エコと聞けば、即座に環境に優しい、という印象を浮かべる。そんな世の中、そんな時代になったのだろうが、実際には、それだけではない、裏の暗い現実がある。環境とは、自然が作り上げたものであり、その中に人間も存在するが、その存在そのものが環境破壊に繋がり、元に戻せぬ事態を次々に招いて来た。
そんな中で、環境保全という言葉が編み出されたものの、保全の意味が「保護して安全であるようにすること」とあることからは、誤用に近いものかと思える。人の手が入った所に、破壊が広がる事態となり、それを元へ戻そうとする力をかける、といった意味に使われる言葉だが、人間を特別視する文明にとっては、環境とは利用するものに過ぎず、その価値が無くなれば、捨てるという考えが当然だった。それとは違う考えを持つ文明では、里山などという言葉が用いられ、自然と人間の共生が存在していた。その後、外から入った近代文明と呼ばれた工業化により、ここでも破壊が続いたものの、過ちに気付いた人々は徐々に共生へと戻り始めた。こんな中で、エコが使われ始め、環境を考えることの重要性が、強く意識されたものの、実は、根底で全く別の考えが蠢いていることに、気付き始める人も居る。ここで言うエコは、ecologyの意味で使われるが、同じ語源を持つ別のエコが、黒い流れを作り出す。こちらは、economyであり、環境破壊を当然とした文明が、発展の果てに行き着いた、最重要の課題とするものだろう。二つのエコは、本来相容れぬものであり、両立は困難であるのに、使い分けで誤摩化す動きが強まる。その最たるものが、再生可能エネルギーに関する議論にあり、環境を優先するような方策が編み出されるが、そこには別の思惑が蠢き続ける。大きな目標を掲げたように見せて、現実には隠された目標を目指す。二つのエコが行き着く先は、エゴという下らないものにしかならない。
自由な発言は推奨される。その一方で、勝手な発言には怒号を含め、様々な叱責が飛ぶ。現実社会では当然のことも、電脳世界では全く違った様相が見えてくる。責任を伴った言葉が並ぶ中に、無責任に曲論を展開する人々が居る。罵声を飛ばすだけでなく、嘘や偽りを含めた罵詈雑言を並べ、相手の人格さえ踏みにじる。
こんな話を書くと、そんなことは現実の中にもあると反論する人が居る。ひそひそと内緒話をする、当人が居ない中での井戸端会議で悪口を飛ばす、そんな行動が、通信機能を利用したひそひそ話と同じであるとするのだ。面白いのは、それに参加している人々の心理で、自分は隣に居る人間と、内緒話をしている気になり、とても人前では話せない内容にまで、何の抵抗も無く発言が及ぶ。友人の耳元に囁きを届ける気持ちで、他人の悪口を並べ立てる人は、そんな声が世界中の人々に届くなどとは、露程も思っていない。だが、一度電脳社会に広がった言葉は、発言者本人も含め、誰も打ち消すことができないものであり、密室での発言のつもりが、大衆の面前での発言となり、侮辱や侮蔑の言葉を吐く人間は、自らの品格さえも失墜させることとなる。若気の至りと言われる一方で、本人の面前でも、大勢の中でも、そんな発言をする勇気さえ持たぬ人間が、端末を相手に、好き勝手な発言を入力し、溜飲が下がる気になる訳だ。その時には、誰にもばれず、友人たちとの内緒話と思っても、数時間後には、悪口の相手だけでなく、不特定多数にまで、恥をさらすことになるとは、想像だにしていないのだろう。だが、無責任な発言は、実は公に向けられたものとなり、下らない人間であることを、知らしめることとなる。この違いを区別できず、欲求を満たす為だけの行動を繰り返せば、信用を失うばかりか、自らの権利をも失うことに、さっさと気付いたらどうか。
新しい生活を始めた人も、そろそろ二週間が過ぎようとする中で、自分の調子を意識し始めているのではないか。新生活に夢を抱きつつ、不安も抱える中で始めたものが、徐々に、どちらかが膨らんでくる。順調に行けば何のことも無いものが、壁を意識した途端に、厳しい道程が見えてくる。外から見ると何も変わらないのに。
