パンチの独り言

(2013年2月25日〜3月3日)
(指揮、不信、地道、理屈、盾と矛、優先、対等)



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3月3日(日)−対等

 差別を嫌う傾向は強まるばかりに映る。これ自体を悪いとは思わないが、ある線を越えると別の差別が生じることに、気付かぬ人が居ることには、危うさが感じられ、それが意図的なものとなると、怪しさが増す。平等という殺し文句に、屈した人々の経験からは、別の都合の押しつけが見え、不均衡を無くす難しさが残る。
 共同参画という言葉が突然使われるようになり、不平等の是正に様々な試みが実施されることとなった。始めは何が起きるのかと、興味を持って眺めていた人々も、いつの間にか、正体見たりという態度をとる。差別を無くす為に力を加えることの多くが、別の差別を誘発することは、様々な事例で知られる所だが、現場ではその難しさに見て見ぬふりを繰り返し、一方的な力を加え続ける。落とし所が話題となる訳だが、結局は、振り子の振れと同じことが起き、いつまでも動きが止まらず、差別は残り続ける。様々な差別が話題になる中で、この国では年齢による差別が話題になることは少ない。能力の有無に個人差があり、加齢の影響も個人による差が歴然としているのに、いつも定年という言葉が聞こえるのも、こういった論理からすれば、差別に分類されるべきことだろう。改善に関しても、別の要因が引き合いに出され、差が論じられることは少ない。何が肝心なのか、今一度検討すべきと思われるが、この手の話になると腰が引けるのは、何故だろう。確かに、年長者が力を持つ社会で、彼らが自分の存在の継続を欲することは、欲望の現れと受け取られる。だが、能力を客観的に評価すれば、結果は明白なのではないか。立場を利用して欲求を満たすと受け取ることで、排除を進める手法は、一見正当なものに見えるが、これでは歪んだ世界となるのでは。差別が当然と言うなら、何もする必要は無いが、それを嫌うのなら、こんな所にも正しい見方をするべきだろう。

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3月2日(土)−優先

 物事には順序がある。誰もが幼少の頃から聞かされて来た戒めだが、最近、様子がおかしいと思えることが増えた。身勝手な考え方が、こんな所にまで影響を及ぼして来たのか、という思いがある一方、判断力の減退が、ここまで及ぶようになったのか、そんな思いも過る。順序も考えずに、目の前と取り組む姿に。
 手当り次第に取り組む姿には、如何にも気忙しさが感じられ、それ以外のことに目が向かない気配が流れる。だから、優先順位を考えること無く、順序立てて片付けることも無い。結局、全てが片付けられず、手つかずのものが山積みとなる。誰もが、能力を超える仕事に取り組まさせられることが起きているようだが、そんな時にこそ、順位付けや選別が重要となる。ところが、その能力を備えぬ人が増え、降ってくるものに闇雲に取りかかるから、肝心なものが残る結果となる。何故、順序を考えないのか、と思うけれど、こういった行動をとる人々は、すぐに仕事に取りかかる場合が多いようだ。だが、能力の低さは、処理速度にも影響を及ぼし、結果として、片付けられずに残るものが増える。努力を強調されたとしても、できなければ意味の無いことに、思いが及ぶことも無い。優先順位に関しても、何やら、怪しげな論理が蔓延っている。必要要件より、それを得た後の話が先に来るのは、どう考えてもおかしいが、要求に応えようとする気持ちは、当たり前のことさえ見えなくする。能力の低下は、まず、仕事処理量に現れたが、その後、更に、順序の判断にまで及ぶ。悪くなると、加速度的に影響が広がると言われるが、これもまた、そんな例の一つとなる。昔の話だが、ある企業が就職活動する学生に向かって、学業と就活のどちらが大事かと問うていたが、これ程明白なことが理解できぬ企業に入る危険を冒す必要は無い。今は、学生に判断能力が無く、言われるがままの行動が主流とのこと、時代が変わったからか。

