パンチの独り言

(2013年4月15日〜4月21日)
(善悪美醜、勝手、話し合い、毀誉褒貶、多様、考え無し、生きる)



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4月21日(日)−生きる

 桜が咲き、桃が咲き、次々と花の便りが届けられる。春本番を楽しむ気持ちになっていたら、突然足を掬われた気分になる。急に下がり始めた気温は、その後、上がる気配も見せず、冷たい雨が加勢する。久しぶりの寒さに、花冷えという言葉が聞こえるが、それこそ季節外れと思う。それにしても、寒いのだ。
 こんな異変に出合う度に、自然の脅威を感じる。奢った人間たちが、自然を操れると思い込み、様々に力を示そうとする。その度に、何か悪いことが起き、天罰が下ったという声が聞こえる。共生という言葉が多用されるのも、そんなことの裏返しなのだろうが、傲慢な人々の心には、簡単には届かぬものだろう。日々の天候の変化は、たとえ大きなものでも、耐えられぬものは無い。だが、天変地異に数えられる、地震などの自然災害となると、その厳しい仕打ちに多くの悲鳴が聞こえる。自然の脅威がその度に感じられるが、暫くすると、人々の心には隙が生じ、また元の感覚に戻って行く。忘れることを傲慢さの現れのように指摘する人も居るが、恐怖に襲われたまま、不安な日々を送ることの深刻さと比較すると、忘れることも一つの能力のように思える。傲慢さは、その先にある感覚であり、何か別のことから芽生えるものではないか。何がきっかけなのか、人それぞれなのかも知れないし、それぞれに意識もしていないのかも知れないが、自分を中心に考えたことが、誤った方へと向かわせるのだろう。生かされている、という表現が、最近、頓に聞かれるのも、そんな世相への思いからではないか。自然の脅威に立ち向かうのも、人間の寿命に挑みかかるのも、同じような思いによるものか。だが、生きとし生けるものとして、大切なものを見失ってはいけない。

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4月20日(土)−考え無し

 自分の考えを述べることは、能力を示す重要な手段として、教育の現場での訓練に、ますます力が入れられている。モゴモゴと繰り返すだけで、何が言いたいのかはっきりしない。意見を求められても、何の反応も示せない。そんな若者が増え、問題視された結果、そんな訓練に踏み切ることとなったのだろう。
 では、状況はどんな変化を見せつつあるのか。意見や考えを示す人の数は、確かに増えたように感じられる。更に、その勢いを後押しすると見えるのは、それらを示す場や媒体が整備され、気軽さが増したこともある。注目されることに快さを感じる人にとって、反響が目に見える形で現れる仕組みは、自分の力を試す機会を与えているのかも知れない。少数の発言派が場を占領し、多数の無言派は黙して語らず、という状況は、実は以前と何ら変わらぬものであり、少しくらい増えたとしても、場当たり的な発言を繰り返す、軽薄な人々に過ぎない場合が多い。自分の考え、というものに対する印象も、様々な見方の末といったものでなく、自己中心的なものが増えたのも、軽薄の台頭によるものではないか。一方的な発言の場が、そんな事態に陥るのは、ある意味やむを得ない所があるが、社会性を有した情報提供の場が、著しく偏った発言を殊更取り上げる姿勢を示し始めたのは、憂うべき状況にあると言わざるを得ない。良識を表に出すべき人々が、極端な意見を好んで取り上げるようになったのは、不平不満の現れではなく、まさに、不安を煽る場の提供という考えが出て来た結果に思える。皮相的な見方が紹介されることが増えたのも、極端な意見が好まれ、賛否が明確となるものを優先する姿勢の現れなのだろう。こんな考えを表明する能力は、実は無能ぶりの露呈に過ぎず、無駄の極致に思える。