安定という言葉が鍵となって以来、変化は嫌われる存在となり始めた。そのままであれば、何の心配も要らないのに、多くは外からの力によって、変化を余儀なくされ、強制される感覚を持ちつつ、受け入れようとする。だが、自らの希望での変化にしても、様々なものが違ってくることに変わりは無く、それに対応することが必要となる。昔は、節目節目でそんな目に遭うことが、ごく常識的なものと捉えられていたから、自分も含め、周囲もそのつもりで見守っていた。だが、最近は、そんなものへも万全の備えを施し、変化を意識させないような配慮が取り入れられた結果、当人たちは、変化を感じないこととなった。安心や安全の為と称する、こんな手助けが横行することにより、肝心の人々は、適応力の減退が目立つこととなる。知らないことは解らない、という不思議な感覚も、そんな中で生まれたものであり、新しい環境の中で、未知なものに接する機会を得ることは、楽しいことでは決して無く、邪魔なものとの考えが出てくることとなる。知識を得るのは、何も学校に限ったものではなく、新たな環境への適応において、必要となる筈のものである。その機会を失うことは、変化に耐えられず、苦境に陥ることへと繋がるが、そのことに気付かぬままに、現状維持を望む人が居ることに、毎年、この時期に気付かされるのは、面倒なことに違いない。妙案が出てこないのは、社会全体の抱える問題だからだろうが、自覚を促す以外に手立ては無いのだろう。
当然のことと思っているのに、それが当たり前にならない。そんな状況に苛立ちを覚える人々が、山のように文句を積み上げる。小さな諍いは起きるものの、半世紀より長い間、世界規模の紛争が起きていない時代に、安定を感じる人々は、僅かな変化にも敏感であり、特に、悪い方へのものに過敏になっている。
安定な中で求められるものは、安全と安心のようで、生活の保障は当然であり、更なる上乗せをも要求する人が居る。不安定な時代には、安全や安心を手に入れる為に、日々の努力を積み重ね、僅かずつでも前進することに、小さな満足を得ていた。過大な要求は不相応であり、分相応な生活を弁えていた。ところが、安定な時代に入ると、それが当然のことと思い込み、上を望む気持ちが強まって来た。安定だからこそ、頭打ちの状態になる訳で、上を望むのは不相応に思えるが、どうも、庶民の考え方は、全く違っていたようだ。閉塞感が強まるに連れ、それを打破する方策が講じられると、その後押しで、自らの状況も好転する筈と信じるのは、如何にも庶民感覚に思われているようだが、分相応を当たり前とする人々には、そんな高望みは微塵も無いだろう。一方、安定に浸かった人々は、それを失うことへの不安を膨らませ、まるで権利を剥奪されるが如くの反応を示す。当然と思えば思う程、この気持ちは高まるばかりとなり、自らの手で勝ち取ったものでないだけに、異常と思える程の不安や心配を並べ立てる。極端なものには、不安を解消するのが当然と、種々雑多な要求を突きつけ、不安を抱くのは弱者の証であり、彼らの救済こそが社会の務めと、身勝手な論法を展開する。そろそろ、無視すべき愚民を選び出し、別の枠へ押し込めるくらいの乱暴さが必要なのかも知れない。
危機管理の大切さがこれ程までに強調されるのは何故か、不思議に思う人も多いだろう。だが、隣国の不穏な動きに心穏やかでなくなると、さてどうしたものかと思い始める。それは上に立つ人間も同様で、落ち着かない顔を見せ、不安を隠せぬ様子を窺わせる。こんな人で、大丈夫かと思った人も居るのでは。
人間は窮地に追い込まれた時に、その真価を表すと言われるが、そこまで行かぬうちに、お里が知れる人も居るようだ。評判の悪かった人でも、一部には高い評価があるようで、恐怖にかられる事故の対応も、様々な間違いが指摘されるとは言え、最悪の事態を回避できた点では、正しく評価すべきとも思える。後が無い状態に追い込まれても、毅然とした態度をとっていた頃には、ずっとましな状態にあったと思うが、交替後は、すっかりおかしな具合に陥った。真価とは、鍍金のようには剥がれぬものの筈が、こんなことになるのは、やはり真の価値ではなかったか、と思ったりもするが、始めから真価を示せぬ人間を眺めると、どうしたものかと思うしかない。