パンチの独り言

(2013年4月29日〜5月5日)
(発言、不都合、速断、棚牡丹、変えたい、誤用、夢)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月5日(日)−夢

 子供の頃、昔の偉い人々の伝記を読んだことのある人は、多いと思う。今は、余り行われていないようだが、小学校の道徳の時間に、地元の偉人たちの話を読まされた。彼らの話の多くは、夢を抱き、目標を達成する為に、日々の努力を重ねる、というもので、子供たちへの影響を考えた作り話、と今は思える。
 世の為、人の為と、努力を重ねる姿に、素直な子供の多くは、自分もそうならねば、と思ったのだろう。だが、年を重ねるに連れ、自らの可能性は萎み続け、夢は儚く散って行く。失望を抱き続ける代わりに、夢自体を忘れることで、折り合いをつけて来たのだろうが、それで良かったのだろうか。様々な夢を抱くのは、子供の頃の常であり、それ自体が悪いとは、誰も言わない。だが、伝記や道徳の時間の影響で、目標を定めるからこそ、大きな仕事ができると信じ込まされた子供たちは、決して幸福であった訳ではない。偉人は確かに、偉大な仕事をしたには違いないが、子供の頃から、その目標に向かって邁進した訳でもなく、仕事の最中にも、大きなことを為そうとか、評価されたいとか、思った訳でもない。それが、本になった途端に、恰もそんなことがあったかのように、脚色されるのは、教育の為としか思えない。だが、こんな色がつけられるのは、実は時代背景によるものが多く、あの頃が、そんな目的主義だからこそ、なのではないだろうか。名を為そうとか、残そうという思いを抱くことが悪いとは言わないが、偉業の達成に必須との考えは、何処か違っているように見える。そんな思いを抱かずとも、社会貢献をした人は数多居るだろうし、社会の為でなく、自分の問題の解決で、結果を得た人も多い。いつ頃からか、思いの強さが達成の為の力かのように扱われ、過剰に強調された結果、そんな風潮が広まったように思う。だが、最近は、限界が見えたようで、そんな思いに触れることも少なくなり、明確な方向性が失われており、先が見えなくなっているようだ。

* * * * * * * *

5月4日(土)−誤用

 素直に育つ、という表現に、昔は別の意味など含まれていなかった。子供らしく育つという意味も、正直者に育つという意味も、当時は悪い意味を含むことは無かったが、最近は、素直とは、言うことを聞くという意味に使い、まるで親の言いなりを表す言葉のように使われる。そこでは、反抗期が死語となるようだ。
 自分の言いなりになる子供に、どんな期待を抱くのか、本心は全く見えないが、この頃の流行からすれば、近視眼的な見方で、その場の良し悪しばかりに囚われ、将来への展望が全く無いことが、ありそうに見える。そんな意味で使われるとしたら、それを冠せられる子供は、不幸の代表と見なされるのではないか。まあ、良好な親子関係を夢見る人にとっては、姉妹のような母娘や、兄弟のような父子も、その現れであり、素直に育った我が子に、満悦するのかも知れない。この言葉とは少し違う意味で、使い方の変遷も違っているけれど、優等生、という表現も、様々な意味で使われることがある。出来のいい子供、という意味は当然だが、試験の出来の良さから、模範解答へと繋がり、それ自体が、周囲に期待されるものへと変換されると、そういった行動をする人々が、優等生と呼ばれることとなった。期待を裏切らないのは、人を従えての行動にはあっても、他人を押し退けてまでの行動には有り得ない。だから、ある限界に達したとき、そこで素直に留まるのが、優等生の典型と扱われて来た。秀才と天才の違いを表す時にも、似た比較が使われるが、優等生とは、集団の中で頭抜けた存在だが、限界が見えている存在を称する。規範に縛られることで、自ら、限界の線を引くといったことが言われるのも、そんな印象から出てくることだろう。悪い意味と捉えられそうな話だが、実際には、優秀であることに変わりは無く、それが成果に繋がることも当然なのだ。それぞれに思いはあるのだろうが、素直とか、優等生とか、大切に使わねばならない言葉を、溝に捨てるが如く、揶揄する為に使うのは、止めてほしい。

