怪物と呼ばれる人々が居る。優れた能力を持ち、常人とは異なる活躍をする人も、そう呼ばれるけれど、最近はそちらより、常軌を逸した言動を行い、周囲全てを被害者とする人々に使われる。漢字を使えば区別がつかないからと、カタカナで評される人々は、家族を守る務めを果たしているだけにも映るのだが。
親としての務めは子を育てることにある。子育てには様々な障害があり、子供との関係だけでなく、子を取り巻く環境との関わりも重要となる。だが、ここで怪物と呼ばれる人々の多くは、あらゆるものを自分中心に解釈し、身勝手な論理を周囲に押し付ける。自らの誤りに目を向けず、家族の非常識に気付かず、全ての原因を他に求める。その結果、要求は高まるばかりとなり、理不尽なものばかりが目立ち始める。親は子の鑑と考えれば、こんな行動が何を産むのか、再生産に励む人々の行動が、社会の崩壊を招くとなる。無償の愛などという言葉も、この手の話とともに出てくるけれど、思惑に満ちた言動には、そんな表現が的外れと思えてくる。子供の為とは、表向きの言葉で、現実には、自分の立場を守る、自分の権利を守る、そんなことしか頭に無い連中に、欲望以外の考えは無い。論理の組み立ては、人との関わりにおいても、理解を促す為に重要な要素だが、利己的な考えや他を貶める考えに、論理の必要性は生じない。そう考えると、相互理解も無用の長物だが、他人に眼差しを向けぬ人が、たとえ、自分の子供としても、冷静な観察眼を持ち合わせられるかと言えば、それは無理と答えるしかない。何故、こんな状況に陥ったのかは、相も変わらぬ考えに基づけば、核家族という小さな社会の形成が、一番の要因なのだろうが、現実には、常軌を逸した考えは、その人自身から生まれるものである。問題は、争いを避け、批判を忘れた社会にこそあるのではないか。
災害を免れる為の知恵は、本来世代を跨ぐ形で伝えられて来た。先祖伝来とは、少し違った様相だが、血族を保つ為に、重要な要素の一つだったのではないか。大家族制度が核家族に変貌した頃から、親子関係を越える繋がりは一気に薄れ、相伝は不確かなものとなった。家族の連帯感は狭まり、知恵の伝承は消え失せた。
伝えられなくなったものが、何処かに残っていたのかは判らないが、震災後に、各地で掘り出された情報には、そんなものが含まれていたようだ。だが、後付けの話では、本来の意味は失われており、事前の備えとしての意味は、見失われていたとなる。地名にしろ、言い伝えにしろ、それぞれにある思いを持てば、本来の意味を見出せるのかも知れないが、次々と捨てて行った人々にとっては、地名変更も当然だし、伝説は遠い時代のことに過ぎず、関心さえ抱かれない。役立たずの親子関係を断ち切ることが、災害を免れる最良の手立て、と言っては、言い過ぎを咎められるだろうが、自分を中心におく考え方や、最悪を想定する考え方を、子供たちに教え込んだことが、これ程に評価される時代は、何かが間違っているとしか思えない。個人や家族に限定された話ではなく、社会全体で最悪を想定する話が、重視されるようになってしまうと、それに乗っかる人々や産業が跋扈することとなる。個人の自由に任せることが、その基本に有る筈が、有り得ない話が取り上げられる時代には、それを儲け話に繋げることができるようになる。異常とも思える事態だが、騒ぎに加わる人々は、真面目な顔をして真剣に取り組む。これ程狂気に満ちた言動が取り上げられ、巻き込まれる人が増えるようでは、この先、大変なことになるしか無いように見えるが、どうだろうか。
やはりと思った人も居るのではないか。騒ぎを大きくする方に向いた人の話に、不安を煽る勢いを増し続けている情報伝達業界は、挙って飛びついたものの、科学的根拠の希薄さは、冷静な目を向ける人々からは、異常とも思える状態となる。嘘を吐くにしても、その方向によって、罪の有無が変わるという、不思議な話だ。
