パンチの独り言

(2013年4月1日〜4月7日)
(差異、気を惹く、零す、往生、活字、来歴、論理飛躍)



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4月7日(日)−論理飛躍

 亀の甲より、と言われたものに、意味を見出せない人が増えた、という話を書いたが、どう感じただろう。くどい話を敬遠することも、訓話めいた話を忌み嫌うことも、説教に近い感覚を抱く為と思われるが、どう受け取るかは聴き手の自由なのだ。それを忘れて、神妙に聞き入ろうと無理すれば、嫌気がさすのもやむを得ない。
 確かに、年の功と言われるだけある、と思える話がある一方、独り善がりの話を延々と続け、自らの話に酔い痴れる姿をさらす人が居るのも、事実に違いない。個々の付き合いで、そんな経験をすることは偶にあるが、最近は、それが公の場で行われるから叶わない。講演会や教室での自慢話もその一つだろうが、それより気になる存在が、新聞や書籍の活字の形での独善と思う。自慢話にも辟易とさせられるが、更に深刻に思えるのは、論理性の欠如とそこから生まれる断定の羅列にある。希薄な根拠に基づき、憶測を山積みした上で、自らの結論を断定的に提示する。何処にも証拠が無い話でも、人の興味を引き寄せられれば、それで十分という考え方は、老若男女を問わず、急速に広がっている。その危うさに警鐘を鳴らす人々にさえ、無理筋の展開を好む傾向があり、深刻な状態にあることが解る。論理性の欠如についても、乱雑に並べた考えから、ある結論が導き出せるかの如く振る舞う人々が、活字の世界で活躍するのを眺めると、重い病に冒された社会が、快方に向かうことは困難に思える。先日取り上げた本の著者のように、言語の重要性を説く人々さえ、そんな傾向を見せる時代には、どんな手立てが必要か、考えるだけでは駄目なのかも。

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4月6日(土)−来歴

 年長者と話すのが苦手、と言う人は多い。緊張するという理由もあるが、同じような話を繰り返されるのが、というのが多いようだ。経験を積んだことから、その肝心な所を伝えようとして、同じことを繰り返すのだが、その意味も意義も受け取れない人にとっては、単なる反復にしか映らず、くどい話にしか見えない。
 話し手と聴き手で思いが異なるのは、仕方の無いことかも知れないが、肝心な話が伝わらないのは、どちらにとっても残念なことだろう。昔から、こんな状態はよく知られる所だが、最近の傾向で気になるのは、伝承が危うくなっていることだろう。一部に年寄り嫌いが居た時代と違い、今は殆どが人の話より教科書にある話を重視する。同じ話を読みたければ、何度もそこを開けばよく、自分の調子で進められる。受験に出るかどうかが最重要であり、その傾向と対策に時間をかければ、成功を勝ち取れるというのも、この傾向を強める要因となる。ただ、それより深刻に思えるのは、断定的に書かれたものなら覚えられるが、様々な可能性を例示するものについては、複雑で理解できないと思い込む傾向だろう。人の話には断定的な部分がある場合もあるが、その多くは彼方此方へ揺らぎ、一つに決められないものとなり、可能性を多く知ることこそが、話題を広く捉える為に重要となることを示している。もう一つ、教科書の気になる点は、その多くが事実を正確に伝えることを第一とし、その事実がどのような背景で見出されたかを、説くものが少ないことである。人の話には歴史が含まれ、ある結論を導くにしても、そこに至る道筋をも含めながら、説明を施すことが多い。歴史を軽視する動きは、こんな面も含めて、最近強まるばかりに見えるが、その危うさに気付かぬ人々が、これ程増えてくると、心配は膨らむばかりとなる。