* * * * * * * *

5月3日(金)−変えたい

 自分たちで決めたものでは無いから、変えるべきだという考えに、同調する声が強い。作る過程で、様々な力が働き、学者たちが持ち寄った案は、却下されたと伝えられる。最終的に日の目を見たものの中に、意見が残ったかどうかは定かではなく、決定の過程に参加しなかったから、決めたものでは無いとなる。
 先日読んだ本の中にも、その経緯に触れる部分があったが、時の政府の中で、そんな思いを抱きつつ、将来の全面改正を目論んでいたと伝えられる。変えたいと望む人々の頭の中では、決めていないことが断定的に扱われるが、決めることがどんな行為を示すのか、論じられることは殆ど無い。確かに、条文中に明記されるように、改正に当たっての手続きには、厳しい基準が設けられているのに対し、それが成立する過程では、そんな手続きは一切行われなかったとされる。では、始まりの段階で、賛否を問う形式をとったものが、この世に存在するのか、についてに、話が及ぶことがあっただろうか。変えたいという思惑が先に立ち、それを正当化する為に、方便を尽くすというやり方が、今の世の中には、沢山あることは承知しているが、日々の生活ならまだしも、国の根幹を為すものに対しても、同じ論理を当てはめようとするのは、不見識極まるものではないか。変えたいから、変え易くという論理も、理解不能なものであり、現時点では殆ど触れられないものへと目を移せば、最終決定権を持つ庶民には、見識も何も、どんなに重大なものにさえ、人気投票の気分で臨むこととなる。会議であれば、成立するかどうかが出席者の割合で決まるが、最終投票では、参加者の割合が問われることは無い。最近の投票行動を見れば、全体の2割にも満たない人しか支持しなかった人が選ばれる。意地を通す為に、現状維持に拘る人も居れば、同じ理由で、変えたいと願う人も居る。決めることの重要性を無視するつもりは無いが、決めたものでは無いとの理由は、必ず残ることにも注意して欲しい。

* * * * * * * *

5月2日(木)−棚牡丹

 町並みが霞んで見えず、道行く人々はマスクを付けたり、タオルを巻いている。毎年、巻き上がる砂煙で、そんな光景には慣れている筈の人々の、異常な事態を訴える声が、画面から流れてくる。解説によれば、深刻な大気汚染が進み、その原因が急速に進んだ工業化によるものと、結論づけられていた。
 そこから画面が移り、国内の情勢を伝えるものとなると、こちらでも深刻な事態に陥っているとされる。海の向こうから砂と共に流れてくる、汚染物質の危険性に、悲鳴にも似た声が被され、その声を海の向こうにまで届けようとしていたようだ。季節のものが収まるに連れ、いつの間にか静まってしまったが、最近、小さく流された情報によれば、あの汚染も、お互いの国内問題に過ぎなかったようだ。被害妄想は言い過ぎとしても、最近、急速に国力を増して来た相手に対し、何かと注文をつけようとする態度には、転げ落ち始めた国が抱く、ひがみにも似た心情が現れている。これは、自動車輸入問題で揺れた30年程前のあの国の姿とよく似ていて、国が変われど、という思いを抱く。責任転嫁が無理としたら、自分の問題は自分で片付けねばならない。公害に悩んだ時代を経て、様々な対策が講じられて来たものの、やはり問題を解消するには至らなかったのか。根本の問題を解決する手段は、更に強く講じられねばならないのだろう。思わぬ形で露呈した問題に、環境汚染の専門家たちは、慌ててその本質を捉えようとし始めるのだろうが、適切な対応を期待することは難しい。各人の対策は、あの話題が出されたときと変わらず、汚染粒子を取り除くものぐらいだろう。高性能マスクと共に、あの時売り上げを伸ばした電化製品は、急場しのぎの対策として、好調を続けるのだろうか。それにしても、あの騒ぎで一番得をしたのは、あれを作っている企業だったのかも、と思う。

* * * * * * * *

5月1日(水)−速断

 熟慮の末の決断、とはよく聞く言葉だが、どの位考えたのか。物事を真剣に考えない人が居る、という話を何度も書いて来たが、こんな人々の多くは、時間をかけて考えた、との反応を返す。確かに、時間はかかったのだろうが、その間、何を考えていたのか、まともに説明することができず、無駄な時間とも見える。
 熟慮とは、時間をかけることと思い込む人々にとって、兎に角、時間の長さのみが重要であり、それ以外の要素は頭を掠めることも無い。となると、何事にも、時間をかけることが大切で、短期間で結論を導くことは、拙速として、忌み嫌われることとなる。だが、決断力を備えた人間、と呼ばれる人々の多くは、時間をかけずに決め、その後は、状況を掴みつつ、修正を施すといったやり方を好む。始めるまでの時間が重要であり、それまでにあれこれ、多くの可能性を検討すれば、成功を勝ち取れると考える人々には、決断の速さは、一種独特のものに映り、多くの可能性の中から、一つを選び出せる判断力に、尊敬の目を向けることとなる。だが、そう呼ばれた当人にとっては、どういう論理で、その結論に至ったのかを説明することはできず、ただ単に、直感が働いたとするのが常のようだ。実際には、決断前の熟慮が重要なのではなく、決断後の対応への熟慮が重要なのであり、それによって、成否が決まると言っても過言ではない。決めたこと自体ではなく、決めたことを実行に移す場面での対応こそが、真価を見せる場である訳だ。これを理解すること無く、ただ漫然と時間を過ごす人々が、成功を手に入れることは無く、ただ単に、迷いを表に出して、失敗へと向かうこととなる。人を求める企業と、職を求める人との間の遣り取りに、今程時間をかける時代はなかった。本分を押し退けて、将来に気を病む人々に、無駄な時間は無いのだろうだが、時間をかければ、最良の選択ができるとは、大間違いではないか。

