パンチの独り言

(2013年4月22日〜4月28日)
(不慣れ、空っぽ、無視、傾聴、本能、忘却、お出かけ)



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4月28日(日)−お出かけ

 皆と同じ、という安心感が、こんな行動を導くのか。混雑が予想されようが、何処かに出かけねば、とばかりに、人の集まる所を目指す。個人主義の源と見なされる、海の向こうでさえ、ある長期の休みには、国内旅行が頂点に達し、予約を取ることさえ難しくなる。休暇とは、そんな結果を招くものなのだろう。
 不況が続くという感覚を抱きつつも、何処かへ行きたいという欲求は抑えきれない。そんな思いが入り混じりながら、計画的なものから思いつきのものまで、皆が挙って出かければ、混雑は避けきれない。車での移動は渋滞を招き、列車では満席から立ちっぱなしの移動が強いられる。我慢するしか無い状況に追い込まれ、二度と御免と思ったとしても、次の機会には、また欲求が勝つようだ。不況下なのだから、国内旅行が優先される、との予想も外れ、相変わらず、国外脱出を目指す人々が続く。変化を求める気持ちに、逆らわぬ為には、まずは環境から変えねばならぬという訳か、普段とは違う場所に出かけたいのだろう。だが、国内の観光地に出かける人も、そんな気持ちを抱いているのではないか。食事の心配もせず、上げ膳据え膳での日々に憧れ、宿泊の手配を済ませる。少しぐらいの出費は、満足感に変えられるのなら、と諦めがつくのか、出かけて行く人々の顔は明るい。悪い話ばかりが続く日々に、何とか日が差し込むようにとばかり、思い切った出費を覚悟するのも、気持ちの変化に、結果良しとなるのだろう。出費を抑えざるを得ない人々には、日帰り旅行もあり、混雑の要因は増えるばかり。無駄な時間を覚悟して、出かけることで、気持ちが晴れるのであれば、それで良いのだろう。煩い話は脇に置き、まずは、出かけることにしようか。

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4月27日(土)−忘却

 物忘れが酷くなり、そのうち、家族のことばかりか、自分のことさえ判らなくなる。年寄りはそんなもの、との解釈が通用した昔と違い、今は、年齢に関係なく、死ぬまでまともで居たいと願う人ばかり。その一方で、記憶障害も病気の一種と認定され、治療の手立てが模索される。治るならば、と願う声は更に大きくなる。
 確かに、日々の生活に必要なものまで失うことは、誰しも怖れを抱くことに違いない。ただ、思い通りにならない、といった感覚は、誰もが抱くものであり、記憶力の低下は、齢を重ねるに従い、著しくならざるを得ない、といった理解もある。程度の差が肝心であり、ある程度までは許容範囲だが、それを超えると、大問題となると思っている。物忘れは必要な情報を引き出せなくなることだが、その一方で、忘れることの重要性には、人の目が余り向いていないように思う。強い恐怖から、心に傷を負ってしまう人に注目が集まり、それが病気の一種のように扱われると、傷ついた心の治療にばかり目が集まり、その原因を取り除く手段には、殆ど目が向かない。同じ恐怖でも、人により反応が異なるのは、心の耐久性によるものと見る向きがあるが、それが、恐怖の対象との折り合いの付け方にある、という話は余り聞かない。忘れることの重要性について、何度も書いて来たけれど、ある話題に接することで、その気持ちが強まった。安全安心を築く為に、様々な方策が講じられ、警報などもその観点から、多種多様なものが流される。地震の予知が不可能と見なされ始め、それ以外の方策を、ということからか、初期微動の観測を基に、地震に襲われる直前に知らせる仕組みが構築されたが、大震災に見舞われた人々でさえ、直後は恐れ戦いていたのに、今では、警報の意味さえ理解できなかったとある。ここからが、細工は流々、仕上げを御覧じる、となるのかも知れず、更なる対策を講じる話に進むのだろうが、それが正しい道筋なのか。不安に襲われた人が、それを逃れる為に、徐々に忘れて行く。こんな流れを断ち切って、いつまでも不安に陥れたままにしたい。一体、どんな意図があるのかと、思えてしまう。