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4月5日(金)−活字

 本離れが何故起きたのか。様々な理由が挙げられるが、実際には、徐々に起き始めたことに、次々と新たな要素が加わったようだ。漫画を元凶に挙げた人も居るが、今では、そんな声は小さくなった。文字と絵の違いがあるとは言え、本という媒体には変わりがない。ただ、文字による理解は、衰えたようだ。
 言葉の理解が、互いの意見の交換や知識の獲得に必要ということは、皆が了解していることだ。しかし、その力が減退した時、どんな手立てが有効なのか、確実な答えは見つかっていない。とは言え、力不足が歴然としてくると、何とかしなければならない、となる。学校教育では、何か肝心なものが欠けているからか、大した効果が上がっていない。必要になれば変わるだろうという期待も、役立たずを目の前にすると、怒りが先に立ち、消し飛んでしまう。再び、現場に戻された責任も、当事者たちの能力不足を露呈させるだけで、教え育む体制はできていない。達成できぬ目標に、苛立つ一方で、責任の先送りという常套手段が為されると、それは初等から高等へと投げられて来た。社会に出る直前には、解決せねばならぬ、という命題に、どんな方法が有効なのか、迷走が続いている。読む力、書く力、どちらも不足する人々を相手に、何処から手をつければ良いのか、見えていないのが一番の理由だが、この状態では、何とも手の付けようがない。必要こそが、という期待も、その気にならぬ若者たちを目の前にして、一気に萎んでしまうのが現状だろう。そんな中で、読むべき媒体を売る業界に、大きな変化は起きていない。本来なら、彼らこそが打開策を講じるべきだろうが、この業界でさえ、答えを見出せないままのようだ。逆に、示唆に富んだものより、人気を優先させる風潮から、吟味をせずに放り出す傾向が高まり、本離れに拍車をかける状況が続く。中でも、言葉の理解に関する本に、今読んでいるものを含め、独善と無知を曝け出すものが目立つのは何故か。

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4月4日(木)−往生

 体験不足が問題となり、それを補う試みが行われている。社会に出る直前のものについては、何となく理解できる部分があるものの、遥か彼方にある将来に向けての試みとなると、一体全体何の為かと首を傾げたくなる。転ばぬ先の、といった気持ちが親にあるのは解らなくもないが、満足げな顔には愚かさが見え隠れする。
 子供たちに働くことを体験させる、そんな施設が作られた時、体験の重要性が強調され、施設の意義が強く訴えられた。それ自体を否定するつもりは無いが、遊びの中から働くことの楽しさを見出すという目的ではなく、向き不向きを含めた適性を探るという思惑が、そこに現れるに至るとどうかと思えてくる。それも、親が関わることで、将来を考えさせる、などと話す姿が見えると、何たる思い違いかと呆れてしまう。経験の重要性は、いつの時代も変わらぬものだが、それが束縛へと繋がる考え方には、子を思う親の心より、親の満足を得る為の身勝手な思いが見えて、やりきれない気持ちになる。どんな時代も、子供たちの可能性は広がっている。にも拘らず、親の子を思う気持ちは、それを塞いででも、確実な道を選ばせようと、強く働く訳だ。転ばせずに安全な道を、という気持ちに、そんな考え方は当たり前に映るだろうが、経験とは良くも悪くもなるものである。良いものだけを選んで与えるという手法に、反対を主張することは難しいが、可能性という観点からすれば、明らかな間違いとなるのではないか。安定期に入り、先行きの見通しができるようになってから、どうも、こういう考え方が蔓延るようになった。熟慮の上と見えて、実は浅慮の果てといった行動が、目立ち始めたのは、見えたと思い込む人が増えたからなのかも知れない。

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4月3日(水)−零す

 地方都市の悩みが続いている。中央集権の見直しから、地方への委譲が試みられ、自由化という言葉も飛び交った。表向き、そんな方に向かうように見えた改革も、現実には、責任を投げ出す形となり、選択と集中という流れから、多くの小都市が維持が困難となり、合併という選択を迫られた。だが結果は芳しくない。
 上からの強制の形での共同作業は、方向が定まらず、互いの権利や主張が出るばかりで、意見の統一は困難を極めた。しかし、いつまでも迷走状態で留まる訳にも行かず、多くの都市で新たな試みが始められている。時流に乗るかどうかが肝心、のような動きには、疑念を抱かざるを得ないが、何もしないよりはまし、といった状況にあることは確かだろう。首長たちは、様々な提案を吸い上げたり、自ら編み出すことにより、旧弊を改めようと躍起になる。こんな様相を眺めると、改革とは意外に簡単なものかと思えてくるが、その後の変遷を振り返ると、怪しげな雰囲気の方が強く見える。役所仕事の堅苦しさを、少しでも和らげようとすることから、SNSなどの仕組みを導入するなど、注目を浴びている自治体では、経費削減を狙って、図書館などの業務を外部委託することとなったとある。これ自体は、他の都市でも検討されているが、その報道の中で、少し気になる部分があった。首長が自慢げに語る図書館の社会的役割の中で、人との関わりの形成の話があり、その一助として海の向こうからやって来た飲食店の出店を紹介していた。どんな運営が為されるのか、説明が無かったので、誤解したのかも知れないが、公共の財産たる書籍が、汚されることを心配する向きもあるのではないか。雰囲気を盛り上げるという観点と、最低限のモラルを論じる考えでは、何事にも答えを見出すのが困難なのだが、ここでも同じような議論が起きそうだ。実はこの手の話、多くの図書館で問題となっているようで、人が寄ってこないことへの悩みが、こんな形で表面化しているようだ。