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3月1日(金)−盾と矛

 矛盾は、盾と矛の話から生まれた言葉だが、矛盾無く話すことは難しいと言われる。話し続けるうちに、いつの間にか話の筋が変わり、始めと終わりでは、正反対の結論となることも多い。信頼できる人の話の多くは、こういった変化が少なく、一定の方向性を持つとされるが、そうでない人のものは、散々である。
 始めから筋の通った話ができれば良いのだろうが、相手がいる中では、横槍が入ったり、異論を浴びせられて、変化を強いられる場合がある。となると、自分の話がどんな変化をするか、話している間に気付けるかどうかが、肝心なのではないだろうか。書く場合は、読みなおすことができ、矛盾の有無に気付けるが、話す行為の中では、前の話題と今の話題を比べつつ、点検を続けねばならない。ただ、書いた場合には、間違いが放置されたら、それを修正する機会が無いのに対し、話す時には、微妙な調整さえ可能となる。つまり、矛盾に気付いた時に、その片方を否定するか、あるいは、修正を繰り返すことで、両立する形に纏めることができるわけだ。では、何故、難しいとされるのかは、余り定かではない。ただ、一つ言えることは、話す本人が矛盾に気付かないことで、時間経過と共に、話が変わって行くことに、全く気付かぬ人が多いように感じられる。となれば、修正も有り得ず、書いた時の放置と同じ状態になる。それでも、周囲から指摘を受ければ、それに対応しなければならない。ここで更に大きな問題となるのは、周囲から矛盾と指摘されたことに、何の違和感も持たない人が居ることだろう。こうなってしまうと、もう、手の施しようは無くなる。詐欺師は、上手く言いくるめると言われるが、こんな情勢からすると、実は矛盾に満ちた話でさえ、騙される人が出るのではないか。自分の矛盾に気付かぬ人が、他人のそれに気付く筈も無いのだから。

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2月28日(木)−理屈

 暗算が得意な国民、と呼ばれたのも昔のこと、今や、一桁のかけ算ができるくらいは大したこと無く、二桁のものができなければ駄目とまで言われる。だが、二桁の暗算を自慢する国の子供が、割り算が苦手と聞いて、成る程と思う。でも、肝心なことは、最近は肝心の一桁の暗算さえ怪しい子供が増えたことだろう。
 無理強いは悪いこと、という考えは、体罰への批判から、更に強まっている。詰め込み教育の欠点を指摘する声は、未だに大きいものだろうが、負荷をかけずに要点のみを、という手法が、実は視野を狭めることに繋がるのは何故か、余り議論されていないようだ。無理強いの代表格とも言える、漢字の書き取りと九九は、できる範囲でという方式に変わりつつある。だが、基本を押さえずに応用へ走る風潮は、確固たる基礎を築かず、上辺だけの知識をひけらかす人々を増やすことに繋がり、人材の獲得を難しくする。こんな人々が苦手とするものに、確率の話があることは、以前から何度も取り上げているが、確率を導く基となる場合の数についての理解も、かなり怪しいものらしい。コインを投げて裏表が出る場合を数える時、一度なら二つ、二度なら四つとなるまでは、誰でも解ることだ。だが、これを計算で導く時、2x2とする筈を、2+2とする人が居るらしい。どちらも答えは4となるが、では三度投げたらと質問を拡張すると、どうなるか。考え方の拡張は、理解へと繋がる手立てとなるが、そういう論理性の延伸は思考法の中でも高度なものとされる。だからこそ、押しつけのように、場合の数ではかけ算を使うと習う訳だが、ここで緩めた悪影響が出る。日頃、足し算のみで事足りるから、学校でもそれだけを、という馬鹿げた考えが、社会全体に浸透した結果なのか。

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2月27日(水)−地道

 頭の働きが最も良い時期は、大学入試を受ける年齢と言われる。何を基準にした評価なのか、定かでないこともあるが、世間では人間はその後坂を下り続けるものと、受け取られている。しかし、社会を支えているのは、そんな年齢の連中ではなく、更に齢を重ねた人々であり、能力は別のものと受け取る向きもある。
 では、何処が違うのか、という議論も盛んなようだ。例えば、大学に入った後も学問を続ける人々の中では、数学や物理学を専門とする人々に、盛りの話題が向けられることが多く、三十路に入ったらもう終わり、といった話もある。その間に、自分の考えを纏め、新たな理論を打ち立てる、と言われているが、誰もができる話ではなく、多くの専門家は、その時期に頂点を迎えたとしても、その後も惰性で走り続けるというものだ。教育に携われば、その役目も果たすことができ、たとえ、頭が鈍って来たとしても、後進を育てればいいとなる。では、始めの話は別の所にまで及ぶのか。例えば、英語はそこに頂点が来ると言われる。だが、現実にそれを使う年代は、もっとずっと後のことであり、上手く時期が合わないように思える。ところが、ここに頂点が来る理由を探ると、どうも勉強にかけた時間の違い、という点に落ち着くようで、大学生の不勉強と就職してからの暇のなさ、に問題があることになる。確かに、山を越える為に努力をし、目標を達成したのだから、それ以降は怠惰な生活を送る、ということも可能だろう。だが、日頃の努力の積み重ねは、何もこのような大きな山を相手にした時だけに限らず、自らを高めることの重要性は、人生の道筋で褪せることは無い。一方、始めの話は記憶に頼ることであるのに対し、人の能力はそれとは別の所で活きることから、その手立てや使い方を鍛え上げるのが、その後の努力の向きなのかも知れない。