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4月26日(金)−本能

 毎年のことだが、いつ現れたのかは、はっきりとしない。チュルチュルという声が聞こえ、頭上を羽を広げて掠める姿に、もう春か、と思いつくが、いつからかがはっきりしない。春の訪れを感じさせる自然の営みには、町中でも、こんな形で感じられるものがあり、草原では、別の声が聞こえ、実感が深まる。
 ここから春、という線がある訳ではないが、人間たちは、何となく、こんなことの重なりで、その気持ちを高めているようだ。だが、その後の冷え込みに閉口した人々は、またぞろ、心配やら不安やらを口にする。相変わらずの様子だが、一方で、少し早く来過ぎたように映る、ツバメやヒバリたちは、出直そうとするのだろうか。こんな疑問は、余りにも馬鹿げたものだろうが、文句を並べる人々の多くは、そんなことをしているように思える。不平不満を並べることが、一種の権利のように振る舞う人々にとって、あらゆる事柄が、その対象となりうる訳で、それと付き合っていては、本当にきりがない話となる。自らの力でないにしても、様々なことを操作できるとの思い込みが、分不相応な要求へと発展するのかも知れないが、それにしても、その無知の甚だしさに、呆れるばかりの人も居るだろう。それを大真面目に受け取り、対策を講じるなどという声が聞こえ始めると、狂気の沙汰と思ったりもするが、真面目な人は、そのままなのである。心底から、それが必要と信じる人々に、掛ける言葉は見つからず、暗礁に乗り上げるのを見守るしか無い。無駄を無駄と言い切れる世の中に、何とも言えぬ理不尽さを感じる人も居るだろうが、一方で、論外な要求が通らぬ世の中に、不公平を感じる人も居る。本能に従うのみの動物たちが、幸福そうに見えるようになっては、人間もおしまい、なのかも知れない。

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4月25日(木)−傾聴

 起動した途端に、日付と何の日かを告げる。特に、興味を持って耳を傾ける訳ではないが、時に、聞いたことの無い謂れが流れ、成る程と思う。所詮、人間が仕組んだものに違いないが、知る知らないは、人それぞれの問題であり、知らないことが流れることで、興味を抱く人も出てくる。作った側に、そんな意識があったかに無関係に。
 良い夫婦の日が、年に二回あるらしいことも、この器械からの情報だが、先日の話題は、植物学に関するものだった。専門家が利用するのでなく、自動車を運転する一般の人々を対象に、この器械が備え付けられているのだが、何故、そんな話題を提供するのか、と不思議に思う。それでも、人間の興味が、様々な方向に及ぶことを考えれば、こんな話題にも意味が出てくるのかも知れない。興味を抱いた証拠に、その後、インターネットで調べてみると、この国で最も有名な植物学者が、生まれた日を記念して、とあった。そんな由来なのか、といった所で、調査は終了となるが、何処かで使える豆知識、となるかどうかは、今の時点では、定かではない。いずれにしても、こんな調子で、雑学の機会が得られる。毎朝の一言は、新聞などから得られることも多いが、こんな所にも、機会があるのではないか。と言っても、慌ただしく出かける人々には、そんな声が届く筈も無いし、その気の無い人には、単なる雑音にしかならない。学習という態度が、その人に備わっているかどうかは、こんな形で現れているのではないか。必要性だけに左右される人々は、興味という大切な能力を無視し、その気にさえなれば、などと言い続ける。普段の行動に、そんなものが現れている、などと言ったら、どんな気がするのか。いつも通り、興味を抱くことさえ無いのだろうが。

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4月24日(水)−無視

 何か事件や事故が起きる度に、心配や不安が急速に膨らみ、対策の必要性が強く訴えられる。この図式が間違いであるとは、誰も思っていないだろうが、同じことが何度も繰り返されるのを見ると、意味を成していないのでは、と思えてくる。人間の心理のあやふやさ、とでも言えば良いのか、確実な対策が見えていない。
 だが、そんな状況でも、日々の生活が何事も無く送れているのは、何故だろうか。最も大きな要因は、忘却にあるのではないかと思う。心配や不安で眠れない、という人々が、いつの間にか、眠れないことを口にしなくなる。心配が無くなったのか、と尋ねると、すっかり忘れていた、という返事があり、まるで肩透かしにあったような気分になる。あれ程の大騒ぎは何だったのか、相手をした人々からは、不平不満が聞こえてきそうだが、当人はどこ吹く風、と言わんばかりに、他人の迷惑など気にもとめない様子となる。そこで済んでしまえば、何事も無く終わるのだろうが、この手の燻りがいつまでも続く状況に、不安、心配を続々と見つけ出す人々の存在が、大きな障害となっていることが解る。忘れる人が居る一方、移り気を表に出し、声の大きさの割に、現実の深刻さがさほどでもない、という人が居る。問題解決を願うのであれば、もっと強く関わらなければならないのに、一時的に文句を並べ、深刻さを訴える人々は、そのまま、次の問題へと視線を移す。重要な問題に目が向くと言えば、言えなくもないのだろうが、現実には、課題のそれぞれに、大した興味を抱く訳でもなく、世間の注目に合わせているだけ、という人が余りにも多い。狼少年の話ではないが、本当に襲われない限り、問題の重大性は、認識されることも無く、方策も功を奏することが無い。その程度の話ならば、そろそろ無視することも必要なのではないか。弱者を装うことで、注目を浴びたい人は、ただそれだけなのだから。

