責任のことは何度も書いて来たが、中でも気になるものに、上に立つ責任がある。立った途端に出てくる責任のことではなく、立とうとする責任とでも言うのだろうか、管理職を辞する人やなろうとしない人が多くなり、現場での責任を重視するもののようだ。責任の重さに耐えかねて、と言われたのは昔のようだ。
上司となり、部下を指導する立場になった途端に、様々な混乱を来し、精神の安定が保てなくなる人が頻出した頃、人の上に立つことの難しさが取沙汰された。そんなことをきっかけとして、降格を希望する願いが出され、昇任を拒絶する人が目立ち始めた。別の能力を必要とすると見なされた話も、それが長期化し、深刻化するに従って、様々な問題が噴出して来た。指導するより、自分の仕事に集中した方が、組織の為になるとする主張に、目の前の問題を解決したい人々は、降格や昇任拒否を受け入れて来た。一見、適材適所に見える話なのだが、現実には、指導体制が脆弱化し、組織全体の能力低下が顕在化して来た。自分の仕事を守ることは、その能力を目一杯に活かす手段に思えるが、継ぐべき人々の参入を妨げ、後進の育成を蔑ろにすることで、ある所までの成長は見込めても、それ以降は急速な崩壊が始まる。きっかけが始まった時期から、それなりの時間が経過している為に、原因と結果を直接結びつけることが難しい。その為、どの組織も、希望や要望に応えることを第一とし、それが長期的展望に結びつかないことを、下り坂に入ってから気付くこととなる。一つ一つの問題を解決することが、悪い結果に繋がるとは思わぬ人々にとって、こういう積み重ねが崩壊に繋がることは、簡単には想像できない。上に立つ責任とは、何であるか、改めて考えてみるべきか。
役割分担はどんな感情の現れなのか。人それぞれにできることを割り当て、効率化を図ることを意味することもあるが、可不可に関わらず、負担を平等にするという考え方もある。前者は、冷たいように見えて、構成員全てに対して、能力に応じた役割を割り当て、無理のないようにとの配慮があるが、後者はどうか。
平等とか公平とか、如何にも対等な意識の下に判断されたように映る行動が、実際には、そうなっていないことは多々ある。特に、できないことを押し付けられたという感覚が芽生えると、それは強制となり、無理強いの感覚のみが強まる。公平と称しながら、不公平が強いられたように感じられ、被害と感じる人が増える。だが、そういったことへの繋がりを考えると、ある程度上を見て、頑張ることこそが、上達や発達に結びつく訳で、それ無くしては、人間の成長は有り得ないのではないか。どちらを選ぶにしろ、受ける側がどう考え、どう感じるかが、重視されるのが現代社会であり、それが最優先されるために生じるひずみも多い。配慮は無駄骨となり、期待は裏切られる。失敗に終わるだけならまだしも、それが更に被害妄想へと結びつき、訴えられることとなっては、無駄の一言では済まない結果となる。何故、こんな社会が形成されたのか。個人主義の台頭を批判する声が大きいものの、それだけに責任を負わせるのは、筋違いとも思える。意欲こそが重要との見方もあり、何が肝心なのかは見え難くなっているが、結局は、本人のやる気と向上心に頼る部分が大きい。十分という考えや無理という諦めが、全ての失敗の根源にあるように思うが、それを見通さねば、何も課せられないという状況は、何とも苦しいものに見える。どこで釦を掛け違えたのか、明確な答えは得られないが、それを求めるより、今目の前にある課題にどう取り組むかが肝心なのだろう。
自分は悪くない、と主張したくなる気持ちは、誰にでもあるのだろう。自分は人一倍努力をしたし、与えられた課題も全てこなした。なのに、評価されないのは何故か、そんな疑問が浮かぶのは、正当な扱いを受けてないから、とされる。自己評価との乖離は、こちらの問題ではなく、あちらの問題としたくなるのだろう。
