、ここでも過ぎたるは、と思えるものが、最近屡々見かけられるようになった。同じ画面なのだが、日常社会で起きたことを伝える番組で、話題によって声色を変えて、情報を伝える手法が、多用され始めた。始めはおそらく、民放だけだったのだろうが、いつの間にか、受信料を取る所まで、当然の演出として使い始めた。ニュース読みが、文字の情報のみを伝えるのが、その時間の役割だった筈が、悲しさを表し、喜びを伝える声色が、場面毎に使い分けられる。正確な情報伝達に、感情移入が必要となったのは、文字そのものが伝える能力の低下が、あるのかも知れない。だが、この演出が映像を伴う媒体に限られ、音声のみの媒体では余り見られないことから、能力の劣化が一部の人に限られたものに思えてくる。言葉の重みは、実は音だけに限られた時にこそ発揮され、絵を伴った途端に軽くなってしまうようだ。

* * * * * * * *

2月23日(土)−汚れ

 花粉や黄砂などの話題があったものの、大気汚染という言葉は余り使われなくなっていた。光化学スモッグも、一時の大きな被害は鳴りを潜め、工場や車の排気に対する規制が広く行き渡ったことが、功を奏したようだ。だが、黄砂で判るように、汚染は国内に限られぬものとなる。特に、急速な発展の場所から。
 技術供与の基本を考えれば、隣の国に対しても、そういった援助が行われると信じられていたが、この所の汚染の状況から、上手く進んでいないことが判ってくる。工場の設備にしても、技術的には十分なものが供給可能だろうが、安価を第一の目標とすることが、その導入を妨げているだろう。実際には、それだけで済まない状況が生まれつつあるが、恐ろしく思えるのが、異常な状況が映し出される度に、それがこちらに回ってくるという筋書きにある。東の極みにある国にとって、その汚染が及ぼす影響は、広い大海へと薄められ、世界規模への展開は無かった。しかし、最近の現象は、西隣を起源とするものであり、東に広がる場所には、先行して発展して来た国々が並ぶ。まさか、そんなことを言われることは無いだろうが、利己主義の塊とされる国から、嫌なら何とかしろと言われかねない。となると、一体全体、こちらの国々は何をすべきか。既に、半島にある国からは、防衛策が伝えられ、最先端技術を詰め込んだ浄化装置が、こちらから輸出されるとの便りが届く。同じように振る舞うべきか、定かではないものの、これ以上に悪化するようなら、防衛措置はどうすべきか。空気浄化もその一つだが、花粉と相俟っての防御策となれば、この国得意のマスクとなるのだろうか。篩にかけるのが最も簡単な方法とは言え、そんなことが可能かどうか、よく分からない。元から絶たねば、となれば、何が必要かは解るものの、強請たかりに似た国に、タダ同然の施しは、どうか。

* * * * * * * *

2月22日(金)−幻夢

 夢は実現できないものか、それとも、達成可能な目標だろうか。夢追い人たちは、日々何かを追いかけていると言われるが、それは幻なのか、はたまた、姿をはっきりと捉えられるものか。どちらにしても、追い続けた挙げ句、何処にも行き着かない人が、世の中に溢れている。いつの間に、こんなことになったのか。
 目標を持つことは重要なのだろうが、それがぼんやりとしたものだった場合に、怪しさが見え隠れする。本人は大真面目で目標について語るのに、何も伝わってこなかった場合、何に問題があるのか。多くの場合、説明能力の問題であり、表現力や言葉の問題となるのだろうが、その一方で、定まらぬ夢が幻に終わるのを見ると、動機からして怪しいものに思えてくる。その調子で成長した人々は、意欲のみで進み続け、実力が伴わぬと批判され始める。意欲が努力を導き、それが自らの道を切り開いたと信じる人々は、自分の能力の無さが露呈し始めても、夢さえ追い続ければと思うようだ。だが、現実は甘くはない。右から左へ書き写すことさえままならぬ姿に、一昔前なら、大卒者がやる仕事で無いと言われたものさえ、任せられぬと天を仰ぐ。基本的な手順を繰り返すことさえままならぬ人々は、遠くを眺める眼差しを送ってくるが、足元が見えない人間に、仕事ができる筈も無い。基本より応用へと、人々の興味は移って行くが、どれもこれも中途半端で終わる人間に、達成感が無いばかりか、実力も無いに等しい。何もできないことに、何の違和感も感じず、いつかできるようになると、信じ込める都合の良い心を持つ、少し責められただけで、壊れる心には、耐久性など語る術も無い。その一方で、耐性ばかりが高まり、処理能力をそのままにする人々にも、困惑ばかりが広がってしまう。脆さよりは強靭さの方がましとは言え、所詮、何もできぬ人間を使うあてはやはりない。

