懲りない人は、どんな世界にも居るのだろう。自分たちの無責任な発言が引き起こした騒ぎに、自らの正当性を並べるのみでは、解決の糸口は見出せない。しかし、被害者を装う人々は、この時ばかりと、別の主張を繰り返す。平行線を辿るのは、何故かと思っていても、答えは容易には見つからない。
確かに、発信源の無責任さは、大きな要因の一つには違いない。だが、その伝達者たちの無責任さも、かなり大きな影響を及ぼしている。懲りないという意味では、後者も、相変わらず懲りないままであり、核心を突く分析は消え失せ、何やら騒ぎを大きくするだけの役に徹している。放射能の話題も、懲りない話題に事欠かないようで、先日も、実験の失敗に始まる事故が発覚した。未だ詳細は明らかにならないが、これを伝える中で、首を傾げる情報の提供があったことに、どの位の人が気付いただろう。例の大事故の直後には、知識不足を補う為に、様々な工夫が施され、十分な理解を得る為の努力が繰り返された。しかし、誤解を解くこともできず、不当とも思える批判の雨に曝された人々は、押し黙る行動に移った後、再び姿を現し始めた。その中で、今回の報道では、どんな不思議が起きたのか。被曝線量を伝える中で、単位はそれなりに示されるものの、それがどのような時間を対象とするものか、全く示されない。正確な情報の為には、どの位の期間に受ける線量かを知らねば、何の議論もできない筈が、それに関する数値は示されない。これは、どんな理由によるものなのか。多分、件の人々は、受け手の理解が望めないので、適当なもので構わぬとの判断を下したとするだろう。だが、その考えでは、永遠に理解を得ることはできない。これもまた、別の懲りない人々の存在によるものだろうか。つまり、不安を口にするばかりで、理解をすること無く、間違った情報を鵜呑みにする大衆が、こんな事態を招いているのではないか。
水はこの星の生き物にとって、命を長らえる為に不可欠なものである。人間もその範疇にあり、文明の盛衰は水の存在に左右され、嘗ての姿を留めぬ程荒れ果てた土地に、名残は欠片も見えてこない。栄えた時代の勢いが、傲慢さへと結びつき、一方的な搾取の末に、自らの命さえ絶ってしまう結果を招いた。
分相応に過ごせば、細々とでも暮らし続けられたものが、限りない欲望を満たす為へと、度を過ごした開発は破壊へと繋がる。何も近代に限ったことでなく、古代文明の滅亡は、その多くが水との繋がりで起きたものと考えられる。水の豊かな国に生まれた人間にとって、あることが当然の存在に、危機感などありはしないと思うかも知れないが、水の奪い合いが烈しかった歴史は、その大切さを物語る。自然の恵みの奪い合いが、人の欲望の現れだったと同じに、人の手を入れることで、飲める水を手に入れる事業が、世界中で注目を浴びている。汚水を澄んだ水に戻す仕組み、塩水を真水に変える仕掛け、基本的な原理は、昔から行われて来た濾過の発展だが、最新技術を用いることで、量の問題を解決へと導く。命へと繋がる事業に、人は多くの金を注ぎ込み、特に、有り余る程の資金を、天然資源から手に入れた人々は、豊かな生活を享受する為の要素として、豊かな水を手に入れたいと願う。そこに好機が訪れるとばかり、技術供与を提案し、高額の事業を立ち上げるのは、経済の繁栄を続ける為に、当然のことに違いない。しかし、自然に逆らう行いが、様々な問題を産み出したことは、歴史が明らかにしている。人の手が、必ずしも幸福に繋がらず、一時の繁栄が、滅亡へと転がることは、多くの例が示している。水の事業も、均衡を崩す可能性があることに、気付かぬ筈も無いが、欲に目が眩んだ人たちは、そちらを見ないことにしているのではないか。
鍍金が剥がれた、とは言われたくはないだろう。それにしても、書いた途端にあれ程の急変に襲われるとは、驚くしか無い。気分でしかないものだけに、否定するのも、実は難しくはない。気分が失われるまでは、大丈夫と言い続ければいいだけだ。実体の無さは、鍍金と揶揄されて当然だが、移り気も当然なのだ。
