盗めと言われたのは遥か昔、教えてくれないとの文句が噴出し、教える側の意図は伝わらない。それどころか、教え始めた途端に、厳しい言葉に絶えきれず、圧力を批判する声が出始める。教えることの難しさを強く感じさせられる瞬間だが、事はこれだけでは済まない。力関係を根拠に、一方的な責任を押し付けられる。
教育の現場での問題は様々に伝えられるが、その実態は事例毎に余りに違い、これという対策もとれない状況にある。盗めと言われたのは、手に職を付ける現場であり、本来は教育の場ではないものの、最近はそんな所にさえ、社会的な問題が影を落としている。職場は職位の違いから、力関係が明確になるものの、特に教え教えられるという関係になる事は少ない。しかし、特別とは思えない仕事でさえ、円滑に片付けられない人々が現れると、上司と呼ばれる人々の仕事は急激に増えることとなる。できないからこそ教え込まねばならないが、その程度によっては、手の施しようの無い場合が出てくる。となると、手取り足取りとなる訳で、それがある線を越えれば、強いられている感覚が強まる。強制とは、その多くが意識の問題であり、受ける側と送る側で、全く違った感覚を抱くのも当然だろう。だが、弱者への配慮を最優先と考える社会では、被害を訴える声が出れば、そこに正当性が存在することとなる。何とも堅苦しい時代となりつつあるが、ここまで来てしまうと、昔に戻ることはできない。古き良き時代を懐かしんでも、目の前の人々には、そんなものに目を向ける気は毛頭無く、彼らの目に映る上司という敵に向かっての、反抗的な視線のみが飛んでくる。互いの信頼を、唯一の繋がりと考える人も居るけれど、現状はそうもいかないものだ。小さなきっかけで失われる信頼は、余りに脆く、弱々しい。何処に向かうかは判らないが、行く所まで行かないと判らないのだろう。
非常識を厳しく批判することは、それほど難しくはない。ただ、自分が非常識と思うことが、大部分の人たちの常識となると、批判はこちらに向かって浴びせられる。理不尽極まりないと思うものの、常識なんてそんなものに過ぎないと思えば、こんな仕打ちも当然なのかも知れない。多数決だけとは思わないが。
常識を覆すことが重要になる場面は、ごく普通の世界ではなく、かなり特殊な世界に限られている。科学はその最たるもので、百年程前に、それまで全てを説明できるとされたものが、その地位を失ったのは、目の前の事象を眺めるだけでは気付かぬことに、ある人物が気がついたからで、非常識が常識へと変貌した瞬間だったのだろう。だが、その彼とても、確実なものは無いとする原理に対し、神がサイコロを振るかどうかの逸話を残し、非常識を受け入れられなかった。常識とは多数の人々が受け入れることで、それがそれである時には、当然のこととして片付けられるものの、正しいかどうかは別、ということになるらしい。それを覆すことは不可能ではないにしろ、それが簡単でないことはすぐに理解できる。誰もができることなら、既に誰かがやっていて不思議はないからだ。では、そんな中でとんでもないことを主張するとどうなるか。狂気の沙汰と無視されるか、無知の極みと批判されるか、反応はそれぞれだろうが、非常識かどうかは吟味してみなければ解らない。それを聴く価値無しと、始めから拒絶するのはどうか。理解力の問題もあるが、気の問題が大きい。聞く気の無い人に説明は届く筈も無いのだ。だが、これは常識非常識だけでなく、肝心なことにも当てはまるのでは。
理想を追い続けるのは何故だろう。実現しそうにないものを追う人々、有り得ないものを手に入れようと奔走する人々、いずれにしても、理想とは目標になり得ても、手に入らない存在なのではないか。追うことが目的だとしても、それは理解できるが、手に入ると信じる人々を、信じることはかなり難しい。