* * * * * * * *

2月21日(木)−夢中

 経営に重要なことは、と聞かれても、唯一の答えを返すことはできない。多分、経営者の多くは、それぞれに思う所はあり、それを実行しているだろうが、相手次第、状況次第であることが当然で、決定的な手法がある筈も無い。組織の運営に関しても、金との関わり方が変わるだけで、同じような状況だろう。
 政策の提言では、恰もそれが唯一の道かの如く扱われるが、現実には、多数ある中からの選択に過ぎない。にも拘らず、最適解を示したかのように、胸を張る姿には、視野の狭さが感じられるだけでは無いか。ところが、現代社会では、唯一の解を示すことが、最良の手法とされ、選択を相手に委ねないことが、重要とされる。民意と称するものが、その代表格であり、魅力的な解を待ち望む声は、絶えること無く続く。その解説にも、唯一の道が示されることが多く、何も考えずとも、それに向かって導かれることが、当然のように言葉が並ぶ。だが、現実の社会は、選択の連続であり、話が違うと戸惑うばかりとなる。自明な選択肢には、選ぶ余地などある筈が無いとの主張も、現実には、提案者の視野の狭隘さの為であり、極端な前提が積み重ねられた結果に、現実は裏切りの世界を築く。夢を追うことの重要性も、いつの間にか形を変えつつあるが、ある番組で、劇団なのか単なるお笑い集団なのか、当時正体が知れなかった四人組のうちの三人が、その後の自分たちの成功を振り返って、夢について語った時、ひらがなの芸名を持つ一人が、「夢を語るより、夢とは何かを考えるべき」と若者に伝えたいと話していた。真面目か不真面目か判らぬ発言は、一笑に付されたが、同じような事を感じた人が居たのではないか。夢という非現実を、如何に現実のものとするかは、重要となる筈が、それを如何に夢のままに終わらせるかが、肝心なように扱われる。そんな社会でどう生きるかは、言葉に踊らされるのではなく、意味を感じながら、自分なりの判断をすることが重要なのだろう。

* * * * * * * *

2月20日(水)−自責

 市場原理とは、自由競争に全てを任せる、という意味のようだが、これがいつの間にか、責任放棄に繋がるとしたら、どうだろう。何の縛りも無く、自由に振る舞う市場だからこそ、適正な位置に落ち着くものを、作為に満ちた介入を繰り返し、歪曲させるべきでないとの考えは、民主主義を代表するものとされる。
 規制や制限を戒め、あるべき姿を目指す考えに、異論を挟むことは難しく思える。だが、肝心の市場が、様々な思惑に左右され、一部の力に与することとなると、自由とは名ばかりの、力を持つ人々の寡占を許す状況が生まれる。自由を謳歌する為には、自助自立が第一とされるが、そんな状況に至る環境には、全体の意向が反映されない問題が存在する。各国経済で、こんな状況が次々に生まれるのを眺めると、市場原理そのものへの反対ではなく、それを利用する一部の権力に対して、何らかの措置が必要と思えてくる。だが、この原理の問題は、何があろうとも全てを任せた訳だから、手を出さないことにあり、自浄作用が働き始めることに、期待するしかない。これが儚い期待であることは、この所の情勢を見れば明らかとなる。問題が山積しても、原理の問題から手出しはできない、とするのは、原理原則を尊重する考えに基づくのだろうが、有利な状況を利用し、好き勝手に振る舞う人々を放置するのは、責任放棄の一種なのではないか。この状況は何も経済に限るものではなく、様々な所で、相手任せの精神が罷り通る社会を構築している。製品の質を保証せずに、買い手の判断に任せる、というのは、如何にも極端なものだが、それに近い現象が続出する事態に、不利益を被るのは、任された市場に居る買い手なのではないか。放り出すとは言い過ぎとしても、市場に是非を問う態度には、責任を果たした上でのものとは、思えぬ状態が見える。各人が自らの責任を果たすことで成立する考えが、それが放棄されたとなると、さてどうなるものか。