自己完結していると思われる事柄だが、現実には、何の解決にも繋がらないことばかりのようだ。誰かが悪い、と結論づけてしまえば、それで自らの問題は棚上げされると信じる気持ちには、始めに書いた言葉が大きく居座る。確かに、精神的な弱さを自らが攻撃することとなるより、他への責任転嫁によって、最悪の事態を避けることができるように見えるけれど、現実には、問題そのものが自らの中にある以上、消えてなくなることは決してない。多くの人は、薄々気づきながら、徐々に片付けていく道を選ぶが、最近は、そちらでない人が増えているようだ。頑固と思えるほどの反応を示し、自らの過失には蓋を被せ、他の責任を追い求める。正当に見える反応もあるだけに、一概に決めつけられない所が、この問題の難しさを強くしている。さらに、当人にとっては死活問題であり、そこで頑さを失ってしまえば、自らの地位を危うくするとなれば、抵抗は更に強まる。これが孤立へと繋がる訳だが、負の連鎖が明白なだけに、弱者に優しい社会は、厳しい判断をしないようになる。そのこと自体が、問題を更に悪化させているのだが、前提がある以上、それを覆さない限り、解決の糸口が見つかる筈もない。そんな中で、厳しい対応を決めた人々は、希代の悪人の如く扱われ、力の行使を糾弾される。こんな扱いを受けた人々が、これまでにも多数いる筈で、彼らこそが被害者なのではないか。無能な弱者の保護が、有能な知恵者を排除する社会、歪みは溜まるばかりに見える。
余りに多すぎて、具体的に何があったのか、すぐには思い出せないものの、最近は、想像を絶する間違いが沢山あるように思う。年金記録の問題は、紙媒体からの転記が杜撰だったとされるが、単純作業にさえ、間違いが多発するとすると、少し複雑なものでは、それを防ぐことは更に難しくなる。どうなってしまったのか。
多くの企業では、間違いや失敗が起こることを前提とし、それを防いだり、修正する機会を設ける。それによって、起こること自体を防ぐのではなく、それが残らないようにする訳だ。失敗から学ぶべきとの指摘も多いが、それが甚大な被害を及ぼす場合、表に出ることだけは防ぎたいという考えが、根底にあるのだろう。間違いなど起こる筈が無い、と仕組み自体に自信を持つことは、悪いことでは無いと言われて来たが、多発する誤りに、そんな自信は消し飛び、言い訳に終始することが続いた。点検の仕組みが無かった頃と違い、最近は、あらゆる所にその為の手続きが設けられているが、その割に、失敗が少なくならないのは何故か。間違いの発生そのものが、急増していることには間違いなく、杜撰な作業が日常化していることが、第一の原因となるのだが、その一方で、それを見出し修正する為の手続きが、正常に機能していないことも、主要因の一つとなる。書類に多くの印影が捺され、点検作業が厳密に行われていたにも拘らず、こんな事態に陥っているのは、作業自体が漫然と行われ、機能不全に陥っているからに違いない。他人を信用すること自体を悪く言うつもりは無いが、点検の意義を理解せずに、右から左へ流すだけでは、無為無策に過ぎないこととなる。記録に残るものだけでも、気合いを入れてかからないと、今の社会では、汚点を残すことになりかねない。役割を果たさず、流しているだけの作業では、無駄なだけであることに、皆が気付くべきだろう。
意欲の減退だけが原因なのか。無知を曝け出しながら、それが恰も権利かの如く、知らされずとの態度を自慢げに貫く。現実には、様々な説明があったにも拘らず、それに取り合うことも無く、また疑問を呈することも無い人々に、理解を求めること自体、間違ったもののように思える。何が起きているというのか。
自らの限界を明示する傾向は、ある時期を境に強まり続けているように思える。一時の恥を避け、自らの無知を恥とも思わぬ人々に、意欲が降って来たとしても、何をどうするのかさえ、判らぬままに終わるのではないか。知らないことが権利の行使に用いられ、当然の如くの振る舞いを続ける人々には、理解という行為自体が、見慣れぬものになりつつある。活字になったものを請け売りする人々には、その文字の並びを覚えることはできても、内容を理解できることは無い。そのままに転写することはできても、真の理解が無いから、自分の言葉での説明ができない。こんな人々が社会に溢れると、いつの間にか、それが当然のものとなる。皆が同じだからという安心は、上を目指すより楽な選択として、好んで使われる。