パンチの独り言

(2013年3月18日〜3月24日)
(基準、工夫、確かさ、氷解、罪作り、評判、自信)



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3月24日(日)−自信

 自分を信ずることから始まるのが自信、と言われて首を傾げる人も居るだろう。若者たちを代表として、自信たっぷりの行動を見せる人が居て、その多くが、何とも理解し難い言動を繰り返す。これらは、自信を通り越して、過信に走っているとの評があるが、まさにその通りだろう。では、自信と過信は何処が違うのか。
 自分を信じることは、確かさを持ち合わせないと難しいと言われるが、過信を堂々と見せる人々には、不確かさが見えないものらしい。自分だけの判断では、確かさを確かめることはできず、不安がつきまとうものだが、過信に走る人々は、それを拭い去る為に、一気に向こう側に飛んでしまったものに見える。そんな急激な変化も、心の中の葛藤からすれば、当然の結果と見なせるようで、何の違和感も抱いていないように見える。だが、異常さは極まるばかりとなり、暴走が繰り返された挙げ句、誰にも理解されない境地へと至る。常識の範囲内に留まっているうちは、少々の外道も見逃して貰えるが、ある線を越えた途端に、狂気への暴走が始まる。こんなことが繰り返された挙げ句、異常な行動が続出する状況は、現代社会が抱えた病いの一つかも知れない。何故、そんな道を歩むこととなったのか、一つの可能性は自信の形成過程にあるように思う。自らを信じて、ある考えを導き出した時、その確かさや論理性を確かめる手段は、何処にあるのか。多くの人は自然に気付いていて、それを実行に移しているが、他人との意見交換がその重要な場を提供する。そこでの議論が、考えの修正や新たな考えの導入を促す。ごく当たり前に見える手順が、最近は行われていないようだ。議論における反対意見が、誹謗中傷にしか見えず、非難されることを恐れる人々は、兎に角、自分の考えを磨こうとする。切磋琢磨に思える行動が、現実には、確認を怠った異常行動の始まりとしたら、どうだろうか。今の状況は、こんな問題が膨らみ、過信ばかりが幅を利かすものに見える。

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3月23日(土)−評判

 観光が一つの産業として注目されるようになってから、宣伝効果を求める動きが強まった。その中には、事実に基づくものがある反面、印象ばかりが前面に出され、事実に目を向けない傾向もあった。これが極端な形で現れたものが、風評被害の基となったのではないか。事実より印象を取り上げ、決めつけたものとして。
 事実は誰が見ても同じものと思えるが、実は、見方を変えるだけで、簡単に別の主張が可能となる。その中に、印象が入り込めば、更に違いは深まり、正反対の結果を導くことも可能だろう。見たままを伝えるにしても、同じことが起きる。映像に依存する情報提供は、事実をそのままに伝えるものとして、重視されてきたのだが、実際には、範囲を限り、一部を切り取った情報を流すこととなり、時に、全く別の解釈を導く。そのままと信じてきた人々にとって、解釈の違いは予想だにしなかったことであり、始めのうちは、誤解を生じる原因を探る為に、工夫を凝らしたのだろう。だが、その内、この違いを利用する人々が出始め、自らの主張を補強する手立てとして、映像を事実として利用し、その解釈を全く違う方に導くようになった。この辺りから、風評なる言葉も同時に使われ始め、その根源が自らにあるにも拘らず、他からのもののように扱う、まるで自作自演のような状況が生まれた。観光は、事実を第一とするものの、人間の印象こそが重視される産業分野だけに、こういった手法に対して、脆弱性を表面化する。人々の意見を中心として、如何に魅力的な対象かを主張すればするほど、実は噂に左右される状況を強める。こんな状態が続けば、人気に振り回される存在となり、結果的には、風評なるものに自らの運命を委ねることになるのではないか。それ程儚い存在に、頼る産業構造には、期待より注意を払った方が良さそうに見える。