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4月19日(金)−多様

 多くの面から物事を捉える、その重要性を強調する意見が出されるのは、現状がそうなっていないからで、一面のみを取り上げ、殊更にその価値を論じることで、世論を誘導しようとする動きが、強まっているのは、そんな背景によるものだろう。極端に走る危険性を警戒するのは、その結果を知る人にとっては当然のことだ。
 だが、その正体を知らぬ人たちにとって、一つの考えに固執し、一気に流れる世論は、分かり易いものとして映り、好ましい姿に思えるらしい。ここでの一番の問題は、分かり易さだけに目が集まることであり、それによって、自らの立場さえ危うくすることに、気付かぬ庶民の姿だろう。様々な見方をすることで、見え方が違ってくることに気付くのは、成長過程で経験すべきことだが、競争社会を生き抜く為に、傾向と対策に腐心する人々に、そんな暇は無いらしい。一見当然のことを主張するように思え、現実には、狭い視野が招く間違いに陥る姿には、無垢さばかりが目につき、知恵は微塵も感じられない。知識は様々に身につけたものの、それを並べることで見えてくる本質に、興味を抱く気配も無く、ただ表面的な事柄ばかりを追う人々には、多面的な把握などには程遠い現状がある。そんな中で、始めに書いた重要性の話が出てくる訳だが、話だけに終わるのは、評価基準に大きな問題があるからではないか。簡単とか安易とか、困難や難解に比べて、優先される表現に、拘る人たちには、自分の考えが生まれる筈も無く、請け売りばかりを行い続ける。その程度の人間だから、と言うのは簡単なことだが、こんな人々が大勢を占める社会に、果たして明るい未来が来るものか、心配する人も多いのではないか。

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4月18日(木)−毀誉褒貶

 褒めて育てる話は、まだ生きているのだろうか。様々な形で自主性を尊重し、当人の能力の有無に関わらず、まずは褒めることを優先する。そんな手法が、優秀な人間を作り出すと信じた人は、沢山居たようだが、結果は芳しくない。自信を身に付ける代わりに、自己愛と呼ばれる過信が姿を現し、身勝手が横行する。
 褒めることの本質は、そこにあったのかは定かではない。しかし、言葉だけから解釈した人々は、双手を挙げて褒めることを繰り返し、批判を口にしなくなった。悪い点には目を瞑り、良い点を探そうと目を皿のようにする。その努力を無駄とは思わないが、誤りを誤りとせず、間違いを間違いとしない姿勢は、それに接した人々に大きな誤解を与えたようだ。自らの力を過大評価し、基礎の習得を蔑ろにする人々は、早晩欠陥を露呈させる。道程には平坦なものも、険しいものもあるのが当然なのが、いつの間にか、下り坂の如くに勢いがつくものとなり、まさに、下りの如く、上りに繋がらないものとなると、停滞や挫折へと結びつく。こんなことが繰り返された挙げ句、精神に破綻を来した人々が目立ち始めると、その弱さばかりに目が集まるが、峻険な道を歩んだことの無い人間に、壁を乗り越える為の強さを要求することに、理不尽さを感じた人も多いだろう。褒めることは、全否定ではなく、一部だけでも美点を取り上げることの重要性を、論じていたのだと思えば、それ自体が悪いとすることは難しい。しかし、多くの人が誤解に基づき、誤信へと至り、極端な行動をとり始めた結果、全く違った方に向けられた力は、人を育てるどころか、その役割を放棄することとなった。次々に新しい世代が登場することからすれば、育成において、手遅れは有り得ない。もう、闇雲に褒めることは止めて、良い点悪い点を吟味した上で、誤りを正し、欠点を指摘することをまず行い、更に、必要とあらば、何処か褒める点を探す、くらいにしておくことが必要だろう。

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4月17日(水)−話し合い

 意思の疎通の重要性が、改めて強調されている。自らの考えを相手に伝え、それを基に、様々な議論を展開することが、互いの能力を見極めるだけでなく、そこから生まれる成果の良し悪しを決めると言われる。では、それを身につける為の手法には何があるのか、明確なものがあるようには見えず、試行錯誤が続く。
 疎通などと書くと、如何にも大袈裟なことのように見えるが、その基本となるものは、お喋りだろう。ぶつぶつと好きなことを呟くことから、相手の気を惹こうと様々に工夫するものまで、会話は確かな考えが身に付く前から、既にその能力が構築されているものとされる。だが、肝心の意思を伝える能力となると、正確に思いを伝えることができるかどうかが、問題となる。折角話しかけても、相手に分かって貰えないとなると、苛立ちが募る。小さな子供が、地団駄を踏みながら、喚くように訴える姿には、そんな思いが見える気がする。だが、そんな過程を経て、多くの人は考えを他人に伝える手立てを身につける。全ての人が、幼少期にここまで到達していれば、世の中でその重要性を議論する必要などありはしない。問題は、多くの人が中途半端な状態のまま、その能力が必要となる場に押し出される所にある。そんな中で、鍛錬の場を提供するものとして、一部で注目されているのが、インターネット上の呟きではないか。SNSと言われるものは、これまでにも数々登場していたが、最近の流行は、一方的なお喋りに、他人が参加する形をとるものだろう。好き勝手な発言には、有用なものから塵のようなものまで、様々あるけれど、それを受け取るのも、無視するのも、受け手の勝手と言われる。だが、現実には、正反対なことが多く、誹謗中傷ばかりが飛び交い、肝心の疎通は一部の感情に限られている。こんなもので、確かな能力が身に付く筈も無く、人格形成にも悪影響を及ぼすのではないか。それより、あの世界は、人間の幼児性を確かめるには、役立ちそうに思える。

