花は美しく咲くからこそ意味がある、というのは、人間の勝手な都合だろう。植物の多くは、子孫を残す為に花を咲かせ、種子を残す。それを食べ物として利用する側からは、その美しさはどうでも良く、ちゃんと実がなってくれれば良いとなる。だから、そちらの花には、誰も見向きもしないこととなる訳だ
そう考えると、穀物の花には、誰も関心を寄せず、いつ間にか咲いた花が実を結び、穂が頭を垂れるように実ると、収穫を楽しみにし始める。農業に携わる人にとっては、日々の手間がかかるものの、授粉をする必要も無いから、花への関心も低いのではないか。春の風物詩の一つに、麦畑の変化もあるが、こちらも、穂を付けるまでの青々とした畑から、突然、穂を付けた姿に驚かされるだけだ。これが実りの時が来ると、緑が淡くなり、黄変することで、所謂麦秋を迎える。穀物の多くは、本来の秋に実を付けるが、麦は正反対の性質をもつ。何故、こんなことが起きるのか、生き物の性質の不思議は、次々に解き明かされているけれど、科学への興味だけでは、理解できないことも多い。少し調べれば、何らかの解説に出合えるものだろうが、それが理解へと結びつくかは、定かではない。どのみち、理解できようができまいが、穀物を作ることはできるし、仕組みの理解よりも、目に見える変化への対応の方が、作る際には重要となる。こんなことを思うと、ふと、科学の意義を考える気分になる。
春は花の季節、様々な花が咲き乱れ、花好きの人には楽しい日々が続く。桜前線も北の果てに辿り着き、躑躅はそろそろ盛りを過ぎる。藤棚の紫が色を増し、菖蒲もそろそろ季節の始まりか。車を走らせていると、馴染みの花に混じって、生け垣に薄黄色の花が見える。モッコウバラと呼ばれるものだが、結構目立つ。
薔薇は病気に弱く、育て難いものとされる。同じバラ科とは言え、モッコウバラは野バラに近いようで、それほど難しくはないのだろう。どの家でも、かなり大きく育っている。驚いたのは、崖地に立つ家に植えられていたもので、滝のような薄黄色の花の列に、他では見たことの無い程の大きさを誇っていた。牧野の図鑑によれば、支那原産とあり、モッコウとは木香から来るものとある。だが、黄色の花には香りが殆ど無く、不思議に思っていたら、香りがするのは白い品種とある。見たことが無いので、さっぱり解らないが、多分そうなのだろう。今は、外来動植物が話題となり、駆除が検討されるものも多い。だが、植物についても、牧野によれば、多くの外来種が長い時間をかけて野生化し、今に至っているとのこと。何が在来種なのか、図鑑を眺めれば判るけれど、実は、江戸時代以前に存在したものとの限定であり、おそらく、古文書などに登場するものをそう呼んだのだろう。環境破壊を示すものとして、人間が持ち込んだ外来種は、敵のように扱われるが、今の生態系を支える動植物も、よく考えてみれば、本来のものとは限らず、いつの間にか根付いたものかも知れない。美しいという感覚は、人それぞれのものであり、時に、セイタカアワダチソウの黄色をそう見る人も居るという。これもまた、外来植物の代表として、大々的な駆除対象となっていた。その甲斐もあってか、最近はススキが勢いを取り戻している。荒れ野の象徴でしかなかった存在が、在来と外来の象徴として扱われる。でも、もっと昔は、どうだったのだろう。
努力の評価に対し、意見が分かれるようだ。どれだけの時間をかけたのか、が重要と考える人々に対し、どんな結果に到達したのか、が肝心と見る人々が、厳しい意見を浴びせる。よく頑張った、という言葉が、かけた時間だけを基準に使われ、それにより、どれだけの成果を得たかが問われない。そこから生まれた矛盾だろう。
