パンチの独り言

(2013年5月13日〜5月19日)
(自力解決、比較、偽物、教えて、ただより安い、見張り、千差万別)



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5月19日(日)−千差万別

 新しい生活への適応が間に合わず、体の変調を訴える人が出る。丁度そんな時期だとの声も聞こえるが、当人にとっては、原因がはっきりせず、不安が募ることもある。そんな中で、時に救いの声のように聞こえるものが、心の病とか、精神の不安定といった見立てだが、問題は殆ど解決していないのでは。
 事程左様に、原因を知るだけで満足する人は多い。でも、問題に直面した時、肝心となるのは、原因追及ではなく、解決への道筋を見いだす事ではないか。原因がすぐに解決に繋がらないのは、実は、断定的に扱われる原因が、本当には、何を指しているのかはっきりせず、言葉にはなったものの、理解へとは繋がらないからではないか。自分の問題だけでなく、子供の問題でも、こんな場面に出合う事は多いらしく、問題を抱えた親子の戸惑いが、垣間見える気がしてくる。親の育て方に問題があるのには、責任を感じるけれども、親から子に受け継がれた性質の問題とされると、責任を問われずに済む、との考え方が、時に紹介されるけれど、どうにも理解に苦しむものと思う。どちらにしても、原因の出所は、親にある。ただ、親の意志が働くものかどうかに、違いがあるとの考えから、親もその親から受け継いだ事には、自らの責任が問われる事はないと思い込む。それが救いとなるのだから、不思議に思うのだ。もし、そう考えるのなら、もっと前から、問題に取り組む姿勢ができていて良いのではないか。自分が育った環境を眺めれば、そこに解決の糸口が見つかる筈なのに、他の要因へと目を奪われ、核心を見失う人が多いからこそ、こんな行動様式が、当然のように受け取られるのだろう。人それぞれの違いは、元々、多種多様なものであり、それぞれに対応の仕方も異なる。それを知ることもなく、他と同じにすることこそ、諸悪の根源に見える。

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5月18日(土)−見張り

 また垂れ流しを始めたのか、と思いながら、眺めていた。報道機関の役割は、時代の変遷と共に様々に変化し、最近は、単なる伝達機関としてより、好まれるようにという意図が、前面に出されるようになって来た。誰に、と思う人も居るだろうが、特定の人ではなく、大衆に、なのではないだろうか。
 烏合の衆に対して、教え諭さねばならない、という思いを抱いた時代は、遠くに霞み、今や、望まれるものを差し出す、といった行動をとる。不安が望まれれば、それを煽る論調を強め、安心が望まれれば、それが可能な状況を描く。どちらも、上に立っていた時代には、考えも及ばなかったやり方だが、同じ所に立つようになると、これが当然のものとなる。だが、普通に読めば判るように、狂気に満ちた要求に、応えることが何を叶えるのか、狂った考えからは、狂った状況しか生まれない。それらを、冷静な判断で抑え込み、平静を保つことこそが、平和な時代を長続きさせる為に、最重要なことに思えるが、平穏は、自らの最大の敵との見方からか、騒ぎを起こすことへの使命感が強いようだ。戦争加担の罪悪感から、世の流れに逆らうことの重要性を説いた人々も、既に殆どが鬼籍に入り、再び、そんな流れに乗り始めた。そんな中で、不確定な学説が大手を振って歩き回る専門分野の人々が、自らの責任が追及されない為の選択を、当然のように行い、施設の直下に危険因子が潜むことを断定した。報道の多くは、即座に反応し、廃止の可能性を、これまた断定的に伝えた。当然の成り行きだが、あれ程、いい加減な分析と不確かな知識を振り回す人々の集まりが、どんな確かさを示せるのかに、疑問を示す動きは殆ど無かった。当時の新聞を眺めていたら、一つだけが、分析への異議を唱える論調を示していたが、同時に、その不確かさの上に立つ、断定的な筋書きも伝えた。損得勘定とは、単に金銭にかかるものだけでなく、健康や心の安定などをも、取り入れねばならぬものだろう。となれば、更に多くの要素を検討してこそ、見張りの役目が果たせるのではないか。