* * * * * * * *

4月30日(火)−不都合

 人の目は見えるものに集まる。目を皿のようにしたとしても、見えないものは結局見えず、それに注目することなど、できる筈も無い。何を当たり前のことを、と思う人も居るだろうが、これが策略だとしたら、どう受け取るだろう。都合の良いものを掲げ、都合の悪いものは隠す。簡単な手順で、世論を操作するのだ。
 不安や心配を抱く人々に、必要な情報を提供する、とは、彼らがよく使う言い回しだが、現実には、その間に、彼らの都合が入ってくるのだから、恐ろしい。必要かどうかは、受け取り手の判断にかかるが、現実にそれを決めているのは、送り手であり、どんな影響を及ぼすかが、その判断基準となる。脅したり、煽ったりすることが、多く見られるのも、心配な人々への影響を考えた末であり、いわば、悪影響を厳選するようなものだろう。こんな意見を突きつけると、あっという間に反論が返る。正しい情報をそのままに伝えただけ、だという訳だ。だが、数多ある情報の中から、限られた紙面や時間に収まるように、選ぶ作業に、思惑や作為が入り込むのは当然で、全てを提供することなど、できる筈も無い。それを正しく行っているとする反論には、実は、何の根拠もないこととなる。自らが正しいと判断した行為を、正当化する為の方便は、こんな形であっさりと出されるが、それを打ち壊すことは、それほど難しくはない。危険性を強調することは、当時の世論の流れから、最重要な課題と見なされたが、科学的な根拠が無いままの、都合の良い主張は、すぐに暗礁に乗り上げることとなった。そこで登場したのが、科学では説明しきれぬ、心理的影響の重要性であり、これによって、暫くは勢いを保つことができた。しかし、人間の記憶に頼るものだけに、忘却の彼方へと追いやられると、遂には話題にさえできなくなる。そんな中で、大規模調査の結果が発表され、心配の種だった内部被曝が、予想に反して殆ど無いとされたのに、あの人々はそれを取り上げようともしない。安全安心を追い求める人々が、それを補強する証拠に目を向けぬのは、何故か。腐った心の持ち主たちに、問い質したとしても、下らぬ言い訳が聞こえるだけだろう。

* * * * * * * *

4月29日(月)−発言

 言論の自由、この大仰な表現も、既に死語と化しているのか。あらゆることに自由を謳歌し、何の束縛も受けない。流石に、そんな実感を抱く人は居ないだろうが、それでも巷では、勝手な言葉が飛び交い、気侭な表現が流れる。時に、一方的な遣り取りは、集団的な虐待にも似た様相を呈することとなる。
 自由ばかりに目が集まり、それが招く結果には、誰も目を向けなかった。手に入ればそれで良い、とばかりに、権利主張を繰り返した結果、何の責任も負わずに済む、そんな媒体が提供されるようになった。一見、当然の権利を勝ち取ったように見えるが、それにより、様々な権利が侵害され、混乱は急速に広がった。井戸端や陰での発言は、たとえ広がったとしても、二桁の人の耳に入る程度のものだろう。だが、新たな媒体を通した発言は、時に爆発的に広がり、無知蒙昧を巻き込んでの騒動へと広がる。その場に居なければ手に入らなかった発言も、媒体の中では、急激な増殖を繰り返し、発言者本人でさえ、制御できない状況に陥る。掲示板と称された媒体では、議論とはとても呼べそうにない、発言の応酬が起こり、対面の議論との違いが一時注目され、そこで必要となる技術に目が向いたこともある。だが、そんな場は、無駄なものと切り捨てられ、人々は次々に立ち去った。その後に編み出された媒体では、議論の必要性は問われず、ただ単なる情報提供の場として、その拡散効率を如何に上げるかが、重要な課題と見なされたようだ。一方的な発言は、本人の意図に従い、一気に拡散することがあるが、その後は、意図とは無関係な行動へと移る。いつの間にか、発言者の自由が奪われ、失言を反省する機会さえ、与えられない。自由に対する責任が、こんな形で果たされるのは、明らかな間違いと思うが、野次馬のように騒ぎに加わる人々に、そんな思慮は無い。

(since 2002/4/3)