褒めるという行為が、道筋を誤り、間違った評価が正当化される。褒める為の評価の多くが、結果次第のものから、良い点のみを選び出すものへと移り、悪い部分には目をつぶるとなったことで、客観的な評価は、かけた時間のみを基準とすることになった。仕事の成否は、本来どれだけの時間をかけたかではなく、その質にかかっている。しかし、自らの仕事に対する評価が、正しくできない人々にとって、拠り所は努力のみとなり、どれだけの時間苦しんだかが、唯一の指標となる。以前読んだ本の中に、隣国の人々が、かけた時間への評価を求め、その質を問うのはお門違いのことと、上司に訴えたという話があったが、これはまさに、こういった様相を表すものに思える。ただ、その中で、こちらからあちらへ行っていた人の感想が、こちらの状況は違うとしていたのに対し、現状は、問題視された状況と酷似しているように見える。何処からこんなことが起きたのか。国民性の違いと片付けられたものが、世代交代により、違いが見えぬものとなりつつあるのか。このままでは、ただ単に時間をかけるだけで、何を達成すべきかを考えぬ人々が主流となり、現状維持どころか、下り坂の勢いをどう抑えるかが肝心となる、そんな社会が形成されそうだ。多数の劣悪な人々に目を向けず、一部の優秀なものに手をかけることで、この事態を回避するしかないのかも知れないが、現状からは、あらゆる所に蔓延るその手の人々に、手を焼くことしか見えてこない。目標達成の意味を、もう一度考えさせるしか、手立ては残っていないのかも。
枢軸とは物事の中心という意味のようだが、使われるのは専ら悪い意味の方らしい。ある国の指導者が、敵対する国々をこの言葉を使って表現したのも、世界大戦中の構図を映したものからだろう。競争の中で競い合う相手が居るのは当然だが、それとは別の存在として敵を置くことは、物事を進める上で重要となる。
敵か味方か、の区別は、誰もが簡単に行える二面性の可視化であり、それにより、説明が簡単になるだけでなく、違いを顕在化することで、問題解決の手立てを講じ易くなる、と言われる。だが、それより更に重要と思われるのは、上に立つ人間にとって、自らへの批判をかわす手段として多用されることで、敵を作ることで、下に居る人々の目をそちらに向かせ、組織が抱える問題に気付かせない為の手法の一つとされる。国のような大きな組織だけでなく、小さな組織でも同じ手法が使われ、敵対勢力を置くことで、全体が向く方向を設定する。敵という表現は、分かり易さを導く為のものだから、必ずしも正確なものとはならないが、対抗勢力とすれば、その存在があらゆる場面で、二極化を表すものとして使われ、円滑な運営へと繋がるものとされる。一見、良い所ばかりのものに見えるが、現実には、全ての原因をそちらへと繋げる思考が、問題の本質を見失わせることに結びつき、問題の長期化を招き、解決への道筋を失わせることとなる。悪者を設定することは物語として当然の手法だろうが、現実に、正義に背く悪ばかりのものがある訳ではない。それを無理矢理置くことで、問題解決に繋げるのは、心理的には成立したとしても、全てが丸く収まることは無い。何かある度に、ある国の名前を持ち出し、批判を繰り返すのは、歴史的にはよくあることだが、それで何かが解決したことは、歴史上無かったのではないか。一時しのぎの手立てと見れば、判らぬことも無いが、繰り返されることからして、根本解決には繋がらないようだ。
世の中がそうなっていないからこそ、こんな言葉が使われるに違いない。しかし、肝心な人々には、届きそうにない。だから、何度も繰り返すことで、意識を変えたいと思うのだろう。それでも、聞こえない人には聞こえない。そういえば、と思う人に届けば、それで良いと考えれば、この程度で良いのかも知れない。
分相応とか、足るを知るとか、そんな言葉が、様々な形で使われ、傲慢とも思える行動に対し、厳しい批判を浴びせるのだが、その相手である筈の人々は、自分のこととは気付かず、知らぬ存ぜぬを続ける。夢を抱き、上を目指すこと自体が、悪いこととは思わないが、自らの能力を見極められず、その向上への努力も抜きにする態度では、掛け声だけのことと見なすしかない。こんな人々が巷に溢れ、自らの権利ばかりを主張するに至り、厳しい言葉が次々に浴びせかけられているのだが、当然のこととしか思わぬ人々には、届く筈も無い。自由を謳歌することを最優先とし、それによって手に入れられる筈の権利を、訴えているだけとの見方も、一方で、伴われる筈の責任を、無視する言動が横行することから、無意味と切り捨てられている。そんな中で、大切なことと戒められているのが、自分の器にあった行動であり、それを超えるような要求は、ただ溢れるだけの無駄と諭しているのだ。だが、欲ばかりが優先される時代には、それを満たすことだけが重要と見なされ、限りない欲望には、有効な手立ても見出せないままとなる。こんな中で、昔使われた言葉に注目が集まったのだが、欲に駆られた人間には、届く筈も無い観念だから、彼らに向けては、徒労に終わることはやむを得ない。では、それが判っていながら、何故、あれ程までに強く訴えられるのか。そんな言葉を使う人の多くは、どっち付かずの人に期待しているのかも知れない。時流に流される人々の中には、才能ある人も居る筈と見なし、彼らに気付いて欲しいと思っているのではないか。