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4月23日(火)−空っぽ

 舶来品という言葉は使われなくなったが、依然として、ブランドが幅を利かせる世界がある。憧れの的、などと呼ばれた品々も、品質を比べれば、大した差も無く、見栄えが変わらぬことも多い。それでも、ブランド名を冠するかどうかに拘る人々には、何よりも優先されるものとなる。基準の置き所が、違うのだろう。
 海外への憧れと言っても、実際には、欧米に対するものであり、追いつくことが命題の時代もあった。追い越せたと思ったのも束の間、その後の停滞、凋落の結果、憧れるという行為自体は、そのままに残されたようだ。その中で、国際化という目標は、掲げられたままとなり、いつまでも達成できない、遠いゴールのような感覚さえある。製品の品質が、他を凌駕するものとなった時期から、国際化の問題は、別の方へと向き始めた。作ったものでの競争が、問題では無くなった途端、それを売り歩く人々の能力が、問題とされたのだ。情報伝達能力において、製品に関する知識が十分でも、それを相手に伝える能力が足らぬ為に、損をするという場面に出くわす度に、言語能力の問題に注目が集まった訳だ。そこで、伝達の道具を揃えようと、語学学校に通い、能力検査の結果に一喜一憂する。確かに、喋れないより、喋れた方が良いに決まっているが、いつの間にか、本来の目的が失われ、道具を担ぐことだけが目標となった。それと並行して、別の能力の減退が問題となってくると、下らぬことは伝えられるが、肝心なことはできない、という人が急増する。言葉は次々出てくるが、考え無しのものでは、自分の意見や考えが出てくる筈も無い。こんな国際化では、恥をさらすだけとなるが、皆同じとなれば、安心なのかも知れぬ。先日も、途上国の女性指導者を迎えての取材で、番組の顔とも言える女性司会者が、何度と無く、彼女の亡き父からの影響に言及していた姿も、恥曝しに近いものではなかったか。指導者の答えは、違う方に向けたものであるのに、しつこく食い下がる姿は、たとえ原稿に従ったものにせよ、共通語を操れる能力が、空回りしていることを強く示していた。国際化が、こんなものの為だとしたら、無駄なだけなのだ。

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4月22日(月)−不慣れ

 新しい場所に移り、様々な変化に戸惑う人が居るだろう。この季節、職場も学校も、そんな人を迎え、戸惑いを成る可く減らす工夫を凝らす。様々な対応法を授けるのも、その一つと思われる。傾向と対策に慣れた人々は、それで安心とばかり、目の前の壁を乗り越えた気になる。自分の力で越えねばならぬのに。
 環境の変化に対する適応性は、様々な場面で必要になるから、生き延びる為の手立てとして、重要視されている。しかし、慣れることのみを優先すると、能力の向上を抜きにすることとなり、本人の問題は、一見解決したかのように見えて、組織にとっては、何も変わらないこととなる。不安の解消が、社会の最優先課題と見なされるようになり、そればかりに目が奪われているうちに、対象となった人々の能力は、必要な水準に達すること無く、諦めざるを得ない所に留まる。それでも、壊れてしまうよりはまし、といった諦めも加わり、効率の低い状況が続くと、これもまた、停滞や閉塞感を招く要因となる。どちらが先なのか、明らかではないようだが、負荷をかけることで、向上を促す体制が崩れたことで、現状維持が精々という状態は、当然のものとなった。それでも、ある程度の維持が可能だった時代には、何とか生き延びることができたものの、維持が低下や下降へと変貌し、劣化が続いた結果、現在の厳しい状況が生まれたのではないか。個人の問題が、組織の問題へと繋がり、それが個人へと戻される。昇りの螺旋階段を上がっているうちは、それが当然と思っていたものが、階段を転がり落ちる人が増えるに連れ、如何に落とさないかが重要となり、そのうち、傾斜が無くされてしまう。それでは、上る機会も奪われてしまう、とは、誰も考えなかったのだろうか。目の前の困った人々への対応が、こんな結果を招くとは、思いもよらなかったのだろうが、そうなってしまったのだから、また、別のことを考えねばならない。その力が残っているか、定かではないが。

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