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3月22日(金)−罪作り

 子供達の明るさを伝える便りは、昔ほど頻繁には届かなくなった。悩みを抱える子供達、虐めに苦しむ子供達、そんな姿を伝えることが、無意味だとは言わないけれど、それだけが子供の姿なのか、という思いを常に抱き続ける。被害者、弱者、そんな観点からの伝達だが、それを全てとすることが良いのか、と。
 普段接する子供達の姿は、画面の中で展開される話とは、かなりかけ離れたものに映る。明るい笑顔一杯の姿に、ほっとする気持ちが起きるのは、ごく自然の成り行きに違いない。その機会が得られることは、自らも幸せな気分の中に居ることであり、そんな環境が続いていることにこそ、安心への繋がりが感じられる。笑顔を見せる子供の近くには、必ず親が居て、子供の安心を導いている。悪いことをすれば叱られるだろうが、行儀よく振る舞えば、怒られることもない。こんな簡単な図式が、どこで失われてしまったのか、画面の向こうの世界では、不幸の極みにある親子の姿が映し出される。再度確認するが、これが悪いことと言いたいのではなく、これしかないというやり方に、不満があるのである。身近な存在には、見たこともないことに、それを見逃すことの罪を押し付けられたとしても、自分のことと実感することは難しい。一部の稀な例を引き、その問題を掘り下げることに、罪があるとは言えないだろうが、大多数の幸福な姿に目をやらず、不幸ばかりを掘り出すやり方は、どこか間違っていると思う。被害者保護、弱者保護に目が向くことは、成熟した社会の特徴の一つだが、その視点しかないのは、本当に成熟した人間の行動とは異なる。これに気づかぬままに、こんなことばかり続けていると、幸福が罪と受け取られかねないのではないか。

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3月21日(木)−氷解

 危険なことや不安なことに関して、事実ではなく、噂に振り回される人々の話が、様々な場面で取沙汰される。風評被害なる形で、事実無根の話に基づく判断が、別の被害に繋がることに、更に心配が膨らむこととなるようだ。一見まともな議論に思えることだが、時と場合により、全く違う反応が起きるのは何故か。
 事実を見極める力の減退が、噂に振り回される人々の増加に繋がったと言われる。結局、そこに居る人々の判断力が不十分であり、誤った方に自らを進めることとなる訳だ。だが、風評なる言葉がつけられた事柄と、同じような背景を持ちながら、それに繋がらなかった事柄を比べると、そこに、大した違いがあるように思えないことから、その違いを大きくする要素は、全く別の所にあるように思えてくる。食品に対する不安は、食べたくても食べられない、といった所から出ているように思えるが、実際には、それを食べることには大した欲求はなく、困っている訳でもない所から、出てきた問題に思える。これでは、その不安を解消する手立てを、如何に講じたとしても、大した効果が見込めないことになる。これに代表されるように、自分に関係ないことへの不安は、その大きさの割に、大した意味を持たないことが多く、真面目に考えることなく口にされただけに、拭い去ることが難しくなる。一方、同じような不安を招きそうに思える事柄でも、一向に盛り上がらない話題もある。例えば、治安に対する不安は、安全安心を第一に掲げる人々にとって、重要なものになりそうに思えるが、殺人事件が起きても、不安が膨らまない事例を見ると、そこに何かしら別の要素が働いていると思えてくる。観光地でも、事件が起こらない所は無いと思うが、そこに行きたいという欲求の強さが、不安を消し飛ばす作用を持っているのではないか、と思えることがあった。そこから見えてくるのは、不安を理由にする人々にとって、それだけが頭にあるのではなく、別の要素との天秤が動いているのではないか。だから、心配を真剣に取り上げるのは、無駄と思えてくるのだ。

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3月20日(水)−確かさ

 確率に弱い人間に、何故こんなものを与えるのか、と思った人は居ないのか。安全安心が当たり前に要求され、その思いに応えるのが当然との風潮に満ち溢れた社会、では、自分自身にとってはどうなのか。そんな問いに答える準備は、できているのか。死を恐れる気持ちが、不安の素となるが、自分の問題は如何に。
 僅かな可能性でも、不安が残れば消し去るべき、という感覚は、ごく当たり前のものとして、紹介されているけれど、その難しさを実感する機会は、多くの人には訪れない。他人事として片付けられ、要求ばかりが強まる世相に、諦めとは違った感覚を抱く人も居るが、手の施しようのない事態に、結局傍観するしか無いとなる。だが、責任転嫁や押しつけばかりが横行する中で、多くの事柄が自分の問題として取り組まねばならないことは、明らかではないか。それに気付かぬ人々は、全てを他人のせいにして生き続ける訳だが、自らの死の原因を問われることとなると、体質改善も含め、どんな生活を送るべきか、自分で決めねばならないことは明らかだろう。今回紹介された算出方式には、そんな思いが込められている訳ではないものの、出て来た確率の答えに対し、どんな反応を示すにしても、自分のことでしかないものに、他人事と片付けるわけにはいかない。にも拘らず、こんな話題に目が向くのは何故か。それは死に関わるものだから、当然である、との考えがあるのは、明らかだろう。だが、確率の無理解も含め、ただ安心の為だけに、数字を知りたがる人間には、知性の欠片も無い訳で、無駄なことにしかならない。こういう機会に、そんなことを考えたらどうだろうか。