当然、成長過程にある若者たちにも、この悪弊は楽な道として選ばれ、内容の薄い話を、何の違和感も無く反復する。高等教育を受けようとする人々にまで、この気分は受け入れられ、限界を明確に示すことが、当然の権利のように主張する。何故、こんな事態に陥ったのか。教育現場の責任を問う声は、依然として大きいものの、そろそろ、核心に気付き始めた人が出て来た。心の成長にとって、最初で最大の影響を及ぼすのは、家庭環境ということだ。資質の問題も時に取り上げられるが、時代の変遷との関連からは、それより環境要因に重きを置くべきと思える。だからといって、個人の責任が無い訳ではない。
平等という感覚は、特に弱者にとって重要なものとなる。では、公平はどうだろうか。辞書によれば、前者は「身分・性別などと無関係に等しい人格的価値を有する」とあり、後者は「すべてのものを同じように扱う」とある。差別が前提の前者と、それに取り合わぬ後者、気分の違いだけでは無さそうだ。
そんな意味の違いからか、平等は頻繁に使われるように感じるのに対し、公平は触れる機会が減ったように思われる。この違いが何処から来るのか、例の如くの弱者保護だけが原因ではないのかも知れないが、そんな気を起こすような事例に出合うことが多い。同じ道を歩んだ人に対し、平等に資格を与えるという話を聞く度に、公平な判断からは、彼らの中に違いが見えるのではないか、と思う。しかし、努力ばかりに評価が偏り、成果を重視しない考え方は、成果主義の衰退を経て、この国特有の仕組みのように扱われ、妥当なものとの判断が為される。成果重視の見方が取り入れられる前、同じように地道な活動を重視する評価方式が専ら使われ、年功序列などと言われつつも、その欠点は余り目立たないままだったものが、成果を追い求める時代となり、落着きの無い仕組みが優先された結果、目先の利益を追い求める風潮が高まり、地道な努力は蔑ろにされた。その反動からか、最近は、努力ばかりに目が向き、そこから得られる成果を省みない傾向が高まり、成果無き努力を声高に主張する人々の姿が目立つ。努力が悪いとするのを避ける為、全否定が為されないからこそ、こういう非常識が罷り通る訳だが、結果を無視した評価は、正当なものとは言えない。公平性を欠いた平等主義は、悪平等への道との指摘も、そんな所から出てくる。水準を超えたからこその資格なら、誰も異論を唱えないのだから。
追悼や祈念という文字が並ぶ。亡くなった人を偲ぶ催しは、ごく個人的なものだが、祈念となると随分と雰囲気が異なる。更に、皆で集まって懐かしむのも、自治体単位の話となると、偲ぶという雰囲気は消し飛んでしまう。大きな災害がある度に、その後の催しは毎年行われるが、何かが違う気がしてならない。
故人の死を悼む感情に、個人の感覚は強い影響を及ぼす。集まる人も、それぞれの感情に基づいて、気持ちを一つにする訳で、誰に促された訳でもない。それに比べ、こういう行事が催される度に、個人の感覚が棚上げされ、何か別の力が強く働いているように感じられる。皆で同じ方向を見るのだから、という意見も、その気もなく並ぶ人々の姿を見てしまうと、途端に嘘くさく見えてくるから不思議なものだ。天の邪鬼の見方からすると、こんなことで記憶を長引かせても、脚色を施されたものとなり、伝えねばならないことは失われ続ける。一方、記念碑的なものの保存も、強く叫ばれているようだが、瓦礫と化したものへの思いは、保ち続けることが非常に難しい。原爆の祈念は、その中でも例外的なものだが、関係者の努力を象徴する存在として、残そうとする力が弱まることは無い。だが、それ以外のものについてはどうか。様々に残されて来た遺物の多くは、その謂れさえ失われ、忘れ去られた存在となる。津波の被害の大きさに驚く人々は、昔からの伝承を掘り起こし、その重要性を訴えているが、同じことがその昔に起きたことを考えれば、ただ残すことさえ難しいことに気付くべきだろう。言い伝えは消えてしまったから、遺物を残すべきとの意見も、半世紀前のことさえ忘れ去られつつある中では、効果を疑いたくなる。忘れないことの大切さは、他力本願では決して伝わらないのでは。