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5月17日(金)ただより安い

 今回の不通は、恐ろしく長く感じられた。ツイッターの中でも話題が飛び交っていたから、多くの人々が被害を受けたに違いない。しかし、ここは所詮無料の場所なのだ。pf-xというドメイン名を持つ場所は、全部で6つのサーバーを抱えているようだ。今回は、その全てが機能不全に陥り、殆どのサイトが閲覧不能となった。
 有償の提供場所ならば、一日を超えるような問題は、補償問題として取り上げられるだろう。しかし、広告の表示もなく、どんな形で運営されているのかも分からない場所が、無償で提供されるとなって、首を傾げることはあっても、疑いを向ける人はいない。現時点で、どの程度の数のホームページが設置されているのか、管理者以外には知る由もないが、多くの人々が利用しているのだと思う。比較的安定した運営で、定時の遮断時間を除けば、殆ど問題を示さなかったが、最近は、時々、不思議な挙動を示すこともあった。独り言と昔の掲示板に関しては、殆ど全てのデータをこちらで保存しているから、最新のものを除けば、心配する必要もないのだが、いざ、反応が無くなると、心配は膨らむ。これまでであれば、サーバーの一つが落ちてしまう程度の問題だったが、今回は主たるものが落ちたのではないか。それが全ての機能停止に繋がったと想像される。それにしても、有償が当然だった時代と異なり、今や、無償がごく当たり前のように受け取られる。こうなると、ただにも権利があるとばかり、何やらいちゃもんがつく時代がやってくるかも知れない。施して貰うことへの感謝は消え失せ、度を過ぎた要求が突きつけられる。そんなことになったら、また金を取ればいい、というだけなのかも知れないが。

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5月16日(木)−教えて

 「教えてくれない」という声が聞こえてくる。ところが、これは教育の場ではなく、職場からなのだそうだ。初めてのことで、できないのは当然なのだから、懇切丁寧に、一から教えて欲しい、との要求のようだが、現場では、「何様」などという声もあるらしい。これを読んでいる人は、どちらに与するのか。
 互いの理解不足、という形で片付けようとする向きもあるけれど、根本的な問題として浮かぶのは、本当の理解は可能か、という点と、必要か、という点だろう。教えるという行為にも、受け手の理解が必要となるのだが、ここでも、理解とはどんなことか、確かな基準がある訳ではない。受け手から見れば、判るように教えてくれれば、自分にできないことは無い、となるのだろうが、理解自体に基準が無いのに、こんな要求を突きつけられても、言われた側に、効果的な方策が浮かぶ筈も無いだろう。自らの経験を糧に、これまでは技術や知識の継承が行われて来た。その殆どは、今の人々が当然と思うような、一から教えて貰ったという形ではなく、断片的な知識の獲得とそれに続く自分なりの統合の繰り返しであり、それによって得たものを、更なる確認によって確実にして行く、という手順だったのだろう。それを当然と考えるのも、経験上、できることの確認ができているからで、最近聞こえてくる声のように、成果の保証が無いものとは、明らかに異なるからだろう。だが、現場とは違い、社会は、弱者を優遇する方に向いている。教えてと言っているのなら、教えてあげれば良いという訳だ。「あげる」の使い方の大間違いは別の機会に書くとして、教えての意味を定めずに、要求に応えるのは、大きな誤りだろう。教育の場では、これより強い要求があるようで、そこでは、何が試験に出るか、が教えていることと受け取られているらしい。職場での要求も同じ人間がしていることを考えると、彼らの望みは、想定されるもの全てへの対応であり、その枠を超えることはない。となると、想定外は、どうなるのだろう。

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5月15日(水)−偽物

 過去の出来事に対して、様々な分析を施す。よく聞く話なのだが、どんな意味があるのか、分からないことが多い。分析や解析は、何らかの目的を持って行うものだが、常態化した中では、やることが当然となり、肝心の目的はぼやけてくる。一方、見方次第で、異なる結論が導かれるとなると、乱立の様相を呈す。
 目的は不明確だが、見方を決めることで、態度だけは決まってくる。これが、風を読むことと結びつき、偏った分析結果が出されることも多く、客観的に見せながら、その実、主観に基づく結果が表に出る訳だ。こうなれば、見せられる側が、その背景を読み取り、思惑を見極めねばならない。そんな状況もあり、色眼鏡をかけながら、分析の結果ではなく、垣間見えるだろう思惑を読み取ろうとする人も多いのではないか。大量の情報が流れる社会では、特定のものに接する人の数は、多くはない。それでも、流す側は、立場を明確にし、自らの役割を果たそうとする。二年を経て、事故やその対応に関する分析が、様々に行われて来たが、節目としての評価を下そうとする動きも多い。偶々手にした科学雑誌に、そんな記事を見つけたのだが、一種能天気としか思えない内容に、呆れてしまった。マスメディアと呼ばれる組織に属する人のみが集まった座談会で、盛んに批評を繰り返す内容には、職業意識が見えるものの、自らが導いた誤解や煽動にも、更には、人々の安全安心を希求する声への不適切な対応にも、何の反省も見られず、結局は、垂れ流しの片棒を担いだことへの反省が、少し見られただけなのだ。他への批判を常とし、自らを標的とすることに不慣れな人々は、こんなお茶濁しでも、十分に通じると思うのだろう。多くが既に一線を退いた年齢であることから、彼らが築いた仕組みの欠陥と思えるだけに、自己責任には触れたくなかったのか。それにしても、最大の驚きは、この雑誌の編集方針にあり、科学と呼べぬものをこんな形で主張して、何の意味があるのか。