安全安心を掲げる人々が、震災の後急増したのは、反動の一種だったのだろう。しかし、それから長い時間が経過したにも拘らず、依然として同じ主張を繰り返す人々に、現実の把握は無いのではないか。強い衝撃を受けたから、そんな反応も止むなし、とする向きもあろうが、状況の理解を進めず、当初から同じ主張を繰り返す人々には、学習とか理解とかの段階は無い。そこに、弱者を特別視する人々からの援助が加わり、状況は悪化したままとなる。現実を受け入れるべきとは、彼らへの罵詈雑言とされ、要求を満たす為に皆が努力することが当然となる。だが、現実は何処へ行ってしまったのか。彼らの頭の中に無いのは解るにしても、その影響を受けて、多くの人々の頭の中からも消えてしまい、幻を追い求めることが、おかしなこととは思われなくなった。目の前の危機と、全てを括る見方があるものの、その瞬間の危機であった揺れや波と比べ、直ちに影響は無いとされ、またその通りに展開している汚染の問題は、全く違うものに括らねばならない。だが、その影響下にある人々にとって、目の前の問題は、瞬間の危機と同じに映っていたようだ。その心理は理解できないものではないが、これ程の時間が経過しても、以前と同じ状況を保ち続ける人の行動は、理解不能に見えてくる。優しさを履き違えた社会に、どんな未来があるのか。
言葉を操ることは、誰もができることの筈だが、現実には、少し違っているようだ。日々の情報交換に十分だとしても、更に上の水準となると、違いが現れてくる。文筆家が特殊な能力を有するとされるのも、文章表現に能力差があるからで、不十分な力から発せられるものは、感動を引き出せず、思いが伝えられない。
皆が最低限の水準を満たすと言われるものの、実際には、それを疑わざるを得ない状況があり、伝えることも受け取ることも難しい状態にある人が、世の中に溢れている。最低限という設定自体が、時代の移り変わりと共に変化して来たのだろうが、発する方に比べて、受け取る方の能力が低下したことは、厳しい状況を招いているようだ。表現力の低下は、発することに問題をおいているが、より重大な問題となりつつあるのは、理解力の方ではないか。文章の意味を汲み取り、それが発せられる背景をあぶり出す作業は、当然必要な手順として、大部分の人が身に付けていないと、組織全体に効率の低下を招く。個々の迷いに一々対応していては、流れが滞り、先に進めぬ事態となる。だが、文章による伝達が難しくなると、ごく当たり前のことさえ、まともに伝えられない組織になる。始めは手間を省かず、対応を細やかにすることで解決を図るが、本質的な問題に気付かず、対応を続けて行くと、結果として、より深刻な事態に至り、対応不能な状態に陥る。常識的な範囲の情報交換さえ、ままならない状態になるのは、単なる理解力の低下だけではなく、そこに心理的な要素が加わるのだろうが、それにしても、きっかけは力の低下にある。より高度な所にばかり目を向け、肝心の基礎を蔑ろにした結果、こんなことが起きたのだとしたら、まさに本末転倒となるのではないか。
何でも安い方が良い、という考え方は、今やごく当たり前のものとなっている。質に目を向けず、価格ばかりに目を奪われる人々は、出費が少なければそれで良し、としているのだろうか。安物買いの銭失い、と言われたのは遠い昔、不要なものを買うことも無く、必要と価格がそのまま結びついているのだろう。
あれ程、高いものに群がっていた人々が、何処に消えてしまったのか。高額商品こそが標的とばかり、追い求めていた時代には、どんなに高額でも、その質が良ければいいとなる考え方に、ある程度までは許容できるものの、それを越えた行動には、違和感を覚えた人も多い。弾け飛んだ後には、無い袖は振れないとばかり、欲望を優先することが無くなり、質より価格を重視する人が増えた。だが、消えたと言われる人々は、一体全体、どこに行ってしまったのだろう。目立たぬ存在となり、今でも同じ行動を続ける人も居るだろうが、流行を追いかけていただけの人々は、何の迷いも無く、正反対の流行に鞍替えしたのだろう。主体性の無い行動に、呆れる人々も居るだろうが、元々、そんなことを気にすることも無い人種に、どんな言葉も意味を示せないのではないか。世の中の流れに、上手く乗ることばかりを気にして、自分の暮らしの様式をそれに合わせる。まあ、それで満足できるのだから、他人が兎や角言うことは無い、とされそうだけれど、何だか腑に落ちないように感じる。何処がおかしいのか、どうも、ある筈も無い流れを見させ、それに乗せようとする人々の存在が、最も気になるのかも知れない。これもまた、他人事に過ぎないのだろうが。