危機に陥った時に、どんな態度をとるか、どう振る舞うか、そんな重要なことが、まともにできない人間が、指導的立場にある事自体に、がっかりさせられるのだが、今は、それが至極当然の時代なのかも知れない。自力で難局を乗り切ることもできず、何処かから手が差し伸べられるのを待つだけでは、人の上に立つこともできない。そんな人々が、どんなドサクサなのか、いつの間にか枢要な立場に就くこととなる。棚から牡丹餅と思ったのも束の間、矢面に立たされる気分に、落ち着かぬ様子を見せる。そういえば、その人を指名した、今脚光を浴びている宰相も、あの頃はそんな雰囲気を漂わせていたな、などと考えてしまう。
呼び名の重要性を説く人々は、それを使った表現を多用するようだ。正確な情報伝達より、直感的な理解を優先する手法では、一言で物事を言い表すことこそが肝心となり、その為の表現を探ることが優先される。まさに人の心を捕える為のキャッチこそが第一と、言葉を編み出し、多用することで定着を目指す。
馴染みの無い言葉でも、何度も聞かされている内に、馴染んでくることがある。始めは通じなかった表現が、いつの間にか、共通理解を促すものとなる訳だが、その辺りから、問題が生じ始めることに気付かぬ人が多い。同じ言葉を用い、互いに理解し合っていると思ったのに、実は、全くの誤解だったとなることがある。流行言葉を使えば、長い説明を端折ることができ、短時間で相互理解に至ることができる、と多くの人が思っている訳だが、現実には、説明不足とは少し違う形で、問題を残すこととなる。フレーズが何を表すかは、同じ言葉が続けて使われている中でも、徐々に変化することが多く、どの時点での使用かによって、内容が微妙に違ってくることがある。時に、変化が急激な場合、微妙とは括れぬ程の大きな変化もあり、理解の相違が許容を越えることとなる。今時の経済の変化を、時の首相の名をもじった言葉で表すものも、騒動を起こした前回の時とは、意味も中身も違っており、人々は良い結果を産んだものに対して、好んで使っているようだが、的外れなものも含め、核心を突くものは少ないようだ。過程を表す為の言葉を、結果に対して使うことの危険性は、皆が知っておかねばならないことだが、流行に流される人々の頭には、そんな警句が届くことは無いらしい。
突然の電話に驚く心に、付け入る言葉が突きつけられる。一の矢、二の矢と繰り出される荒技に、つい警戒を緩めてしまうのか、騙される人の数は中々減らない。これだけ警告を出しても、数が減らないのは何故か。取り締まる側は様々に対策を講じるが、庶民には声が届かないのか、期待通りの効果は得られない。
そんな中で、人々の気を惹き付ける為に重要と、犯罪の呼称をその形態に合わせて変更しようとする動きが出ている。「オレオレ」に始まり、「振り込み」と呼ばれたものが、面が割れるのも覚悟の上での、取りにやってくるものまで出てくると、警告の種類も増えるばかりとなる。確かに、機転の利かない人々に、警戒心を強めさせるには、一言で解る呼び名が重要と思うのも、理解できないものではない。だが、気が動転する中で、警句を思い出すことは、ある種の人々には簡単ではない。だからこそ、気の利いた言葉が必要、となる考え方には、安易過ぎるのではと思う。核心は、言葉の問題より、話の真偽の判断と、行動を起こす前の確認にある。そこへ向かう為の心掛けを促すことこそ、こんな状況下では重要となるのではないか。犯罪者たちも、臨機応変さで対応するのではなく、多彩な筋書きを準備し、様々な場面への対応を心掛けている。実は、新しい形態も、その場で編み出されたものではなく、困難に直面した後の、対策を講じた結果である。この鼬ごっこにどう臨むかは、呼称や場面の例示ではなく、話の内容の疑わしさこそが、肝心となるのではないか。振り込みを強制する為に、携帯電話が必須となるが、一部の高齢者はそれを持たない。そんな返事をした途端に、突然の電話が切れるというのも、彼らの台本に無い場面だからで、頭脳的な犯罪とはとても呼べない状況なのだ。警戒心という基本を忘れた人々が、様々な被害に遭うのは、ある意味当然だという冷たい意見が聞こえてくる。