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2月26日(火)−不信

 不信は、様々なきっかけで始まる。信頼を得る為の努力も、たった一つの失敗で、無に帰することがあり、逆に一度でも、信頼が無くなると、それを回復するのは困難と言われる。壊すのはいとも簡単なのに、築くのには大きな努力が必要となる。こんなに難しい状況は他に無いと思えるが、人間関係の基本はそこにある。
 他人を疑うことが多くなり、信頼関係の構築の難しさが強調されるに連れて、失敗を恐れるあまり、関係を結ばぬ選択をする人が増えているようだ。他人を信頼できないことが、自らの信頼を得ることの難しさを、強めているという背景に目は向くこと無く、単純に、失うことへの怖れが、こんな風潮を高めているのかも知れない。しかし、その一方で、騙される話が聞かれぬ日は無く、何を根拠に信用したのか、理解に苦しむ事例も数多ある。矛盾に満ちた状況と思えるが、渦中の人々には、そういった感覚はないらしい。天秤にかけるものが、どれほどかけ離れたものかに、思いを馳せることは無く、矛盾に気付くことも無い。彼らは、人間不信に陥ることも多いが、実際には、何度も同じ目に遭うことも多く、何かがずれているように思える。異常や矛盾に対する不感症は、こんな事態を更に悪化させているようだが、それを気付かせる機会は多くあるのではないか。人間相手では、一定しないことが多く、騙そうとする人の言葉は、状況に応じて様々に変化する。しかし、機械相手であれば、常に一定の反応や対応が生じ、そこに異常が見られれば、すぐに気付ける筈だろう。だが、そんな場面でも、騙され易い人は何も感じず、異変に気付くことは無い。機械は正確と信じ切る傾向は、人間に対しても現れ、不信と信頼の使い分けがおかしくなる。自分の行動を疑うことも、実際には必要であり、問題を生じる信用の偏りが、ここでも起きているようだ。

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2月25日(月)−指揮

 新聞の情報は、テレビに比べるとまだましと思えるが、一部には厳しい批判もあるようだ。情報操作は、何も権力側にあるだけではなく、正義を語る人々にとっても、できるならばという思いがある。その中での不公平は、大きな問題として捉えられているけれど、果たして、どれほどの効果があるのか。
 時事の話題に限れば、こういった媒体による操作は、世論を導くのに有効となるのだろう。だが、そんなことには耳を貸さず、決まるまでは知らん顔を通す人も多い。小出しにされる情報では、全体像を掴むことは叶わず、結局、徒労に終わることが多いからだ。では、新聞を読む意味など無いのか、そうでもないらしい。操作があるとしても、漏れ出た情報については確実、と思えるものについては、その役割は大きいものに映る。例えば、著名人の死を伝える訃報欄には、操作の施されたものもあるが、多くはそのままに情報が伝えられる。サバリッシュという名を見つけ、昔を思い出した人も居るだろうが、その頃、ベームとカラヤンが持て囃される中で、彼らが率いる楽団は、当時のブランド志向に乗るように人気を誇っていた。それと並行して、国産品の評価が上がっていた時代には、楽団についても、その感覚が強く現れ、彼が指揮する純国産の楽団として、その主体となる放送局がその演奏を流していた。ベームは既に高齢だったし、カラヤンも盛りを過ぎていたと言われる中で、若手とは言えないまでも、今を盛りと輝く人物に、あの楽団は大きな期待を抱いたのではないか。確かに、指揮者にも、という声はあったのだろうが、そんな人々とは別に、何らかの役割を果たしていたのだろう。その後の隆盛を思い出すと、やはり彼の功績は大きかったと思う。その役を降りた後も、偶に見かけることはあったが、やはり一つの時代は既に終わっていたということか。

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