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4月2日(火)−気を惹く

 名が売れた組織が関わると、話題を集め易い。市場原理と同じく、最近の傾向だが、それが必ずしも中身の質を伴うとは限らない。劣悪なものでも、有名所が手を出すと、途端に皆が手を出し始める。これが失敗の始まり、との考えは、これまでの経験から確かになりつつあるものの、勢いに流されてしまうらしい。
 時流を読み取ることの重要性は、経済界のみならず、あらゆる世界に重要との考えが、定着しつつある。だが、その中身を眺めてみると、余りに杜撰なものが目立つことから、時流に流されるとの表現が、的確とも思えてくる。流行は注目を集めるものであり、そこには失敗が無いとの見方もあるが、現実には、ある目論見に基づき、都合の良い話ばかりを並べることで、詐欺にも似たものがあることに、注意しなければならない。何故、そのようなことが起きるのか。簡単には、流行に惑わされる人心に、その大元があるに違いない。市場原理という言葉が頻繁に使われ始めた頃、まさに、人気を勝ち取るが如くの手法が、持て囃されていた。本質で勝負するのでなく、単純に、上辺の飾りを比べ合うという方に向かうのは、実力本位の世界から遠ざかる端緒となった。如何に人気を集めるか、質さえ良ければと考えた国は、全体に停滞の憂き目を見ることとなり、厚化粧で勝負した国が、依然として優位を保つことを見ると、こんな原理は無意味と思え、百害あって一利無し、という雰囲気さえ漂う。これが経済に関わる領域に限られていた時には、銭儲けに走らぬ人々は、興味さえ抱かなかったのだろうが、全てがそれに繋がるとの考えが導入されると、あらゆる場に時流が持ち込まれ、世界との競争が強いられることとなった。教え育む為の組織も例外ではなく、国際化の波が押し寄せていると伝えられる。現実とは異なるとも思える話に、目を向ける必要は無いと心に決めていた人々も、有名所が食指を動かし始めると、心穏やかには居られない。続々と編み出される改革に、組織挙げての行動かと思われたが、実際には、一部の首脳陣のみの狂騒であり、組織内にも冷たい視線が飛び交う。本質を見極めることを諦め、装飾や化粧に腐心するのは、上に立つ人間のやることでなく、早晩消え去ることかも知れない。

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4月1日(月)−差異

 性差を取り上げる話題は数多ある。被害とは、そんな中で注目されるもののようで、差別を主題として、そこにある問題を論じることが、人々の興味を集めることに繋がる。差を当然のものとせず、それを無くすことこそが、目標となっているように見える。だが、差は歴然とあり、埋めることは必ずしも正しくはないのでは。
 生き物としての役割に、性差は大きな意味を持つ。しかし、人間社会では、それとは別の役割を殊更強調し、そこでの差を論じることで、性差を無くしたり、減らす努力が行われている。渦中の人々にとって、差別は邪魔なものであり、無くすことを望むのは当然だろう。しかし、差の有無は論じるまでもなく、個人差の存在から見れば、有って当然という考え方も、認めざるを得ない部分も大きい。それを男と女の問題と見るか、人間の問題と見るか、の違いによるものだろうが、こんなに強く訴える必要があるかどうか、についても、もっと話し合った方がよさそうに思う。ある場面での差を無くす為に、別の場面での差までが影響を受けては、人類の将来を揺るがすものにならないか。そんなことを主張すると、愚論と一蹴されてしまうかも知れないが、本来の役割が、生物の種の存続の為とすれば、時に、それを見失うことは、基盤を揺るがすことになりかねない。仕事上の役割を崇高なものとし、生物としての役割を低いものとするような考え方には、何か別の大きな問題が、隠されているように思えるのだが、どうなのだろうか。

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