まずは、想定外を無くそうとの考えから、記録に残ったものを遥かに上回る想定を設け、甚大な被害を十分に有り得る話として発表した学会は、科学的根拠の確かさより、想定外を排除することに腐心し、狂気の沙汰とも思える話を流した。学者としての矜持とは何か、そんなことを考えたくなる程、非科学的な論理に基づく想定には、本来注意深く接しなければならないのに、伝達者は無知を曝すが如く、危ない部分を切り取って伝える。有り得ないものへの可能性を論じるのなら、この星の破裂に思いを馳せたらどうか。千年単位であるかどうか分からぬ話は、十億年単位の年齢と言われる星が、経験したことの無い災害が有るのなら、何でも有りと思うべきだろう。同じ学会の関わりだが、危機に陥った場合の被害が甚大との観点から、活断層の有無が盛んに取り上げられていた。だが、そこでの議論では、科学的な論拠の不足や、場合によっては根拠の無い想像の産物が、議論の対象となることに、違和感を抱いた人も多いだろう。見方による違いとするには、余りの情報不足に呆れるしか無く、更には、活断層の定義さえ、現状では不明確であり、人それぞれに独自の基準を持つ状況には、何を議論しているのか、判らなくなる。これ自体も恥知らずの現れに思えたが、地震の基とされる活断層が、学者たちの分析により認定された話が、実は学者の仮面を被った無知蒙昧な人々による、作り話だったことには、呆れを通り越す気分しか残らない。地震の予知を第一として突っ走った結果、それにしがみついた人々は、科学を見失い、妄言を吐き続けた。恐怖を煽る話題に、多くの資金を注ぎ込んだものの、その結果は、人間の能力を含む学界全体の凋落を招いただけだったようだ。
確率から見れば僅かな可能性しか無いのに、目の前で起きた惨劇に、心穏やかに居ることができない。同じ災害が起きる確率は、少し小さくなったとは言え、全く無くなる訳でもなく、その上、従来の楽観的な見方が否定された為に、現実をも上回る想定をおくこととなる。心配を膨らませ続け、破裂させたいのか。
その地域であれば、何処かで理解できる部分も見出せるが、対岸の火事と眺めていた人々が、想像を絶する大きさの想定が設定され、慌てふためくこととなった。だが、確率の話に戻せば、依然として低いままであり、自らの命が絶えるのとどちらが先になるかは、はっきりとしない。にも拘らず、心配ばかりが膨らみ続け、訓練を繰り返すことで安心を得ようとする動きは、強まるばかりのように取り上げられる。だが、あの震災以前の状況を思えば、こんな騒ぎは一部を切り取っただけであり、全体の状況を表すことにはならないと思われる。備えあれば憂い無し、と言われるものの、どうも、姿無きものに対する心配は、元々無いだけに、消し去ることは難しいようだ。一方、避難という観点から見れば、弱者の保護も蔑ろにはできず、高齢者への配慮が重視される。自力での行動がとれない人々を、どう助けるべきかは、あの時も大きな問題となり、それによって命を失った人も居ると報道された。何とか効率的な手立てを講じたいとする動きに、冷や水をかける訳ではないが、ハードの面に手立てを講じず、ソフトだけで応じるのには限界がある。もし、立地条件が課題となるなら、そういう被害が及ばぬ場所を選ぶことを、もっと真剣に考えるべきではないか。と言っても、そうなればなったで、また別の災害に襲われる可能性が高くなる。ことはそう簡単には片付かないものだ。その上で、果たして、確率は何を意味するのか、また、弱者とは誰を指すべきなのか、考える機会を作るべきではないか。
嘗ての栄華は何処へ行ったのか。優良企業の代表格として、様々な機会に取り上げられていたものが、いつの間にか様子がおかしくなり、株式公開買い付けの対象となる。勢いが維持されていれば起きる筈の無いことだが、衰退の一途を辿るとなれば、これも致し方ないとなるのか。時代の流れとでも言うべきか。
親から引き継いだ資産を、その人脈をも利用して膨らまし、不動産の高騰の勢いに乗って、兄弟が経営する企業は、共に急激な成長を為した。だが、泡銭を頼りとする産業は、泡が吹き飛ぶように消え去り、多くの企業が姿を消し続けた。それでも、別の事業を担っていたことで、何とか存続できていたものの、厳しい時代が続いていたようだ。多様な業種の混合により、ある程度の業績が維持できたとしても、採算の合わない部分は切り取る必要が出てくる。しかし、公共交通に関わる部分となると、社会的責任との関わりが出て来て、安易な変更はし難い状況にある。そんな中で買い付け話が出てくるとなれば、どんな態度をとるにせよ、難しい状況に追い込まれるだろう。