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3月19日(火)−工夫

 資源に乏しい国では、人こそが財産となる、と言われる。人材育成において、第一となるのは教育環境であり、それを誇りの一つとして掲げて来た国が、いつの間にか遅れを取ることになったとのことだ。何がどう変わったのか、順位だけでは測れないものの、その解釈を眺めていると、いつもの的外れが見えてくる。
 先進国の平均の三分の二しか無いと言われる教育費に、どんなものが含まれるのかは判らない。しかし、家計支出を減らすことが重要とする見方が紹介されることから、単に公的教育環境でなく、教育に関わる全てのものが対象となっているように思えてくる。予算そのものは、不十分と見ればそう思えてくるだろうが、一方で、何が十分と見なせるのかは明らかではない。現場で働く人々の給与に関して、全体の平均からそれほど低い値を示しているとは思えないが、では、何が下げる要因になっているのか。一つ思い当たるのは、設備投資だろうか。校舎などの設備は大した違いが見られないだろうから、その多くは教育器具に関するものだろうが、最新の電子機器が話題の中心にあるのだろうか。教育の手段との絡みから、この支出が必ずしも質の高さに繋がるとは思えないが、数字だけを追い求める人にとっては、恰好の標的となる。低迷する産業への梃入れも含め、こういった動きはずっと続いているが、期待した程の効果は得られていない。更なる増額を、という思惑が見えるものの、期待はできないとの諦めも感じられる。工夫が強調された昔と異なり、現代社会は金の掛け方ばかりに目が集まる。その割に、それぞれの財布の紐はきつく縛られ、更なる支出を拒絶する空気に満ちる。この矛盾を解く手立てを見出さない限り、先は見通せない。要求ばかりが膨らむ話には、そろそろ飽きが感じられる。

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3月18日(月)−基準

 世界標準という呼び名の、何とも不思議な存在が、様々な場面で登場するようになってから、随分と時間が経過したように思う。その割に、それを使う時に出てくる反応は、以前と余り変化無く、過激なものばかりが目立つ。確かに、圧力に屈する形で、要求を受け入れる様子は、どれもこれも同じに見えてくる。
 人間の営みという観点からは、世界の何処に住む人々も、同じものを持ち合わせているように思えるが、現実には、全く違った見方や考え方があり、それに基づいて築かれる標準が、それぞれに違ってくるのは当然だろう。それを全てに通用する標準に変貌させるなど、言葉で表現する程簡単なことではない。にも拘らず、これらの考え方が台頭して来たのは、市場の境界が無くなったとか、商品取引を基本とする経営が中心となったことが、大きな要因となっているのだろう。しかし、それが別の商売の種を芽生えさせると判った所から、群がる人が一気に増え、新たな業種が次々と生まれることとなった。ただ、その後の経過を眺める限り、期待された程の成長は無く、一時の狂騒に比べると、暫く後には、安定という形の始まりが、冷めた様子を表すものとなった。もう一つ、気になることがあるとすれば、これらの騒ぎの中で、標準を決めることへの熱意は感じられるものの、それぞれの課題の本質を掘り下げる様子が見られないことに、重要な問題が現れていることだろう。それぞれが追い求めて来た本質を、見失わないままに基準を定められれば良いが、取捨選択を繰り返す度に、一部の都合が強まり、結果として大切なものを失うことになる。標準が最低限のものを定めるものである筈が、それを盛り込む形として作り上げられたものでは、各標準のそりが合わず、結果として、役立たずを作り上げることとなる。製品として考えられるものに、人間を当てはめるのには、異論が出ると思うけれど、標準に合わせて育まれた人々が、世界に通用するかどうかは定かではなく、何処にも通用しないことになりかねない。では、本質とは何か、この機会に考えてみては、と思う。

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