当たり前と受け入れられる考え方に、役に立つかどうか、というものがある。道具が役に立たなければどうしようもないが、将来に目を向けて、そんな判断をすることが、当然のように行われる。無駄になるものに手を出すより、何らかの形で有益になるものに、と思うのは、効率を重視する時代には自然という訳だ。
対象を考える時に、そんな評価基準をおくのが当然、となる訳だが、その対象が人間となり、自身が評価される側に立たされると、気分は大きく変わる。役に立つとされれば良いが、役立たずなどと言われては、お先真っ暗となるからだ。評価は、どちらに立つかで、気分が大きく違ってくるのだが、特に、将来に対するものとなると、確実な判断は困難だろう。にも拘らず、基準を設け、選択の判断を下す。何故かと思うのは少数派であり、大多数はそれが効率を高める方法と信じている。確かに、時にその手の判断を下さねばならぬ場面に陥るが、それ以外の場面で、どちらかと言えば、好悪による判断を、役に立つかどうかの判断に変換し、正当性を押し出そうとする。最近の傾向は、特に、選択を重視するようだが、その根拠は脆弱なものに過ぎない。そんな話題に触れる時、思い出すのは、学校で教わる事柄の、役に立つかどうかについての論争だ。有識者が数学の無駄を指摘した意見に、賛否両論が寄せられたものだが、成人後に役立つかどうかの判断基準に、呆れた声も多かった。一度も使っていないなどとまで言われては、彼女の生業である文学も、本を読む暇など無かった、と言われては、反論のしようも無い。そういう立場だからこそ、全体の意味を掴める筈と、委員に任ぜられたのだろうが、その器ではなかったということか。夫婦揃っての暴論に、その後は、無視する動きが高まったが、今の風潮は、それとそっくりな気がする。劣悪な人間には、こんなことが必要との考えが、社会全体に広まったと言えばそれまでだが、目的達成を重視する考え方には、そういった人間の排除へと繋がる、危うさばかりが目立つ気がする。
多数の死者を出した大震災、特に、地震の揺れではなく、その後の展開での惨事によるものとなれば、その時の気構えが大切とされる。十数年前の時は、建物の崩落と火災によるものだったから、気の持ちようが話題にされることも無かったが、数年前の時は、避難を必要とする災害だったから、気構えが表に出た。
子供たちだけでも、十分な対応ができたとの話が伝わるに連れ、頼りにならない知恵の問題ではなく、決まった対応こそが重要との見方が、優先されるようになった。前者のいい加減さを問題視すると共に、後者を固めることの重要性が強調される。だが、成果ばかりに目が集まり、個人の考え方の違いには目が向かなかったようだ。結果として、助かった人々の行動には、ある一定の法則が当てはまるが、そこに心の動きが加わると、そう簡単な話にはできないようだ。それでも、助かる為の手立てが、何も考えずに逃げることとされると、その為の障害となるものが、糾弾されるようだ。その中で、度々取り上げられているものに、自分だけは大丈夫という考えの危険性があるが、時と場合によるとの付言は無い。過信の危険性を指摘したものだけに、それを弱めるような言葉はこの際不要と見なすのだろうが、どうなのだろう。頼りにならぬ知恵に縋る人々への忠告だから、この点を強める必要はあるけれど、その一方で、巷では心配やら不安やらを矢鱈と口にする人が居る。彼らが、自分は大丈夫ではないと考えているのなら、問題無しとなるが、口にする言葉と本心は別、という見方もできる。果たしてどちらか、を問題にする気はないけれど、こういった形で一方的な決めつけだけが、流されるのを眺めると、社会の抱える問題が如何に深刻であるか、判るような気がする。