人間の判断に偏りの無いものは無い。にも拘らず、人は皆、平等でありたいとか、対等でありたいと願うものようだ。だが、そんな願望を持っていたとしても、それが実現することは無く、偏りを残しつつ、最良と思える判断を下すこととなる。頭では理解できても、心理としては難しく、皆悩みを抱えたままとなる。
こんな状況は、時間をかけて眺めるうちに見えてくるものだが、そうなっていない人が目立つようになった。偏りを避けようとしても避け難いという心理ではなく、意図的に、偏りを強める思考を繰り返し、それを行動に移す。意識の有る無しが、そのままに行動の質に繋がる訳ではないが、どうにもならない矛盾を感じることがある。表向きは、中立を貫くように見せていながら、実は一方に与するのは、昔からよくあったことだが、最近の若者の傾向は、そんな素振りも見せずに、一方に加担する。彼らからすれば当然の判断でも、他人から見れば、浅はかな判断に思え、不思議な感覚を抱く。悩んだ末の決断ならば、多少の違いも出てくるだろうが、当然の帰結として至るものとなると、異様さが増す訳だ。端から一方的な行動を選択するのは、どんな心理から来るのか解らないが、彼らの中では自明の理のようなものなのだろう。これでは、手を貸すこともできず、たとえ、助言を与えたとしても、大した役にも立たないだろう。大きな偏向を当然と受け取る考えには、何か特殊な背景がありそうに見えるが、一部の若者を除けば、彼らにそんな理由は無いようだ。発達段階での試行錯誤が一つの道筋と考えられた時代と違い、今は、別の道筋が当然となっている。だが、こちらは誰かの都合によって築かれた、人為的、作為的なものだけに、放置することが良いとは思えない。もう少し、圧力をかけるなりして、修正をかける必要がありそうだ。
予期せぬことが起きるのを、楽しみにできるときと、そうでないときがあるのは何故か。答えはすぐには見つからないが、誰もがそこに何かがあると信じ、答えを見つけようとする。だが、それはそれほど簡単なことではない。誰もが答えを求めて歩き回るが、結局何も見つけられずに終わる。何が悪い訳でもなく。
予想通りのことが起きるのを楽しみにしたとしても、その限界はすぐにやってくる。はじめのうちは、予想が当たることに喜びが見いだせるが、そのうち、他愛もない予想に愛想を尽かし、もっと別の新しいことが起こらぬかと、願い求めるようになる。そうなると、また楽しみが出てくるかもしれないが、逆の目もあり得る。いずれにしても、簡単ではないのだ。それがわかっているのであれば、どうということもないが、わからないと困ったことになる。まあ、様子を見て決めるしかないことだけは確かだろう。良い結果が出たときに喜び、悪いときは落胆するにしても、予想との違いは時に大きな影響を及ぼす。楽しみと言っているうちは良いのだろうが、そうでなくなることも多く、見込み違いが悪い方に向けば、残るのは落胆のみとなる。さて、どうしたものか。そんなことを考える暇があったら、もっと別のことを考えるべきとの助言もあり得るだろうが、それも思うようにはいかないことが多い。悩むより慣れろ、なのかもしれないが、どっちにしても、なるようにしかならない。無理に構えたとして、良いことが起きると限らない場合、やはり、流れにまかすしかないだろう。結局は、やはり、様子見ということだろうか。