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4月16日(火)−勝手

 羽が折れ、無惨な姿をさらす。そんな画像が伝えられても、不安が話題に上ることは無い。補助金の存在が導入を後押ししても、買い取り制度の絡繰りには、何やら解せぬ雰囲気が漂う。期待通りの発電ができず、導入費用の回収もままならぬとなると、騙された気分になるらしい。節約とは違う感覚だろうか。
 風力に問題が、とか、お天気次第の太陽光とか、様々な形で課題が伝えられる度に、それを克服する為の手立てが論じられる。安全安心の旗頭として、再生可能という言葉が脚光を浴びて来たが、代替となり得るかは、今の所定かではない。こんな状況におかれると、暑くなった頃に、また同じ努力を強いられるのか、という思いが過る人も居るだろう。本来、長期的な視点で導入を図ることが必要な手段に、これ程緊急的な要求が高まるとは、誰も予想しなかったが、こんな事態に陥れば、選択の余地は無い。そんな中で、緊急措置がとられ、様々な可能性が試されて来た。今一つはっきりしない所も残るが、どうも宣伝文句程の効果が得られず、再考を促されているようだ。その一方で、事故の経過が様々に伝えられる。汚染水の漏洩など、相変わらず悪い方の情報は、声高に伝えられるけれど、被曝による健康被害については、当初概算された程の内部被曝は無く、これまでの調査からは、深刻な健康被害は報告されていないとする情報については、文字として伝えられることはあっても、それ以上、感情に訴える姿勢は見られない。科学的な調査の意味する所は、それが根拠となり、今後の動向をある程度見定めるものだが、感情は、そんなものを、自分の都合だけに用いることを許す。こんな暴挙をいつまで許すのか、不安を前面に出す人々の存在は、高く厚い壁として立ちはだかるが、それを打ち壊すのも、結局、科学に頼るしか無いのではないか。代替に関しても、詳細な分析後に、再検討をする必要がある。

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4月15日(月)−善悪美醜

 無理強いをする為には、脅しをかけるのが一番、という考えなのか、最近の情報提供には、そんな思惑が見えるものが多い。この手法を上手く使えば、無理強いは促し程度のものとなり、巻き込まれる人々も、ある程度仕方ないかと諦めがつく。双方にとって無難な結果となるが、実際には、極端な選択だったことになる。
 地震の恐怖は経験したものでなければ解らない、と言われるが、実際は、未経験な人ほど、劇的は反応を示す。ただ、起きていないことへの怖れは、未経験者は殆ど持たないのに対し、経験者の多くは強く残っている。それに乗じる形で脅しをかけるのは、最も効果的な手法の一つだが、今巷で行われていることを、そういう形に解釈するのは乱暴だろうか。確かに、備えあれば憂い無しであり、強固な建造物を築いたり、避難の道筋を想定することは、無駄には終わらないかも知れない。しかし、いつあるとも知れないものに、恐怖を抱き続けることは、果たして心理的に正しい選択なのだろうか。恐怖感が心の病いを招くことは、様々な事例が挙げられ、紹介されることだが、度が過ぎるのは、その危険性を高めそうだ。一方、そういう形で進められた施策には、その後、破綻に近い形や多数の課題を抱える形に、向かうものも多い。発電形式にも、同じような手法が使われ、恐怖との対比から、利点ばかりが強調された形式の多くは、その後、数々の欠点が露呈し、頓挫しかかっている。想定能力が達成できない、お天気次第の方式では、隠された効率の悪さが見え始め、巨大な羽が壊れた事故などで、耐久性への懸念が現れ始めた。一方的な論理を展開するのが、脅しを確実なものにする常套手段だったが、綻びが見え始めた時、何かの備えが無ければ、全てが破綻するだけとなり、巻き込まれた人々は路頭に迷うこととなる。脅す側は、備えより、逃げる方を選ぶから、どうせ知ったことではないのだろうが。

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