急変に関しては、様々な要因が考えられ、直後にも原因の特定を試みる動きがあった。要因を並べるのはさほど難しくなく、誰でもできることだ。しかし、最大の要因は、と問われると、皆口を噤む。様々な要因が重なり、これ程大きな動きへと繋がったとするにも、何故との問いに対する答えは得られない。経験に基づく分析も、何度も書いているように、殆ど役に立たないことが多い。特に、稀な事象に関しては、その傾向は強く、経験が徒になることさえある。最近の傾向からすると、的確な対処を逃さぬ為の仕組みが、こういった一本調子の動きを招くことが、考えられる。いつもその為と決めつけられる訳ではないが、人間の心理による狼狽ではなく、機械の仕組みによる連鎖反応が、こんな形で現れることが、度々指摘される。仕掛けを設置するのは人間だから、心理に裏付けられたものとの分析もあるが、多くの筋書きが、十分な検証も無いままに作られることを考えると、少し違う感じがする。特に、危機回避という意味では、危機に襲われることばかりが想定され、危機を招くことを考えに入れないことに、大きな問題がありそうに思える。特に、渦の中に入ってしまった時、どんな反応をすべきなのかは、十分な検討をする必要がある。とは言え、所詮、気分によるものと見れば、また、気が変わることもあり、余り気にする必要も無いのかも知れない。
株価は景気の指標となるから、急激な上昇を目の当たりにすれば、景気が良くなったとの分析が出るのも当然だろう。だが、資産の増加を喜ぶ人以外には、日々の生活がどう変化したかが、もっと肝心なものである。それも、浮かれた気分となり、財布の紐を緩める人を見ると、やはり良くなったとするようだ。
だが、気分に振り回される人は、所詮、噂や不確かな話に左右される。それらを意図的に取り上げ、如何にも実態を示しているかのように振る舞う手法は、相変わらず、情報操作の好手段として使われている。確かに、一部を示すという点では、間違いではないものの、全体を表すものかと言えば、そうではない。好景気という評価も、そんなものを頼りに下すようでは、早晩、不確かなものと糾弾されかねない。そんな中で、様々な指標が引き出されているが、どうも、決定的なものは見えてこない。最も肝心とされた収入増は、企業の単位では実現されつつあるものの、個人には還元されては居ない。それを強制的にでも実現しようと、様々な圧力がかけられつつあるが、自由主義の根本から言えば、明らかな間違いとされる。ここでの歪みを強いれば、いつかその反動が訪れると見る向きもあるものの、浮かれた気分の人々は、その場の利益に目が奪われ、長い時間で眺めることをしない。急激な変化で、一気に落下した経験を持つ筈だが、そんな記憶は、何処かへ追いやってしまったのか。手に入れたい一心の反応が続くが、どうなるものだろうか。更に、気になることは、個人の収入が増えたとしても、国の状況が好転することには繋がらない。人気取りの手法の限界は、この辺りにあることも、既に経験済みの筈が、見て見ぬふりを続けようとする。徐々に築くべき仕組みを、一朝一夕に積み上げようとすれば、此処彼処に穴が残るのは当然なのだが。
教育の現場が荒廃していると言われたのは、遥か昔のことだが、その後、どうなっているのか。世間の話題を見る限り、問題は無くなることはなく、続々と噴出する課題に、手が回らない状況が続く。要求が当然の権利となり、無理難題にさえ取り組まねばならない事態に、人不足が加わり、解決は兆しも見えない。
一時は勉強を教えることが第一と、その能力ばかりに注目が集まった。問題の解き方さえ教えてくれれば、学校の意味はあるとした考えは、荒廃が極まるに連れ、大いなる誤りと糾弾され、その役は私塾に手渡された。では、何が学校の役割か。社会への適応を促すとの見方は、古くから示されて来たものだが、一時は無意味と打ち捨てられていた。成長の過程で、様々な問題を抱え、手助けを必要とする子供たちが、目の前に居るのに、それを無視する風潮が高まったのは、悲劇の一種だったのだろうが、今は状況が少し違っているようだ。人格形成への関わりは、様々な形で行われるべきで、教育という観点からも、学校だけが担うべきものではない。だが、昔の任せる文化は、いつの間にか、責任転嫁の文化へと転換し、同じように役を渡すにしても、任せたからには文句も言わずというやり方が、押し付けた上に山のような注文も出すというやり方に変わって来た。これにより、問題を抱える子供への対応が、仕事の中心に据えられ、他への対応が疎かになる。食事の機会が与えられる中で、食物への過剰反応を示す子供への対応も、親だけではなく教師の責任ともなれば、何が起きるか、想像に難くない。そんな中で、更なる役割分担を強いられては、能力の欠如が露呈するのは無理もないことだ。特別扱いを如何に無くすかが、いつの間にか目標に据えられたようだが、命の危険さえ、特別に扱えないことには、強い違和感を抱いてしまう。本務は何か、真剣に考えねばならない。