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5月14日(火)−比較

 確率は、どの程度の割合で起きるかを示すものだろう。だが、それが自分に起きるかどうかは、1か0であり、割合で示せるものではない。そんな気分の人たちに、確率がどう聞こえるのかと言えば、起きる割合ではなく、起きた時の深刻さの割合となるのではないか。となると、意味は全く伝わらないのだが。
 程度の問題とは、理解する為の手立てとなるとされるが、このような形で誤解へと結びついては、無理解どころか、曲解へと繋がってしまう。だが、数値で示された時の反応は、人それぞれに築き上げて来たものだけに、正しい理解への転換は容易ではない。社会現象として、極端な反応が軽視されるのではなく、一つ一つを取り上げ、対応を試みることが当然となると、曲解が権利を得て、無理難題に取り組むことが、義務の如く扱われる。そんなやり方に慣れてしまった人には、手間がかかろうが、無駄と思おうが、当然の手順を経ることが優先されるから、こういった傾向は強まるだけとなる。正確な理解が困難であれば、同じ感覚のまま、その情報を使うことを考える必要がある。正しい理解とは言えなくても、誤解や間違いではないものを、確率の話から導き出すとしたら、何があるのか。一つは、各事象毎の確率を、互いに比較することがある。どちらがより起こり易いのか、という意味に過ぎないが、少なくとも、複数の間での選択には使える。結果としては、0か1であるから、何の変わりもないけれど、その場での対応には使えるだろう。実際には、一種の重み付けであり、人は選択の度に、同じことを行っている。時間と金額の対比や、気分と報酬の比較など、様々な形で、比較不能なものにまで、同じ手法を適用するが、それで良しとする訳だ。こう考えると、確率も使いよう、という気分になるのではないだろうか。

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5月13日(月)−自力解決

 攻めの姿勢が消え、待ちの姿勢が強まる。何も変わらないのでは、と思う一方、身近な人々の態度に、首を傾げることが多くなった。問題を解決する能力はあるものの、問題を見出す能力は劣っている、と言われる人々は、傾向と対策に長ける一方で、見たこと、聞いたことの無い話に、戸惑うばかりとなる。
 積極と消極の違いとも言われるが、何とも表現し難い違和感を抱く。危機感に満ちた雰囲気さえ、それへの対応の仕方が、大きく変化したように言われる。不安の表明はするものの、それへの対応は、表立って進まず、悪い状況を打破する力は、内から現れる気配さえ見せない。何かしらの打開策が講じられれば、自らの立場も好転する筈との期待も、これ程長い期間に渡り、悪い状態が続くとなれば、重い腰を上げる必要は明らかだろう。にも拘らず、相変わらずの待ちでは、何の変化も生じないのではないか。懇切丁寧に教えることこそが、理解への早道との見方は、依然として、強いままではあるが、一部には疑いの目を向ける人の声が聞こえ始めている。想定通りの問題設定と解決法の提示では、丁寧さが重要な手立ての一つとなるが、想定外のものを相手とする場合、数少ない経験では補えず、自ら動くことしか、道を見出す手立ては無いように見える。だが、現実には、いつまでも待ち続ける人々が列をなし、外から何らかの助言が届くのを心待ちにする。助言も、その片鱗が見えるだけでは不十分で、正答を欲する態度ばかりが強くなる。その上、悪い状態が続いた為か、好転の気配が感じられず、不安ばかりが膨らむこととなる。だが、自分の問題として考えた場合、目に見える変化が無くとも、攻め続けることが重要となる。他力本願が常識となってから、自分で苦しんだ上で解決に辿り着く道は、余りに遠いものとして映るようになった。だが、状況が悪いからこそ、自力での解決を目指すべきであり、その為の努力を惜しまぬ態度が必要なのではないか。

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