* * * * * * * *

2月19日(火)−確実

 確率の問題は理解し難い、と言われるが、理由を明確にすることも難しい。その原因は、確率への理解の低さにあるのだが、そんなこととは関係なく、物事の可能性を確率で示すことが当然とされ、理解できぬ数字が巷に溢れている。理解不能だけでなく、怖れや不安を煽る数字に、更に混迷が深まるようだ。
 多数の例を引くことで、割合を導き出す、確率算出の手順は、意外に理解されていない。他人事の可能性には、誰も関心を抱かないが、自らに関わることとなると、突如として数字の意味を知りたがる。だが、根本理解を得ずに、算出結果のみに注目すれば、そこに鏤められた解説を鵜呑みにし、数字がもつ本来の意味を探る意欲は失われる。数字の大小に注目するとしても、自分の目安を持たない人間には、判断は不能となるだろう。無理を承知で確実を求めるのも、そんな心理が故なのだろうが、更に劣悪と思えるのは、何が何でも確実なものを要求する人々で、無理かどうかの判断も無いままに、要求ばかりが高まる。多数の例での確率を、自分というただ一つの例に当てはめる時、数値の意味が理解できず、悩みに落ち込む人が居る。一人で何度も挑めば、そこに確率が見えてくる場合もあるが、それぞれが関連の無い独立事象となれば、重複の効果は成立しない。いずれにしても、我が事となると別の考えが過るものなのだろう。だが、何故、確実な道ばかりを選ぼうとするのか。挑戦やその為の努力を徒為と受け取る風潮も、確率の理解の妨げとなる。この考えでは、ある確率以下の事象は、全て確率ゼロとなり、試みる意味が無いとされる。これでは、確率の本質が理解されているとはとても言えない。これから学問を究めようとする人々が、そんな数字に翻弄されるのを見ると、この風潮が改善される可能性は、ゼロに思える。

* * * * * * * *

2月18日(月)−果報

 世界的に評価が低いと言われる、春を開始時期とする年度の制度は、伝統に基づくものと言われる。だが、伝統とは何かを考えた時に、制度として成立した時期や、それまでの経緯などに思いを馳せると、何処かずれた感覚が残る。それでも、春こそ、という気持ちがある時代には、今こそという思いが強まる。
 節目に向けての努力が報われるかどうか、気が気じゃない人も多いだろう。だが、目標が達成できなかったからと言って、報いが無いと言い切るのはどうかと思う。直近の目標は、確かに逃してしまったのだろうが、そこまでの努力は、別の形で別の場面に活かされるのではないか。目標を持つからこそ、努力が高まると言う人も居るが、その通りだとしても、目標達成に全てが左右されるという考えには、安易に囚われない方が良いように思う。失敗を繰り返すことで成長するという意見には、その渦中にある人々は簡単には賛同できないだろうが、そこから始まる道筋は、全く別の目標設定を必要とし、それまでとは異なる努力が必要となる。本来、こんなことの繰り返しこそが人生の筈だが、最近の傾向は、全く違った方に向いているのかも知れない。身近で安易な目標を設定し、その達成こそが全てと考える。それにより、達成感は大いに得られるだろうが、努力は簡単なものに限られ、限界への挑戦は無駄な努力と見なされる。できる範囲に留まり、そこから抜け出そうとしない心理は、何も特別なものではないが、成長期には余り見られないものだった。しかし、安定から衰退への移行は、上を目指すより、今の所に留まることを優先し、できることを確実に、という考え方に、変化して来た。このままでは、できる範囲さえ不確実になることが始まり、衰退の勢いは更に増すのではないか。努力の意味を理解できない人々に溢れかえる社会、目先のことばかりに囚われないで、根本的な問題解決が必要だろう。

(since 2002/4/3)