言葉は意思の疎通の為の道具の筈だ。筈なのだが、蔑ろにする人が多く、自分の考えが伝わらずに、地団駄を踏む姿を見る。相手の理解力を批判の対象とするが、実際には、自らの表現力に問題があり、不適切な言葉の選択や誤った使い方により、正確に伝える事自体が難しくなっている場合が多い。
こういった人の多くは、実は情報収集力に関しても、大きな問題を抱えている。自分の話に問題があるだけでなく、実は他人の話を聴く場面でも、失敗を繰り返すことが多いのだ。先入観や思い込みなど、様々な要素があるにしても、相手の話の一部しか聞かず、理解から遠ざかる。理解不足の上に、誤解を重ねれば、正しい理解は程遠いものとなり、知識不足が補われることは無い。そんな基盤の上に、自らの理解を他人に説明するのだから、困難があるのも無理は無い。何処かで、考え方を転換するべきなのだろうが、この手の人々は、問題の核心を捉えようとせず、周囲の責任を口にし始める。自分は悪くないとの考えは、防衛手段としては重要だろうが、相手から見れば、単なる言い訳にしか過ぎず、自らの努力や認識の不足を露呈するだけだろう。時に、彼らが育った環境が悪いとの指摘も出るが、おそらく、何の役にも立つまい。原因を指摘したとしても、解決の手立てが見出せなければ、どうにもならないからだ。では、何が役に立つか。冷たい言葉掛けにしかならないが、自分で問題を見つけ、解決するしか無い。他人の意見を聞き取れないのは、思い込みもあろうが、集中力の欠如も大きい。自分の言葉への注意も、知識だけの問題では無いだろう。多くの場合、注意散漫が取り上げられるのも、そんなことがあるからではないか。ただ、この問題は、自分でしか解決できないのだ。
ものを書く機会が増え、その反響が気になる時代となった。昔なら、読み物を書き残すことができる人は、ほんの一部に限られ、大多数は読む側に座っていた。それが、参加型の仕組みが作り出され、誰もが思いを書き残すことができるようになっただけでなく、反応までもが手に入るようになった。
こうなれば、人はそれぞれに、より良い反応を期待し、その思いを文章に込める。読み易いとか、分かり易いとか、そんな指標も重視されるが、数多ある中で注目を浴びる為には、主張の独自さがより重要なものと受け取られたようだ。独自とは、諸刃の刃となるもので、良い意味だけでなく、悪い方の意味にも使われる。賢人たるべきもの、という考えを主体としようにも、他人を納得させられるものが見出せず、消えてしまった人が沢山居たのに対し、普通ではない考え方が、異常さの現れへと繋がり、狂気に満ちたものを披露する人々は、勢いを失うこと無く、雨後の筍のように現れ続ける。確かに、極端な意見であれば、大した考えも無しに、それに行き着くことが可能だろうし、論理性に欠けたものであれば、それを気にする必要も無い。誰もができるということは、匿名性が加わることで、勢いを増すばかりとなり、多くの場が狂った世界へと転換した。だが、狂気は無視することで、外の世界へと追いやられる。結局、一部の同類の集まりと化し、忘れ去られてしまう。本来の目的である、書くことと読んで貰うこと、からすると、見失われてしまった訳で、達成どころか、遠くに霞んでしまった。となれば、所期の目的に戻り、真面目に書き、真面目に読むことが必要だろう。その為か、最近は文章の書き方を記す本が、矢鱈に出されている。改めて学ぶことも重要だろうが、日頃接するものを選ぶことも大切だろう。その点、最近の情報には、意味不明な文や悪文が溢れ、その真似は為にならぬことが多い。この国の宰相さえ、自らの発言を、我が国と冠する訳で、不適切と思える。一人称単数のもつ意味が、最近の文章で軽んじられているのは、かなり深刻な問題に見える。