もう一つの例は、神様とも呼ばれた経営者により、驚異的な成長を遂げた大型小売店が、勢いを失った結果、凋落した企業の話である。再生法の適用を受け、支援を得ていたものの、業績は回復すること無く、低迷が続いていた。その要因として挙げられたのが、支援企業間の意見の違いとあり、当然のこととして、一本化に向かうと言う。だが、その主がこの業種を寡占化しそうな勢いを持つ所となると、どうしたものかと思えてくる。続々と登場する、郊外型の大規模施設を運営する組織は、あの経営者と同様に、一部で崇め奉られる存在が興したものだが、今では二代目となっている。必要に迫られて、というのが理由なのかも知れないが、これ程の拡大を続けることに、首を傾げる人も多いのではないか。それが、嘗ての名声を誇った企業を子会社化するとなれば、何が起きるのかと心配したくもなる。ある時期から、大きさが重視されて来たから、こんな動きは当たり前のことかも知れないが。
力の有無が決め手と言われる。弱者と強者の違いは、力を持つかどうか、と言われるものの、その多くは、首を傾げてしまうものだ。力の行使とされるものの内、大部分は、審査や評価が関係するものであり、その過程を経てこそ意味を持つものに対して、力という言葉で括るのは、制度自体を冒涜するものとなる。
資格などに関係するものに対して、問題なければ認めるべきとする考え方は、最近強まっているように見える。褒めて育てる、という方法が、海の向こうから流れて来た時、成果が上がれば問題無しとなるものの、現実には、褒めて伸びた筈でも、合格点に達しなかった人々に、その努力を評することが、重視されるようになった。だが、努力を認められたとしても、所詮、何の意味も持たない勲章を与えられるようなもので、すぐに批判の雨が降ってしまった。そこに登場したのが、ごり押しのようなやり方ではないか。やるべきことをやったのだから、合格とすべき、とは、馬鹿げた考え方としか思えないが、主張する人々は、真剣にそう信じているようだ。努力が認められるべきとは、間違った考えとは思わないが、それが実力の評価となるべきは、呆れるばかりの考えだろう。その際に、力不足を指摘されたことに対して、力の行使の問題へとすり替えるに至っては、話にならないとすべきことだ。強弱の問題としたい人々にとって、自らの権利の主張こそが第一であり、自己評価には、他者による正当な評価をも消し去る根拠があるとなる。下らない考え方と片付けるのは、さほど難しくないものの、社会全体に異常な風潮が目立つ時代には、思わぬ障害が立ちはだかることとなるかもしれない。
何か事がある度に取沙汰されるものに、インフラ整備がある。インフラとは、infrastructureの略であり、基盤と訳されたり、基幹施設と訳されるものだが、その整備が重要視されるのは、基礎を固めておくことの大切さを表すものだろう。当然に思えるものだが、その割に具体対象は明確ではないようだ。
確かに、それぞれの基盤により、対象が異なってくるのは当たり前だろうが、それにしても、毎度お馴染みの整備の必要性においては、新規なものを優先させる動きが強く、再利用は嫌われる傾向がある。経済基盤の観点からは、資金注入とその調達方法が重視され、如何に大きな経済効果が見込まれるかが、評価対象となる。成長が続いた時代には、こんなことを論じる必要も無く、次々に新たな資金を用意し、それを活用する手立てが講じられて来た。しかし、成長が止まり、下降とも見なせる状況となると、資金には制限が加わり、効果の有無ばかりに目が向き始める。少ない資金で大きな効果を期待するのは、こういう時代の常道に見えるが、それまでとは全く異なる視点が必要となり、評価基準も様変わりすることとなり、多くの動きが鈍重となり、変化は小さくなるか、時には、全く起きなくなった。停滞の気分を晴らす為には、思い切った策を講じる必要があるが、こういった状況に陥ると、簡単には動けなくなるものだろう。新たに作る必要性を説く力を、少しでも再利用に向ければ、様相は変わるものと思えるけれど、その機運は高まっているとは思えない。従来のものを壊し、新たに作り直す、といったやり方が当然だった成長期に、見向きもされなかったやり方ではあるものの、停滞期には、やはり再生や再利用による整備こそが重要となる。